第3話 マオ先輩

 土曜日、タタラ先生はいない。

 午後、僕は読書クラブで壁新聞を作るために学校に向かっていた。

 竹林に覆われた日陰の坂道をぐんぐん下っていく。カッターシャツが軽い。

『ゾーテ君は自分の足で明日へ行ったことはあるかい?』

 タタラ先生の言葉が頭をよぎった。僕はぐっと拳を握って夏空を見上げた。蝉が鳴いている。

 土曜日の学校には色んな部活動の音が響いていた。

 生徒玄関で靴を履き替え図書室に向かうと、僕と一緒に壁新聞を担当しているマオ先輩がもう準備を進めていた。机に大きな紙を広げ、鉛筆で薄く下書きをしている。僕を見るとマオ先輩は凛々しく「お疲れ」と言った。僕は貸し出しカウンターに鞄を置いて、マオ先輩の下書きをマジックでなぞっていった。

 マオ先輩は切れ長の涼やかな目線を手元に落とし、読みやすい丁寧な字で、一学期の貸し出しランキングを書いていた。ボブカットの黒髪が一筋、大人びた頬に垂れている。僕と違って、生まれ名を捨てないまま三年生になった人だった。筋肉質の足がすらりとスカートから見えていた。

 図書室を埋め尽くす本は、表紙を開かなければ何も語らない。深い沈黙を守ったまま僕とマオ先輩を包んでいる。

 メモリオール、というものを、僕も青春小説で知ったけれど、どこかファンタジックで、自分の人生には関わりのないもののように思えた。

「いつかあんたもメモリオールを知るよ」

 マオ先輩は言った。

 忘れられない大切な人がいると、心に自然と芽生えてくるものなのだそうだ。

 マオ先輩は下書きを書く手を止めず、凛とした口調で言った。

「あたしも持ってたんだけど取られた。いつか取り返してやるの。その機会を窺ってる」

 そう言いながら定規を使ってしゃっと直線を引く。

「絶対に許さない。あたしのメモリオールを取った奴」

 マオ先輩の瞳は割れた黒曜石のように多感な光を放っていた。

「そんな恨みを抱くなんて、マオ先輩には似合わないです。メモリオールなんかなくてもあなたは美しいのに」

 僕が呟くとマオ先輩は手を止めてこちらを見た。

「美しい? あたしが?」

「はい。僕にはとても綺麗な人に見えます。きっと、クラブのみんなもそう思ってます」

 マオ先輩は溜め息を吐いて下書きの続きを書いた。

「それはそうと、コハルの話、聞いた?」

「コハルがどうかしたんですか?」

「捨てたらしいよ、名前」

 僕は血の気が引いて固まった。

「あたしたちがあの子をコハルって呼べるのも、今日限りかもね」

 マオ先輩の声が遠くなっていった。

 夕方、僕らは作業を切り上げて家路に着いた。

 長い影が伸びている。

 僕の体は何か大切なものを失って空っぽになり、不自然なほど軽かった。

 小学生の頃、コハルと手を繋いで帰ったことが思い返された。

「コハル、どうして」

 思い出の中のコハルに訊ねても、小さな彼女はツインテールとランドセルを揺らして笑うだけだった。

 オレンジ色の夕空の先に、真空の宇宙が広がっている。

 こんな時に、タタラ先生はいない。同じ宇宙に生きているけれど、どこか遠くへ行ってしまった。

「コハル…………」

 マオ先輩の言ったことは現実になった。

 電線の向こうに放ったこの一言を最後に、僕は彼女の名前を忘れていった。

 グラウンドの砂が流れていくように、彼女の名前も僕の記憶の中から崩れていった。

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