第4話 ウヅキとタツト先生

 上の空で寮まで帰ってくると、寮前の電柱の影に一人の女子生徒が立っていた。彼女は僕を見ると電柱の影から出てきて言った。

「お疲れ様、ゾーテ君。帰ってきたばかりでごめんね。よかったら、ちょっとお散歩に行かない?」

 幼馴染で昔からよく知っている子なのに、僕は彼女の名前を呼べなかった。彼女が名前を捨ててしまったから。

 僕らは小さかった時のように手を繋いで坂下の工場群を歩いた。建物の隙間から夕日の光が差していた。金属の擦れる音や風の唸る音がそこかしこから聞こえた。緑色のフェンスの向こうにタンクや配管がたくさん見え、細い煙突からは白い煙が立ち上っていた。まだ夕焼けが明るいのに、煌々と光を放つライトもあった。工場は鼓動していた。大きな大きな呼吸をしていた。一つの命を抱いていた。

 彼女は工場の鼓動の中で言った。

「わたし、ウヅキっていう名前になったの。よろしくね」

 僕は何とも返事ができなかった。

「突然だったから驚いたでしょう? わたしもゾーテ君が名前を捨てた時、すごくショックだったから。どこか遠くへ行ってしまったようで悲しかった。でも、あなたはゾーテという名前になって帰ってきてくれた。隣にいてくれるだけでいいの。ほっとするの」

 白い飛行機雲が真っ直ぐ西へ棚引いていく。

 僕らは工場群を一周りして丘の上に戻ってきた。

「月曜日、小テストがあるって言ってたよね。勉強、大変だけど頑張ろうね。また学校でね」

 ウヅキは僕に手を振って帰り道を駆けていった。彼女と繋いでいた手は大気に触れてひんやりした。

 土曜日が終わっていく。幻のような一日が、本当の幻になっていく。

 寮に入るとタツト先生が「お帰り、ゾーテ。もうすぐ夕飯だぞ」と出迎えてくれた。

 町はいつも通り宇宙色に暮れていく。工場の明かりが燃えている。

 今夜、タタラ先生はいない。

 でも、タタラ先生がいても、僕は多分、何も言えない。

 消灯時間を過ぎても眠れず、僕は広間に下りた。付けっぱなしのテレビの前で、タツト先生がスマホを見ていた。消灯後、こうして寮生が先生に会いに行くことはこの寮では珍しいことではない。タツト先生も慣れっこで、「どうした? 眠れないのか?」と言いながらスマホの画面を消した。

 僕はタツト先生の向かい正面に座り、座卓に凭れた。

「僕の同級生が名前を捨てたんです。自分が名前を捨てた時には何とも思わなかったけれど、身近な人が名前を捨てるのって、こんなにつらいんだなって、初めて知りました。僕の親も、僕が名前を捨ててしまって、ショックだったのかもしれません。だから、僕をこの寮に預けた」

 タツト先生は自虐的に笑った。

「そういう話はタタラ先生の方が適任じゃないか? 俺が話し相手でもいいのか?」

「だって、タツト先生もこの寮の先生でしょ?」

「それもそうなんだが、お前もタタラ先生が今何してるか気になるだろ? みんなそれを俺に訊くんだよ。それは構わないんだけどさ、みんなちょっとくらい俺のことも気に掛けてくれていいと思わん? 酷いよなぁ、みんな。俺だって生徒達から慕われたいのにさぁ」

 どう返事をしようか迷っていると、タツト先生はにっと笑って座卓の向こうから腕を伸ばし、僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「冗談だよ、冗談。みんな俺のこともちゃんとタツト先生って慕ってくれてる。俺は名前を捨てたこともないし、そういう友人を持ったこともないからよく分からないけど、眠れないならホットミルクでも出してやる。ちょっと待ってろ」

 タツト先生はキッチンで牛乳を温めてくれた。

「なぁ、ゾーテ。人との関わりを通じて、自分は唯一無二の大切な存在なんだって気が付いてくれたら、タタラ先生も俺も、嬉しいよ」

 タツト先生が差し出してくれたカップの中で、白い銀河がぐるぐると渦を巻いていた。

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