月は笑う
ももくり
月は笑う
──ああ、とうとう知られてしまった。
「月乃様、なぜ隠していらっしゃったのですか?」
「こ、これはそうじゃないの」
もう何を言っても無駄だろう。
「何が違うと仰るのですか。これも、これも…皆、明らかに暴力を振るわれた跡ですよね?どうしてこんなになるまで…」
「違うわ、自分でぶつけたのよ」
呆れた様な表情が全てを物語っている。私だって目の前のこの人を騙し通せるとは思っていない。それでも何とか伝えたかったのだ。私は大丈夫だと、だからこれから起こるであろう出来事をなるべく穏便に済ませて欲しいと。
「申し訳ありませんが、有りのままの状況を報告しなければ今度は私が罰を受けてしまうのです」
「それは分かっているわ。でも、助けて!お願いよ、一生のお願い!」
まるで子供のお強請りみたいだと自嘲しつつも、続けて懇願する。
──窓の外には、
何も知らない月がポッカリと笑っていた。
[使用人・戸田美香からの聴取]
ええ、はい。
私の奉公先である
だって、自分はしがない使用人ですから。
丈領家はちょっとした王国みたいなもので、本家を囲む様にして3つの分家が建っているんですよ。一番近いのが当主の弟である篤志様御一家で、そこには篤志様ご夫婦と一人娘の
ところがその和沙様が問題でして。
見た目は確かに美人ですけど、性格が最悪と申しましょうか。確か私と同じ29歳のはずなのに、非常に幼稚な考えの持ち主なのです。ふふっ、学生時代にもいましたよ、誰か1人を標的にしては陰湿なイジメを繰り返す。それも決して自分の手は汚さず、子分に命令するだけの女王様が。
本家で標的になってしまったのは、
お可哀想な月乃様でした。
月乃様は丈領家の跡取りとも言える京介様が一年前に娶った、つまり若奥様に当たります。この結婚は当主の一存で決まったそうで、ある日突然、月乃様は連れて来られました。小菊の様に可憐で愛らしい月乃様と男性でありながら見目麗しいという表現がピッタリな京介様との夫婦仲は特別良いとは言いませんが、決して悪くもございません。
どうやらその頃から当主は大病に罹っていたらしく、京介様の結婚を機に夫婦揃って山奥へと引っ込み、現在も療養中のままです。何もかもいきなりだったので、当時は私共も大忙しでしたよ。それと言うのも彼女…いえ、失礼致しました。月乃様は一般家庭の出らしく、丈領家のしきたりや習わしを全然ご存知ありませんでしたから。
だけど、おかしな話だとは思いませんか?丈領家ほどの名家であれば、それなりの家格の御令嬢を結婚相手に選ぶはずなのに。とにかくまあそんな状況でしたので、たぶん当主ご夫妻は瀧さん…あ、この人は執事的な役割を担う男性で、今年50歳になる古株です。えっと、話を戻しますとこの瀧さんが月乃様の面倒を見てくださると考えたのでしょうね。
いえ、それは当然なのですが、そう上手くはいかないのが世の常でして。残念ながら月乃様はあまりにもお優しかった。使用人に対して威圧的に命令すれば良かったものを、いつでも遜り、丁寧な口調で『お願い』されたのです。それでもまあ、最初のうちは主従関係も和やかでしたよ。
そこに登場したのが、先の和沙様です。
彼女が京介様にご執心だったのは、周知の事実だったかと思います。その和沙様が用も無いのにたびたび本家にやって来ては、次第に自分が女主人であるかの如く振る舞い出したのです。勿論、京介様が不在であることの確認は怠りません。
悲しいことに人間は強い者に媚びを売り、
弱い者を軽んじる生き物ですから。
