カタリナ

泡野瑤子

1

 日曜の朝が来るたび、シモンは山手にあるロックウェル家の屋敷に向かう。

 記憶が正しければ、シモンの往診はもう二年近く続いている。少し前に西の海を挟んだ隣国モネレシアとの戦争が始まり、グランドン王国の人々が空襲に怯えて外出を控えるようになっても、シモンの務めは変わらなかった。こんな山中に爆弾を落とすだけ無駄というものだ。空襲に遭うなら首都オクセリオかベイリンのような軍港のある都市だろう。いずれもここからは遠い街だ。

 屋敷へと続く緩やかな坂道には、灰色のブロックが敷き詰められている。ロックウェル氏は蒸気自動車を送迎に出すと申し出てくれたが、シモンは断った。遠慮ではなく、この緑豊かな坂道を歩きたいのだ。木漏れ日が先週よりも和らいでいるようだ。夏はもうすぐ終わるのだな、とシモンは考えた。

「先生、本日もお世話になります……」

 今日も玄関のベルを鳴らすまでもなく、執事のフォーレスト氏が迎えに出ている。口ひげを蓄えた上品な老紳士だ。シモンはお決まりの挨拶を交わし、白い大きな扉の中へ招かれた。

 屋敷はロックウェル家の本宅ではない。ここは患者のために用意された別荘で、ロックウェル氏とその奥方は仕事のためにオクセリオにいる。廊下には薬の匂いが漂っていて、すでに晩秋が訪れたかのようにひんやりとしている。

 壁に掛かった絵画には、穏やかな田園風景が少々粗っぽいタッチで描き出されている。芸術に一家言持つシモンには、それが有名な画家の作ではないと分かる。この絵はいつから飾られているのだろう。初めて来たときはもっと素晴らしい作品だった気がするのだが。

 いくつも部屋があるが、シモンが訪れるのは決まった一室だけだ。患者は北向きの、屋敷の中で最も日当たりの悪い部屋にいる。生まれつき日光に弱く、外に出ることができないからだ。

「カタリナお嬢様、先生がお見えですよ」

 フォーレスト氏が扉を開けた。広い部屋なのに、背の低い本棚と大きなベッドのほかは丸机とスツールが一つずつあるだけだ。

 ベッドに横たわっていた少女がゆっくり視線を向けてきた。彼女の名はカタリナ、屋敷の主人ロックウェル氏の一人娘である。外に出ないせいだろうか、十代半ばにしてはずっと幼く見える。美しい少女だが、あわれ病人ゆえに痩せこけて生気がなかった。そのうえ彼女の傍らに生けられた黄色いユリが鮮やかすぎるから、カタリナの顔はより蒼白に見えた。

「いらっしゃい、シモン先生」

 か細い声だった。カタリナが首を傾げると、乳色の髪が彼女の肩からさらさらと落ちる。往診に来た医者に「いらっしゃい」は少し変な感じだ。シモンは曖昧な返事をして早速診察に取りかかった。フォーレスト氏は別室で待機している。部屋にはシモンとカタリナ二人きりだ。

 いつものことだから、カタリナも慣れたものだった。長く色のない首をもたげ、小さな頭をシモンの両手に委ねる。いまだ膨らみのない胸をさらけ出すときでさえ何のためらいもない。その尖端の色を見ぬようにするのは、 医者としての最低限の礼儀だった。

「今日は調子が良いようだね」

 シモンは先週と同じ診察結果を告げた。あとは今週分の薬をフォーレスト氏に渡し、診察代を受け取れば仕事は終わりだ――医者としての仕事は。

「今週は、何か楽しいことはあったかい?」

 シモンの本当の務めはここからだった。

「先生はいつもそれをお聞きになるわね。でも、変わったことなんてあるわけがないわ。わたくし、この家から一歩も出られないんですもの」

「それでも、お父様やお母様とお電話したり、フォーレストさんたちとお話をしたりするだろう?」

「そうね……」カタリナは頬に細い指を当てて考えた。「『お話』といえば、ひとつ面白かったことがあるわ」

「聞かせておくれ」

 カタリナがよろよろと立ち上がった。いまにも折れそうな肘をシモンが支えると、彼女は本棚から一冊の本を取り出した。

 彼女が語り始めたのは、屋敷の人々との会話ではなく、読んだ本のことだった。題名は『アンナと銀の象』、貧しい少女アンナが空飛ぶ象に乗った旅人と出会い、宝探しの旅に出る物語だ。カタリナの頬がわずかに上気し、翡翠色の瞳が輝く。シモンは今日のカルテと処方箋を書きながら、相槌を適度に打って聞いた。

「……それから、どうなるんだい? アンナと旅人が、海賊船に捕まった後は?」

「まだそこまでしか読んでいないの。先生も続きが気になる?」

「もちろん、気になるとも」

 カタリナは小さな手をぽんと打ち合わせた。

「それじゃあまた今度、わたくしが続きを教えてさしあげるわ!」

「楽しみにしているよ」

 そうは言うものの、シモンには先の展開がおおよそ予測できていた。きっと少女と旅人は機転を利かせて海賊をやっつけるだろう。その後も二人はいくつもの危機に巡り合うのだろうが、物語は必ず大団円を迎える。子ども向けの物語なんて所詮そんなものだ。

 それでも、話をすることでカタリナが少しでも元気になるのならかまわない。それは医者としてというよりも、友人としてのシモンの務めだった。

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