第七十四髪 君や詠む もうこんなにも ない地でも

 あの異世界から帰還して、すでに二週間がった。

 JR東西線の満員電車から解放され、駅から会社へ向かう足取りは軽やかだ。

 街路樹のイチョウは少し色が付き、秋めいてきた。

 もう少し季節が進めば、コートを引っ張り出さないといけないだろう。

 日常を取り戻した慎太郎の日々は、名前の通り慎ましやかであり、平穏そのものだ。

 それは頭部に関しても同様で、ある意味で完全なおだやかさを手にしてしまっていた。

 生命の息吹いぶきが完全に途絶とだえた枯れ果てた大地に、ひと時は奇跡きせきを信じて下北沢スペシャルを与え続けていたが、それも今週に入ってからは、回数を少なくしてしまっていた。

 失ったものは取り戻せない。

 だから、それを受け入れて、前に進んでいくしかないのかもしれない、と。

 冬を感じさせる一陣いちじんのビル風が、去年より一層寒く感じる。

 慎太郎は急ぎ足で会社へ向かった。


「あ、おはようございます、室長」

「おはよう、白垣しらがきさん」


 珍しく早く来ていた事務の白垣麻美しらがきまみ挨拶あいさつをする。

 頭部がこうなって以降、以前のように彼女が慎太郎をいじり倒す事もなくなっていた。

 少し気を使われているようで、逆に申し訳なく感じる。

 と、麻美が慎太郎の一点を注視する。

 その表情が急に明るくなる。


 それは、吉兆だった。


「し、室長。鏡を見てください!」


 普段誰にも触らせることがなかった彼女愛用の可愛らしい手鏡を押し付けられ、慎太郎は驚きを隠せない。

 だが、予感があった。おそるおそる、自分の顔を映す。


「――」


 言葉が出ない。いや、言葉にならない。


 ――諦めなければ、昔のように、草木が生いしげる豊かな地へと、きっといつかは、戻るんです。私はそう信じています。


 大巫女の言葉が慎太郎の脳裏をかすめていく。

 その通りだ、君の言っていたことはやっぱり正しかった。


「これは……!」


 そこには、細く、力なく、弱弱しい感じではあったが、荒涼こうりょうとした砂色の大地に、一本の新たな生命が生まれていた。

 それを失った理由を考えれば、まさに奇跡の瞬間であった。


「お、おおお……」


 思わず嗚咽おえつれる。

 先程から作業に集中していた下北沢は颯爽さっそうと席から立ち上がると、その長身で慎太郎の姿を周りから隠し、ハンカチをそっと手渡す。


「下北沢君、すまない、ありがとう」

「いえ。おめでとうございます、室長」

「おめでとうございます! いやー先々週の完全につるっつるになった姿見た時、さすがの私もドン引……どうしようかと反応に困りましたよ! 本当によかったよかった!」

「ああ、君も、本当にありがとう」


 にっこりと微笑ほほえむ麻実。

 どうやら本来の調子が出てきたようだ。


「そうだ。室長! せっかくだから、いつもの一句、みますか」


 急に麻実が提案する。

 彼女の前で詠んだことがあっただろうか、と一瞬不思議に思ったが、社内でも密かに俳句川柳はいくせんりゅうの雑誌を休憩きゅうけい時間にぺらぺらとながめていたのを見られていたのだろう。

 この数週間で学んだ成果を披露ひろうするには、良い機会だった。


「では……」


 慎太郎は、目を閉じ、一瞬だけ逡巡しゅんじゅんし、そしてしなやかで流れるような口調でみ上げる。


 あきらめず

  ねがいめぐらば 

   まためぶく――



                  誰や詠む もうこんなにも ない地でも 了

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誰れや詠む もうこんなにも ない地でも~頭頂部薄めのアラフィフは滅びゆく異世界を救うため、一句吟じます~ 南方 華 @minakataharu

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