自分の望みが叶うまで何度も、…そう、時にはヒステリックに命令してくる和沙様。瀧さんは次第にその言い成りになっていくのです。使用人を取り纏めるべき存在の瀧さんがそうなれば、下の者もそれに倣い出すは当然のことでしょう。
京介様からの伝言をわざと伝えなかったり、電話を取り次がなかったり。最初はそんな些細なことでしたが、不手際を咎めず京介様に告げ口もしない月乃様の態度は、使用人達を図に乗らせてしまいました。彼等の態度は更に悪化し、食事の用意を怠ったり、月乃様の私物を盗んだりと好き勝手するようになって、それでも平然としている月乃様に和沙様は業を煮やしたのかもしれません。
そして、遂に身体的な嫌がらせが始まるのです。
それはもう巧妙で、例えば手が滑ったと言って熱いお茶をかけたり、偶然を装って廊下で体当たりするといった感じでしょうか。あ、私はさすがにそんなことをしていませんよ!むしろ隠れて食事を運んでいたほどなので。そんな時、月乃様は嬉しそうに『ありがとう』と笑ってくださいましたっけ。
ああ、本当に今でも悔やまれます。あの時、私が京介様にお伝えしていれば。でも言い訳をさせて頂くと、使用人にも階級がございまして。下っ端の私に京介様と話す機会など有りませんし、そもそも京介様はこの1カ月の間、海外の自社工場で発生した火災の後始末に追われて不在でしたから。
そんな時に月乃様が階段から突き落とされ、
私は胸が痛いです。
しかも、和沙様の画策により丈領家の主治医がすぐに来てくれなかったのでしょう?それで月乃様が長年お世話になっていた医師が呼び出され、診察の際にご懐妊が判明したと。流産の危機は脱したと聞きましたが、その際に全身の打撲痕と火傷が見つかり、使用人達の日頃の悪事が白日の下に晒されてしまったそうじゃないですか。
ええ、どんな罰でも受けますとも。
私は黙っていたことを心底後悔しているので!
[月乃の専属使用人・泉恵子からの聴取]
私は、月乃様の御父君からの指示で、共に丈領家へと入った者です。いえ、周囲の人々にはそうとは伝えおりませんので、きっと何も気付いていないでしょう。月乃様が嫁ぐ一年も前に面接を受け、普通に使用人として採用されておりますから。勿論、月乃様は私の任務をご存知です。
そう、私の仕事は月乃様を守ること。
そして月乃様にのみ忠誠を誓うこと。
それなのに、月乃様を守り切れませんでした。
残念ながら、御本人がそれを望まなかったのです。このままでは大怪我をするから報告させてくださいと何度もお願いしましたが、その度に月乃様は『私が我慢すればいいだけだから』と涙ながらに私をお止めになって。それで仕方なく…そう、仕方なく現状維持となってしまったのです。
いえ、そんな、弁解するつもりではありません。ですが、月乃様の性格はご存知かと。例の事件の後、塞ぎ込まれて立ち直るまでに何年も掛ってしまったではないですか。だから、あんな心の傷を再び負うくらいならばと今回は月乃様の仰る通りに…。
本当に月乃様が妊娠されていたことは知らなかったのです。知っていれば、どんなに止められても奴らの悪行を報告しましたとも。ええ、そうです、今となればその判断が誤りだったと激しく後悔しておりますが。
これまで月乃様がされた仕打ちは、全て報告書に纏めて提出済みです。使用人の名前も明記してありますし、その身上書も添付しておきました。あの、お願いがございます。私はどんな処罰でも受けるつもりですが、奴らにそれ相応の償いをさせてからにしていただけないでしょうか?
奴らの最期を見届けさせてください!
そうでなければ死んでも死に切れません!
