記号少年

スエテナター

本編

第1話 タタラ先生

 僕の住んでいる寮は小高い丘の東端にあって、丘下の学校に通う生徒達が何人か共同で暮らしている。寮は丘の東側にあるのに学校へは西の坂道を下っていかなければならず、僕達の寮は、ほんの少し、通学にはめんどくさいところにあるということになる。

 丘の端っこにあるので寮の裏庭からは丘下の工場群がよく見渡せて、夜には工場夜景の銀河が広がった。

 青い夕暮れ時、寮監さんはよく裏庭に出て、ミニチュアのような工場の景色を眺めた。宇宙色の澄み切った宵闇の中で全ての光が何かしらの意味を持ち、夜でも稼働を続ける工場を照らしている。

 その夕景の手前にすらりとしたシルエットを浮かばせて、寮監さんは光の海を眺めている。僕が隣に立ってフェンスに凭れると、背の高い寮監さんは僕をちょっと見下ろして、「やぁ、お疲れ様。皿洗いは終わったかい?」そう言って不器用そうに口角を上げた。

 僕達は寮監さんのことをタタラ先生と呼んでいるけれど、この名前は先生が大人になってから改めて自分で付け直した名前で、生まれた時に親から貰った名前も、少年期の暗号名も、どちらも忘れてしまったそうだ。

 僕も生まれ名を捨てて、空気中に一番多く存在している『窒素』から記号名を貰った。窒素はフランスの言葉で『azote』、生きられないもの、という意味を当てられた言葉らしかった。『azote』の正しい読み方は分からないけれど、僕は『ゾーテ』と名乗ることにした。

 親から貰った名前を捨てて記号名になったことで親子関係が拗れ、僕は家にいられなくなった。生まれ名を捨てて行き場を失った子供達を受け入れるタタラ先生の寮に住まわせてもらって、学校に通っている。

 生まれ名を失ったタタラ先生は僕の人生の模範解答を教えてくれる人のように思えた。記号名になった時の経験、大人になってから名前を付け直した意味を、飴細工のような透明な光を抱く工場夕景を眺めながら、飽きもせずに繰り返し訊ねた。

 タタラ先生の答えはいつも簡素だった。

「僕は僕であることが嫌で記号名になったけれど、大人になってからは何かと不便で、新しい名前を付け直したんだよ」

 タタラ先生は僕が内心、人生の答えを先生に求めていることに気が付いていたんだろう。

「僕もゾーテ君と同じ頃に生まれ名を捨ててしまったけれど、あれから何年も時間だけが過ぎていって、未熟なまま大人になってしまった。僕の目には、今のゾーテ君の方が大人に見えるよ」

 先手を打つようにそう言って微笑んだ。

 青く溶ける工場夕景の前では、ほんの少し、心が自由になった。タタラ先生も先生であることを忘れて、時に僕らと同じ少年のようになった。

「ゾーテ君は自分の足で明日へ行ったことはあるかい? 僕はない。ずっとこのまま朝が来なければいいのにと、毎晩のように思っている。でも、心に希望を持った誰かが空を回すんだ。気が付けば朝になっている。一体、誰が僕達を未来へ連れて行くんだろうね」

 ソーダ色の夕風の中で、僕はタタラ先生の言葉を一つ一つ噛み締めた。特別な意味もなく発せられた言葉が溶け残って胸の中に浮遊することはよくあることだった。僕はそれをビー玉のように転がして意味ありげに物思いをする。

 工場のミニチュア、それを照らす光、宇宙色の宵闇、ソーダ色の風――小さな景色が焼印になって胸に残った。

 明日、タタラ先生はこの寮にいない。

 鋭いナイフで突かれたような激しい寂しさが、ずっと胸の端っこに蹲っていた。副寮監のタツト先生のことだって嫌いじゃない。嫌いじゃないけれど、それとは別に、言い知れない寂しさや不安が頭の中を駆け巡っていた。

「タタラ先生がいないとつまらないよ」

 つい愚痴のように漏らすと、タタラ先生は幼児に向けるような柔らかな微笑みを浮かべた。

「ごめんね。明後日の昼には帰るから。タツト先生の言うことをよく聞くように。さぁ、そろそろ中に入ろうか」

 タタラ先生は凭れていたフェンスから手を離して勝手口へ向かった。煌々と灯る工場の明かりを背に、僕もタタラ先生を追った。

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