第七十三髪 朝を無事 迎えるという ありがたさ

「う、ううむ……ここは……」


 薄目うすめを開けると、視界がぐるりとゆるやかに回っている。

 強い眩暈めまいのような感じだが、不思議と気持ち悪さはない。

 少し目を閉じ、早くなっている心拍しんぱくを落ち着けるため、深呼吸を何度も行う。

 そして再び目を開けると、そこは眠る前と同じ、書斎しょさいの景色だった。


「戻ってきたな……」


 ここに来てはっきりと分かる。

 人生で数えるくらいのレベルの疲労を感じていると。

 もう一度まぶたを閉じ、脳裏にあの光景をフラッシュバックさせる。

 くろかみ、そしてその眷属けんぞく達との戦い。

 なぜか懐かしく感じた、勇ましく頼もしい白き獣ルピカ。

 人々の作戦、最大の危機にあって見出した起死回生きしかいせいの一手。

 封印される黒い神。

 厚い雲間から降り注ぐ、幾筋いくすじもの陽射ひざし。

 そして、すべての力を投げ打った代償として、大地に捧げられた戦友かみ

 そっと頭をでる。

 何も無くなってしまったそこはなめらかで、むしろ触り心地が良いくらいだ。

 知らず慎太郎の口から、嗚咽おえつれる。

 悲しいわけでもなく、感極かんきわまったわけでもなく、ただただ、泣きたかったのだ。


 ひとしきりそうした後、落ち着きを取り戻した慎太郎は寝室へとゆっくり足をみ入れる。

 ベッドを見ると、莉々りりはまだ眠っていた。

 心の中で申し訳なさと、同じくらいの謝意しゃいいだきつつ、ドアノブに貼り付けた手紙をしまう。

 思った以上に感傷的センチメンタルになっていたのか、確認した文面はこれ以上ないほどポエムになっていた。

 ずかしすぎたので、見られずに回収出来たのは幸いだった。

 最後にほんの少しだけそのあどけなさの残る、というよりヨダレでれてだらしなくなっている寝顔を見てふっと笑顔になると、そのまま眠り姫の安眠をさまたげないように部屋を出る。

 そして、ソファーでまた一眠りすることにした。


 今度こそ、少しゆっくり出来そうだ──。


     *


「たろうさーん、しんたろうさーん」

「ん……あと十分……」

「あと十分じゃないです、起きなさい!」

った?!」


 耳を軽く引っ張られ、慌てて目を開く。

 目の前に居たのは、


大巫女だいみこ……?」

「何を言ってるんですか。あなたの可愛いよめですよっと。もう……、こんなところで眠って。風邪引きますよ?」

「あ、ああ、すまない……」


 妻はくるりと背を向けると、バレッタで束ねた茶髪をたなびかせ、いつものように俊敏しゅんびんな動きでカーテンを開ける。

 大きな縦長の窓から、秋の朝日が一気に差し込み、リビングはまぶしく感じられるほどの明るさが舞い込む。

 清々すがすがしい陽気を浴びると、慎太郎の眠気も一気に吹き飛んだ。

 その光景と妻の後ろ姿に、ようやく日常へと帰って来れたのだと、慎太郎は改めてしみじみと感じ入った。


「ところでー、慎太郎さん?」

「……む、何かね」

「さっきの『ダイミコ』ってなんですか? まさか……っ?!」


 息がかかるほど顔を寄せて問いただす妻に、夫の側頭部から、みょうに冷え切った汗がつるりと流れ落ち始めた。

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