明日もきみに会いに行く

みたか

明日もきみに会いに行く

 あの人だ、と思った。

 公園の隅で丸くなっている小さい背中は、何かを必死に描いている。



 うちの最寄駅の近くには美術学校があり、僕は毎日その前を通って高校に行っている。夕方に美術学校の前を通ると、いつもカーテンが全部開いていて、中が丸見えになっているのが気になっていた。そこで彼を見つけた。

 いつも白いTシャツとジーンズという姿で、たいして目立たない格好のはずなのに、僕の目は毎日その人を追っていた。短く刈り上げられた黒い髪は、その髪質からかいつもツンツンと立っていて、さっぱりとした感じを抱いた。顔立ちを見ておそらく高校生くらいだろうなと思ったが、第一印象は「小さいヤツ」だった。

 周りよりもひと回り小さい背中。その体の前には、いつも大きなキャンバスが置かれていた。他の人たちと比べてもキャンバスの大きさに違いはないのだが、その人の前にあるだけで大きく見えるのだ。絵を描いているようだったけど、僕には何を描いているのか分からなかった。



 真っ青な空には、くっきりとした輪郭の雲が浮かんでいる。最近ずっと晴ればかりで、雨は全然降っていない。コンクリートの上のところがもやもやと揺れているように見える。地面はカラカラに乾いていくのに、空気はじっとりと蒸し暑い。

 肌がべたついて、制服のシャツがくっついてくる。すぐにでも冷房の効いたコンビニへと逃げ込みたいくらいだった。アイスでも買おうかと思ったが、財布の中を思い浮かべてやめた。もう少し歩けば家だった。

 今日の夏期講習は午前中で終わった。夏休みに入って、今日から高校で行われている講習会に行っている。希望者のみの講習で、高校二年の今年は受験を視野に入れた総復習がメインだが、やっぱり申し込まなければ良かったと後悔していたところだ。夏休みにまで学校に行くだなんて、退屈でたまらない。夏休みは休むためにあるんじゃないのか。そう思って歩いていたら、あの背中を見つけた。

 まさか、こんなところで会うなんて。

 うちの近所の公園はグラウンドと一緒になっていて、いざという時には避難場所にもなるらしい。グラウンドの周りをネットがぐるりと囲い、そのすぐ横に砂場や遊具のある公園が作られている。木陰にベンチも置かれていて、憩いの場となっていた。

 グラウンドで元気いっぱいに遊ぶ子どもたちの向こうに、小さい背中がもぞもぞと動いていた。少し近付いてみると、ベンチではなく折り畳み椅子に座っているようだった。彼の様子から見て、ついさっき来たとは考えにくい。足元には空になったペットボトルが転がっている。

 公園の木々は鮮やかな緑色をめいっぱい広げて、彼の頭上を覆っている。葉と葉の間から差し込む木漏れ日が、白いTシャツに模様を作った。

 ちょうど陰になっている場所だからといって、真夏の真っ昼間からこんなところにいたら熱中症になってしまうかもしれない。僕は心配になって、少し戻ったところにある自販機でスポーツドリンクを買った。

 冷えたドリンクを持って、また彼の背中に近付く。汗でびっしょり濡れた白いTシャツは、肌の色が透けてしまいそうになっている。張り付いたTシャツが筋肉の厚みを目立たせた。乱雑に捲られた袖からは茶色く日焼けした腕が見え、二の腕にはくっきりと日焼け跡が残っている。いつもツンツンと立っている頭には、黒いキャップが被せられていた。

 あと少しというところで、彼が振り返った。首に掛けたタオルで顔を拭いながら、こちらを不思議そうに見つめている。

 初めて、目が合った。

 彼の目は真っ直ぐで、嘘をついたことのない赤ん坊のような瞳だった。黒い目ん玉に光が入って、少し茶色っぽく見える。その視線は涼やかで冷静なのに、内側に熱いものがごうごうと燃えているようだ。