[丈領月乃の独白 ~6年前~ ]
普通の家に生まれ、
普通の家に育ったと思っていた。
…あの日までは。
両親と姉の4人家族。自分だけ誰にも似ていないけれど、偶に訪れるリュウ伯父さんには似ていたのでそれほど気にしていなかった。リュウ伯父さんは見るからに温厚そうで、いつも羽振りが良く、何故か私にだけ異常に甘かった様に思える。
それはいま考えると当然のことなのだが。
全てが明かされたのは、高校の卒業式が過ぎてから。打ち上げパーティーでハメを外したクラスメイトが私を脱がせ、裸の画像を同級生にバラ撒いたことが発端だ。泣いて抵抗したのに、彼等は止めてくれなくて。後で知ったことだが、彼等は私の女友達のことが好きで、その女友達に頼まれて仕方なくそうしたのだと。
そして何故、女友達がそんな依頼をしたのかと言えば、彼女が長年片想いをしていた相手が私に告白すると宣言したからで。さすがにレイプまでいくと犯罪になるし、恥ずかしい画像をバラ撒けば意中の彼が幻滅するのではと考えたらしい。
ひっく、うっ、ぐすっ、うう…
そんなことを、家族に話せるワケも無く。かと言って胸の内に秘めておくことも出来なくて、いっそ死んでしまおうかなどと思い詰めていたら、卒業祝いを抱えたリュウ伯父さんがヒョッコリ顔を見せた。いつもの笑顔に気が緩み、泣きながら全て打ち明けた私をリュウ伯父さんは優しく励ますのだ。
「大丈夫だよ、全部伯父さんに任せておけ」
「えっ、どうするの?」
その返事は無かったが、何となく安心して。
泣き疲れたので少しだけ眠ることにした。
「──おはよう、月乃。よく眠れたかい?」
「あっ、うん。やだもう朝なの?!」
少しだけどころか、一晩グッスリだったらしい。
『あんなことが起きた後なのによく眠れるな』そう思われていないか不安で、リュウ伯父さんの顔を覗き込む。すると見知らぬ女性が部屋に入って来て、いきなりタブレット端末を渡された。
「月乃、コイツは俺の部下だ。お前を襲わせたブタ女と、実行犯のクソ男どもは消しておいたからもう安心しろ」
「消したって、どうやって?」
その言葉の意味が理解出来ず、ひたすら首を傾げていると部下の女性がタブレット端末に画像を表示させた。一瞬、マネキンなのかとも思ったが、顔に視線を移せばスグにそれが例の女友達だと分かる。
何故か全裸の彼女は、
視線が虚ろで生気が無い。
「殺す前に、お仕置きはしておいたぞ」
「えっ?ころ…、し、死んでるの?!」
あまりの衝撃に、ゴミ箱で嘔吐する。そんな私を一瞥しながら、いつもの笑顔を浮かべたままでリュウ伯父さんは再び口を開く。
「恵子、早くクソ男どもの最期も見せてやれよ」
「はい、かしこまりました」
こちらにも緊張が伝わってくるほど、
部下の女性はリュウ伯父さんを恐れている様だ。
私は促されるままにタブレット端末へと視線を戻す。…なんということだ、こちらも死んでいる。かろうじて彼等だと分かるのは着崩した制服に見覚えが有ったからで、何度殴ればこうなるのか分からないほど、顔は無残に腫れ上がり、心臓を含め複数箇所に刃物が突き刺さっていた。
多分ゲームの様に楽しみながら殺したのだろう。
酷い、いったい誰がこんなことを。
まさか温厚なリュウ伯父さんが?
違う、いや、違って欲しい、
では、誰が殺したというのか?
混乱し過ぎて意識を手放しそうになっていると、部下の女性がそっと背中を支えてくれた。ガンガンと頭の中で警鐘が鳴り響く。危険だ、私はもしかして何か大変なことに巻き込まれてしまったのではないだろうか。
救いを求めてリュウ伯父さんの方を見れば、顎の動きだけで『タブレット端末を見ろ』と示された。これ以上何を見せられるのかと怯えながら画面を覗くと、そこにはニュース速報の文字が躍っている。
>卒業式直後の悪夢!
>〇〇高校の生徒8人が死亡。
>カラオケ店が全焼、放火の可能性も。
「本当は5人に送信したみたいなんだけどなあ。なんか1人が面白がって他の3人に転送しちゃったんだと。可哀想に、トバッチリだよなこの3人。でもまあ、家族も皆殺しにするか、自分だけで終わらせるか選べって言ったら、皆んな家族は助けてくださいってさ。結構、家族想いのイイコ達だったぞ」
「…リュウ、おじ…さん?」
信じられない。
だって、画像を受け取っただけなのに?それだけで殺されてしまったというのか。この人達は一方的に送ってこられただけで、非は無いではないか。どうしてそんなに容易く…アナタは人の命を何だと思っているのか?!
