第5話 ゾーテ君

 日曜日、絵に描いたように空は青い。妹はスマホでお気に入りの曲を流しながら洗濯や掃除をしていた。そのそばで、僕は一晩分の少ない荷物を小さな鞄に詰める。

 人生は長いのに、大切な時間はほんの一握りしかない。広い世界で、好きになれるものはうんと少ない。

 鞄を閉めると、逢瀬の一晩にも蓋がされたような気がした。

「お兄ちゃん、忘れものはない?」

「うん。全部入れたよ」

 別れ際、妹は燃えるような瞳で僕を見た。

「また来てね。絶対よ」

 胸に縋ってくる彼女をひとしきり抱くと、僕は夏の町に出た。

 国道は混雑していた。AMラジオの濁った音は耳に入ってこなかった。

 僕はどこへ行く?

 空っぽの人生を抱えて、どこへ行く? 

 車は勝手に滑っていく。僕の辿るべき人生を示すように、長い国道を走っていく。このまま目を閉じて、痛みも苦しみも、優しさも愛も――熱さも冷たさも、何も感じない夢の国へ行けたらいいのに。

 重い溜め息がハンドルに落ちた。

 一晩留守を預かってくれたタツトと寮生達にささやかな土産を買って寮に帰ると、嗅ぎ慣れた日常の匂いがふっと鼻先に漂った。寮生達が立ち入れない裏口玄関から入ったので、タツトだけが僕を出迎えてくれた。

「勤務時間は十二時までだけど、今日は夕方までいてやるから少し休んでろよ」

 タツトが僕に気を遣ってそう言ってくれたので、寝室に鍵を掛けてベッドに倒れた。頭が空っぽだった。妹に会った後はいつもそうだった。透明な時間が流れていった。

 青い空はオレンジ色に染まった。切ない夜がひっそりと訪れた。何かにプログラムされたようにふっと起き上がって、僕はふらふらと裏庭に出た。

 坂下の工場は今日も明かりを灯していた。風もなく、静かだった。

「タタラ先生」

 ドアの軋む音と共に、ゾーテ君が勝手口から顔を出した。彼はいつも何かを問い掛けるような目をしていた。若い感性で、この世の神秘に触れようとしていた。黒板とチョークで説明できればどんなにいいだろう。寮生達の瑞々しい声で「先生」と呼ばれると、僕は未だにどきりとした。

 僕は何も知らないんだ。歳だけ重ねて大人になったけれど、本当は、大人らしい経験もないし、知識もない。君たちの知りたいことを、何も教えてあげられない。先生なんて呼ばれる資格はないんだ。もし僕の本性を知ったら――みんな、僕を軽蔑するだろう。

 喉元まで込み上げた叫びを呑み込んで、僕は隣に立ったゾーテ君を見た。

「ゾーテ君、留守番ありがとう。変わったことはなかったかい?」

 彼は小さく頷いたが、それを打ち消すように、すぐに首を横に振り直した。

「ううん、本当は色んなことがあったけれど、今は気持ちの整理がつかないから、落ち着いたら話します」

 子供の頃、僕にも色んなことがあった。大人に心を開くのは難しかった。

 彼らの若い瞳に敬意を抱かずにはいられない、そんな気持ちに、時々無性に駆られた。

 彼はフェンスの上で腕組みをしながら言った。

「昨日、よく眠れなかったから、タツト先生がホットミルクを入れてくれたんです。『タタラ先生は明日の昼には帰ってくるから安心しろ』って言ってくれて、ほっとしました。本当は、僕も朝が来るのが恐いけど、タタラ先生やみんなが一緒なら、ほんの少しだけ、空を回す力を出せるような気がするんです」

 物静かな少年の放つ小さな勇気が、僕の暗い胸をふいに照らした。僕が子供だった頃、こんな風に大人の心を煌めかせたことがあっただろうか。

 彼はフェンスの上の腕組みを解いて、勝手口へ駆け戻っていった。

「タタラ先生が帰ってきてくれてよかった。おやすみなさい。また明日ね」

 僕が何も返事をしないうちに、彼はドアを閉めた。

 頭の上で、空が回っていく。

 物悲しいのに、微笑みたい。そんな気持ちだった。

 明日から、みんなまた学校へ行く。寮監の仕事も山積みだった。

 坂下の工場を背に、僕も寮へ戻った。


(終)

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