「あ、えっと、」

 ドリンクを渡そうとしたところで、頭がすうっと冷静になった。こんな全く知らない人間から飲み物を貰うなんて、気持ち悪くないだろうか。

 差し出した手を引っ込めるわけにもいかずオロオロしていると、彼のほうから喋りかけてきた。

「それ、くれんのか?」

「あ、はい、どうぞ」

 彼は僕の手からドリンクを受け取ると、なんの躊躇いもなく一気に飲み始めた。僕は飲み込むたびに、ごく、ごく、と大きく揺れる喉を見つめた。首は僕よりも太い。

「悪い、助かった。金払うわ。いくら?」

「えっ! いや、いいです、別に」

「あ? よくねぇだろ」

 立ち上がってポケットの中から小銭を探し始めたが、十円玉と五円玉が何枚か入っていただけだった。

「……わりぃ」

 そう言って申し訳なさそうにする姿がおかしくて、少し笑ってしまった。慌てて手のひらを振る。

「いいですよ、本当に」

 自分がやりたくて勝手に買ってきたものだったのだ。最初から払ってもらうつもりなどない。

「むしろ、突然すみませんでした。なんか、暑そうだったんで、大丈夫かなと思って……」

 話しているうちに、だんだん気まずくなってくる。

 今、あの人と喋ってるのか。

 そう考えると胸の中がむず痒くなった。さっさと去ってしまいたい。頭を下げて「じゃあ」と一言断ってから後ろを向いた。

「おい」

 数歩歩いたところで、背中から声がした。

「お前、何年?」

「二年です」

「へえ、後輩か」

 後輩と呼んだということは、うちの高校の三年生なんだろうか。色々聞きたいことが溢れそうになるが、喉の奥で詰まって出てこない。

「お前、いつも窓から見てるヤツだろ」

「えっ」

「まあ、こっち座れ、ここ」

 彼は自分の後ろ側にあるベンチを指差した。僕が腰掛けるのを見ると、折り畳み椅子をこちら側に向けて座り直した。

「あそこはいっつもカーテン全開だからな、気になって見ちまうよな」

 ばれていた。全部ばれていたのだ。

 道に面した教室の前を通る時、僕がいつも中を覗いて、彼を見つめていたことを。覗くといっても、窓にべったり張り付いて見ていたわけではない。歩きながら、さりげなく視線を動かしていただけだったのに。

 一度も目が合ったことはないし、凝視しすぎないように気をつけていた。それなのに。

 背中がひやりとして、彼のほうを見られなくなってしまった。

「えっと、すみません、別に怪しい者ではなくて、」

「あ? そんな話、してねえだろ?」

 意を決して横を見てみると、彼は何かを描きながら喋っていた。

「……何を描いてるんですか?」

「お前」

「ええっ!?」

「おい、あんま動くな」

「あっ、はい、すみません……」

 動くなと言われても、急にそんなことを言われたら驚いて動いてしまうと思う。完全に固まってしまった僕など全く気にせず、彼は軽いタッチでさらさらと線を描いている。

 喋るのは、いいんだろうか。

「あの……、うちの学校の人なんですか?」

「んー、そう」

「じゃあ三年ってことですか?」

「んー」

 手を動かしながら、緩い返事が返ってくる。

 やっぱりそうだったのか。高校ともなると、学年やコースが違えば全く把握できない。そもそも二年と三年は校舎が離れていて、そこにはほとんど行ったことがない。学校が始まったら一度行ってみようかなと思った。

 僕が黙ってからも、彼は手を動かし続けている。

 僕の周りには、彼のように絵を描いている人はいない。気付いていないだけかもしれないが、少なくとも友達の中にはいないし、僕も美術の授業以外で絵を描こうと思ったことがない。それでも、彼が将来に向かって頑張っていることくらいは僕にも分かった。

 彼が眩しくて、遠くて、手の届かない人のように思える。同じ高校に通っていると分かって、少し近付いた気がしたのに。やりたいことに真っ直ぐな彼が、すごく羨ましい。

 僕もいつか、彼のように夢中になれるものが見つかるんだろうか。

 彼に話を聞いてみたい。憧れと焦りと好奇心が、心の中で渦巻いている。

「ん、できた」

 ぐるぐると考えているうちに、絵が完成したようだ。彼はスケッチブックから一枚破り取って、僕に差し出した。

「わ、すごい……」

 短時間で描かれた鉛筆描きの僕の絵は、特徴をよく捉えていて、知り合いが見たら一発で僕だと分かるくらいだ。猫背のせいで身長のわりに大きく見えない体とか、耳が隠れるくらいの髪とか。

 この絵は、彼が僕を観察して、その指先から出力したものなんだと思ったら、すごく特別なもののように思えた。

「今日のこれは息抜き」

 彼がパラパラとスケッチブックを捲っていくと、公園の風景や遊んでいる子どもたちが描かれていた。

「あ、そーだ」

 大きなリュックに手を突っ込んで、ごそごそと何かを探し始めた。力を込められた腕の筋肉が盛り上がっていて、意外と筋肉質なんだなと思った。

「これやる」

「うわっ!」

 ひょい、と何か小さいものを投げ渡された。慌ててキャッチすると、それは小さな瓶だった。

「この前祭りで買ったやつ」

「いいんですか?」

「さっきの礼な」

 中に入っているのは金平糖だ。細かい粒がきらきらと光っている。星粒がカラフルに彩られ、まるで宝石のように仕舞われていた。

「ありがとうございます」

「おう」

 そう言って、椅子を向こうに戻してしまった。会話が終了したということなのだろう。

「あの、いつもここで描いてるんですか」

「時々な。息抜きしたい時とか」

「明日もいますか?」

 そう尋ねると、彼は目を丸くしてこちらを見た。ちょっと強引だっただろうかと不安になる。

「んー、じゃあ明日も来るわ」

 そう言って、彼は目尻を下げて笑った。その笑い方は、顔立ちを余計に幼くさせた。



 一枚の紙と小さな瓶を両手に持って家に帰った。紙に汗が染み込んでシワシワになるのが嫌だったから、いつもよりも急いで帰った。

 冷房の効いた部屋で、小瓶を優しく振ってみる。中でシャラシャラと重なり合う音がして、嬉しくなった。机の上には、描いてくれた僕。

 そういえば、名前を聞くのをすっかり忘れていた。明日会った時に聞いてみよう。

 そう思ったら、明日の講習も少し楽しみになった。口の中で、金平糖が一粒かちりと砕けた。



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明日もきみに会いに行く みたか @hitomi_no_tsuki

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