そう詰りたいのに、声にならない。
今までどうして気が付かなかったのだろうか、
リュウ伯父さんから滲み出ている狂気に。
笑っている様に見せて、この人は一度たりとも笑っていない。ああ、そうだ、例えるなら闇だ。一方的に包まれている何とも言えない不快感と、全貌が見えないことへの恐怖。カチカチと歯を鳴らして震える私に、リュウ伯父さんはいつもの笑顔でこう言うのだ。
「月乃も漸く高校を卒業したことだし、俺のことはパパと呼べよ」
「…パ…パ?」
──そして真実が語られる。
[月乃の専属使用人・泉恵子の独白]
「恵子、これで全員か?」
「はい、使用人が17名と京介様の従妹である和沙様の計18名です」
やっと断罪の日が訪れた。
月乃様からは『使用人達の家族だけでも助けて欲しい』と懇願されたが、幸いと言うか、もしもの場合に備えて丈領家の方でも身寄りのない人間を選んでいたのだろう。調査の結果、この人達が失踪しても探す者はいないと判明している。
「アンタいったい誰?!コソコソと人の家に入り込んで、何なのその偉そうな態度ッ。泥棒なら警察を呼ぶからね!」
「ダ、ダメです!和沙さん、お願いですからパパを怒らせないで」
ニコニコと笑顔のままだが、明らかに龍治様は激怒している。それはそうだろう、大事な月乃様を傷つけただけでは飽き足らず、自分のことも泥棒呼ばわりしたのだから。
「ぷっ、あはは!パ、パパですって?!バッカじゃないの!月乃、あんたいったい幾つなのよ?!おえー、気持ち悪い、こんなオッサンをパパだってー」
「和沙さん、もうこれ以上…きゃあああああっ」
一面に広がる血の海。
しかし、斬られたのは和沙様ではなく、彼女の腰巾着とも呼ばれているサユリさんだ。どうやら龍治様に命じられた清史郎様が、手にしていた日本刀でサユリさんの両腕を一気に斬り落とした様だ。
「な、何してるのよ!アンタ、頭おかしいんじゃない?どうして理由も無く、人を斬ったりするの?た、瀧さん、早く警察呼んで!」
「無駄です!警察を呼んでも来ませんから」
「はァ?なに言ってんのよ、月乃」
「こ、この人、警視監なんです」
「まさか、そんなワケないでしょっ!」
「本当なんです…、それも近い将来、警視総監になることも決定していて…」
「け、警視総監?こんな頭のおかしい男が?!」
「きゃああ、お願いですから、和沙さんはこれ以上何も言わないで!」
どうやら機嫌を損ねた清史郎様が、和沙様の反対隣りに立っていた別の使用人の右脚を斬ったらしい。その清史郎様が、漸くここで言葉を発する。
「親父、こいつが月乃に火傷をさせた女だから両腕斬り落としの刑、こっちは月乃を蹴ったから右脚斬り落としの刑…で良かったよな?」
「さすが俺の息子、罪状を全部覚えてるんだな!」
そんな基準で制裁内容を決めているのか。
私の報告書は意外と役に立っているらしい。
「どうせ最後は殺すけど、ラクに死なせたりしたら勿体無いだろう?」
「やっぱ清史郎は、俺に似てイイ性格してるよ!」
『狂ってる』そう叫んで、一斉に使用人が逃げ出そうとする。それをドアの前で待ち伏せていた戦闘員が一人残らず捕まえた。
「面白い!逃げられると思っていたのか?この罪人どもが!お前らが誰を敵に回したのか思い知れ」
「あはは、いいぞ、清史郎!カッコイイ!」
誰を敵に回したのか。
一ノ
名字は違うが、皆、龍治様の息子達だ。
それはつまり、月乃様の実兄ということになる。
「納得いかない顔してるなあ、ブタ女よ。冥途の土産に教えてやろうか?俺は鬼柳龍治…黒龍会の組長で月乃の実の父親だ。あはは、ヤクザと丈領家との間にどんな繋がりがって?答えは簡単だ、丈領家は裏で汚いことばかりしてて、それを全部俺らに実行させてたんだよ」
