第2話 妹

 タツトは僕が寮を留守にする時にだけ来てくれる寮監だった。まだ寮生たちが眠っている早朝に来て、外出の準備をする僕をじっと見ていた。

 寮の一階の半分は僕の自宅で、寮生たちは二階に住む。副寮監のタツトは勤務中、僕の自宅スペースを使う。寝室だけは鍵を掛けて入れないようにしているが、他は自由に使ってもらっている。

 僕がばたばたしているそばで、タツトは広間の畳の上に大の字で寝転がった。クーラーが乾いた音を立てて唸っている。

「お前、妹さんに会いに行くんだろ?」

 タツトが首だけ向けてそう言った。

「うん、そうだよ」と、僕も荷物を纏める手を止めずに答えた。

「親には会いに行かんの?」

「用事がないからね」

「そうか」

 タツトは天井を見上げて目を閉じた。

「今日も暑くなりそうだ……」

 うんざりするような低い呟き声が遠く聞こえた。

 業務上の連絡事項を伝え、朝食前の寮生たちに挨拶も済ませ、僕は寮を出た。

 鋭い朝日が町を差していた。車は滑らかに走った。妹のアパートまで一時間、濁ったAMラジオを聞きながらハンドルを握る。

 ゆうべ妹に電話して必要なものがないか訊いたら、カレーを作るからルーを買ってきて欲しいと頼まれた。道中、ドラッグストアに寄って、頼まれたルーと彼女の好きなジュースやアイスも買った。

 そうしてアパートに着くと、妹は洗濯の最中だった。これから掃除もするらしく、何か手伝おうかと訊くと、彼女は風呂掃除と布団干しを僕に命じた。昼に二人で素麺を啜る以外、僕達は掃除に明け暮れた。

 夕方にはカレーの匂いが漂った。

 夏の群青が深まり切らないうちに妹はシャワーで一日の疲れを流し、僕の買ってきたバニラアイスを食べた。

 僕もシャワーを借りて汗を流した。

 部屋に戻ると、彼女はサイダーを飲みながらスマホを見ていた。

「僕もサイダー貰っていいかな」

 そう訊くと、彼女は笑った。

「お兄ちゃんが買ってきたんでしょ? 遠慮なく飲みなよ」

「じゃあ、貰うよ」

 透明なサイダーは窮屈なペットボトルの中で泡を吐いて小宇宙の輝きを放っていた。

 くすぐったい刺激を感じながら冷たいサイダーを喉に流し込んでいると、突然背後から「ああ、お兄ちゃん!」という妹の叫び声が聞こえ、僕はびっくりして噎せた。妹はクッションの隣に放り投げられたタオルを手に取ると、僕の髪を無造作に拭いた。

「駄目だよ、ちゃんと拭かないと」

「ちゃんと拭いたと思ったんだけど」

「滴が垂れてるよ、お兄ちゃん。――ううん、タタラさん」

 彼女にそう呼ばれると、僕はどきりとした。

 透明なサイダーが窮屈なボトルに閉じ込められているのと同じように、僕らもまた地球の大気に閉じ込められて重力の海の底でひっそりと生きている。

「わたし、お兄ちゃんの昔の名前、忘れちゃった。すごく綺麗で大好きな名前だったのに、もう思い出せないの」

 深夜、静まり返った暗い部屋で妹は言った。カーテンの向こうに青白い光が揺れている。

「わたし達、会ってること知られたら、わたしのママにもお兄ちゃんのパパにも怒られるよね。血も繋がってないし、三年しか一緒に暮らさなかったのに」

 部屋はクーラーで冷えているのに体は暑かった。糸のような呼吸が漂っていた。

「ねぇ、お兄ちゃん。また昔のようにあの名前で呼びたいよ。もう一度、教えてくれる?」

 夜の耳鳴りは僕の過去をぐるぐると掻き回した。

「ごめん。僕ももう、覚えてない。別に大事なことじゃないから、忘れてしまった」

 そう答えると彼女は悲しげに目を伏せて僕の二の腕に額を擦り付けた。

 土曜日の夜だった町は、日曜日の朝になった。

 飲みかけだったサイダーがぬるくなって、テーブルの上で水溜まりを作っていた。

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