「まさか!丈領家は由緒正しい名家で…」
「ぶっ!笑わせんなって。元々は貧乏な華族様が、金儲けしたくて政治家になったのが始まりだ。金さえ貰えればどんなに悪どいことでもホイホイ請けるから、敵が増えるのなんの。しかもツメが甘くて恐喝だの詐欺だのしょっちゅう招き寄せるし、こっちはその尻拭いで大忙しだっつうの」
「煩い!もうデタラメを言うのは止めて!」
「デタラメねえ…。じゃあなんで京介くんは月乃と結婚したのかなー。いい加減、俺の方も本業が忙しくてワリの合わない仕事はもう要らないって言ったらさ、丈領くんったら慌てて取引を持ち掛けて来たワケ。『組長のお孫さんを総理大臣にしたくありませんか』ってさ」
「まさか、そんな…嘘よ、嘘!!」
ああ、実に不愉快な声だ。
「違わないんだなー。ところでさァ、残念ながら俺、オスの子種しか作れない体質みたいでさ、息子は8人もいるんだけど娘が1人もいなかったのな。それで一生懸命、腰振りまくって漸く授かった天使ちゃんが…ジャジャーン、そこにいる月乃ちゃんでーす。待望の娘なのに、それ虐めるとかお前ほんとどういうつもり?!」
「でも、だ、だって名字が違うでしょう?!月乃の旧姓は確か土屋だったはず」
いつの間にか、あちこちで使用人達が息絶えている。それに気付いたのか和沙様の声が震え出した。
「お前、バカだろ。あのさ、極道の子供だと分かったら、職業とか結婚相手の選択肢が狭まるじゃん。だから俺は産まれたらスグに背乗りさせて、子供達を里子に出すことにしてんの」
「背乗り…?」
「そう、戸籍ロンダリングとも言うがな。…んで、物事の判断が自分でつく年齢になったら、真実を話してあげるってワケ。幸い、息子達は俺を慕ってくれて、清史郎以外は全員ウチの組に御入会だ。あっ、清史郎は俺の役に立とうとして、自らポリ公になったんだから、そこんとこは誤解すんなよ!」
「な、何する…、痛い、痛いいいいいっ」
龍治様が和沙様の腕にザクザクとボールペンで『バカ女』と彫って行く。その出来に満足したのか、今度は額にボールペンを刺した。
「あ、こら、動くな。目を突いちゃうじゃないか。まあ、どうせ殺すんだけど。でも、俺としては最期の最期まで恐怖の場面を見ておいて欲しいし!」
「う、えええん、やだ、お願いです、顔は、顔だけは勘弁してください」
ふふ、あはははっ。
龍治様が笑った。
それは私が初めて見た、本物の笑顔だ。
「ダーメ!そんなこと言うならもっと彫っちゃうぞ。額にはX印で後は右頬に『ブ』、左頬に『ス』でいいか」
「よ、良くない!止めて、嫌あああっ」
「そうそう、お前の両親、冷たいなあ。一応、丈領の分家だしさ、一人娘を殺していいですかってお伺い立てたら、『はいどうぞ』だって。…ん?もしかして俺が怖かったのかな。うん、うん、そうかも。それにしたって自分達は殺さないでくださいとか、冷た過ぎるだろ」
「うああああん、あああああん」
「ほんと煩い、もう黙らせちゃおっと」
「ひっ、あ…」
──龍治様は、
呆気なく和沙様の息の根を止めた。
[丈領月乃の独白 ~あれから~ ]
「ただいま」
「お帰りなさい、京介さん」
眼鏡の奥で瞳が少しだけ細くなって、いきなり抱き締められた。よく考えてみれば、2カ月ぶりに会うのだ。有能なこの人が痩せて見えるほど、向こうでの仕事は忙しかったのだろう。
「虐められていたんだって?クソ、言ってくれればいいのに、なぜ黙ってたんだ」
「あの、それは…ごめんなさい」
言えない、言えるワケが無い。
だってこの人は…。
「そうだ、妊娠したんだろ?俺、凄く嬉しいよ」
「あ…うん、まだ4カ月なんだけどね、龍治パパがもう浮かれまくりで…」
そっとお腹を撫でながら、京介さんは端正なその顔に薄く笑みを浮かべる。
「お義父さんか…。いつも俺のこと無能呼ばわりするけど、これでも結構頑張ってるのになあ」
「うん、私は分かってるよ。それよりも向こうでの問題、全部解決したの?」
「今回はお義父さんが月乃の敵討ちに燃えてて、俺に自力で頑張れと言うからさ」
「えっ、まさか…」
「だって放火犯がとある組織の人間で、また火を点けられたくなかったら金を寄越せとか脅すんだぞ」
「だからってダメだよ!バレたらどうするの?!」
そう、この人も父や兄と同類なのだ。
「大丈夫だよ、初めてじゃあるまいし。何もかも完璧だから、絶対バレないって」
「でも」
忘れもしない。
新婚当初、使用人の1人からずっと嫌がらせを受けていた私はすぐ京介さんに報告した。そしてその使用人が姿を消したと聞き、こっそりと恵子さんに行方を追わせたのだ。
>月乃様、その、申し上げ難いのですが
>あの使用人はどうやら京介様が
>葬られたみたいで…。
それを聞いた時の衝撃は、
何と言い表せば良いだろうか。
父と兄の呪縛から解かれ、この先は普通の生活を送れると…そう、漸く普通の倫理観を持った人と暮らせると思ったのに。恵子さんの報告を信じなかったワケでは無い。ただ、本人の口から説明して貰おうと思っただけなのだが、嬉々として己の功績を語る夫の姿に眩暈がした。
>だって、殺らなきゃ自分が死んじゃうんだぞ?
>俺、死にたくないし。
幼い頃から逆恨みや金銭目的の誘拐と背中合わせだった丈領家の次男が、最初に殺めたのは従兄…つまり和沙さんの兄だったのだと。3歳年上のその人が、周囲に煽てられて『自分こそが後継者だ』と言い始め、偶々そこにいた京介少年を池に沈めようとしたので逆に相手を突き落としたそうだ。
>本当は俺、3人兄弟だったんだけどさ、
>兄さんも弟も殺されてんの。
>ほんとは俺もヤバかったんだ。
>いつもなーんか不安で、
>まとも眠れたことなんて無かったよ。
今は私との結婚により黒龍会の後ろ盾を得たので、熟睡出来ているらしい。
>秘密にしてても分かる人には分かるだろうな。
>対外的にはクリーンなイメージでいきたいし、
>月乃も黒龍会との関係は内緒にしといて。
「久々に自分で手を汚したせいで、少し疲れたかも。あー、妊娠してるからセックス出来ないのか」
「…うん」
「こら、月乃!そういう哀しい顔しないの。大丈夫だよ、浮気は絶対にしないから。っていうかしたらきっとお義父さんに殺されるし、いや、それ以前に俺が愛してるのは月乃だけなんで!」
「はいはい」
「本当だぞ!お義父さんもお義兄さん方も、もちろん俺も。皆んな月乃の笑顔の為に日々、頑張っているんだからな!」
「うん、ありがとう、嬉しい」
今回は何人の命を奪ってきたのだろうか。
2カ月も滞在していたのだから、きっと1人や2人では無いはずだ。10人?それとも20人?何を聞かされても、今はもう驚かない。
「ふふっ。男の子かな、それとも女の子だろうか」
「健康に生まれてくれれば、どっちでもいいわよ」
普通じゃない私達の、ありふれた日常。
──相変わらず窓の外には、
何も知らない月がポッカリと笑っていた。
END
月は笑う ももくり @momokuri11
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