鈍感貴公子、推参!
夕立はさらに激しさを増していた。
それに呼応するかのように後輩は、開口一番、声を荒らげた。
「こ、こんなものをわたしに読ませるなんて、どういうつもりですか!」
続く言葉もほぼ絶叫だった。
「先輩には恥とか外聞はないんですか!」
「なんてったって僕は、
「なっ」
憤然と顔を赤らめる後輩は、手をぷるぷると震えさせながら、しきりに口をぱくぱく動かしているけれど、言葉として僕の耳には届いてこない。絶句する後輩とはなんとも珍しい。これでこそ、この小説を書いた
と、悦に入っているのも束の間。後輩はきっと顔を上げ、鋭い眼光を僕に向けた。そして火を吐くような
「そもそもこんな妹は現実には存在しません。二次元の世界で築き上げられた虚像です。モノローグでお兄ちゃん呼びなんてありえません。少なくとも先輩の妹は絶対に違います。常日頃すげなくあしらわれているのによくこんな小説を書けましたね。ある意味すごいです。驚嘆です。驚愕です。先ほどは読みもせず駄作と決めつけてすみませんでした」
ここで後輩は、ぺこりと一礼。それから
「本当に、傑作ですね」
と付け加えた。
さすがに、鈍感貴公子を自負する僕でも、これは皮肉だ、と理解できたものの、後輩の不敵な笑みに
「それで本題に入りますが、このミステリ
「え、ああ、うん。まあ、そうなんだけど。擬きとは手厳しいなあ。これでも頑張って、実体験をもとに日常ミステリを書いたつもりなんだけどなあ……」
伏し目がちに答えつつ、後輩の反応を窺う。
「そうですか」
と一言だけ。にべもない。
「いちおう確認しますが、この小説の謎は、空白の十時間に兄が何をしていたか、ということですよね?」
「……うん」
「兄は、買い物をしにコンビニへ行く、と嘘をついているんですよね? どこに行ったかを
「兄は嘘なんてついてないし、コンビニ以外どこにも行ってないよ」
「……そんなこと書いてありましたか?」
「いいや、書いてないよ! 妹視点だと、どうしても書けなかっただけさ!」
自信満々にそう言うと、後輩はため息をついた。
「まあ、いいです。要点をまとめると、つまり、こうですね。『兄はコンビニへ向かった。コンビニで買い物を済ませ、十時間後に帰宅。兄はコンビニ以外どこにも行っていない。では、なぜ十時間もかかったのか』」
「後輩に、この謎が解けるかな?」
「十時間かかる買い物……」
そう呟きながら後輩は、思案顔で小説を見つめている。
どうやら遊びに付き合ってくれるらしい。てっきり「この小説はわたしにとってはミステリですらないじゃないですか!」とか言って、
しばらくして後輩は、いかにも真面目な口調で話し始めた。
「兄はコンビニ以外どこにも行っていない、ということは複数のコンビニをまわった可能性はありますね。理由としては例えば『コンビニ限定商品発売! 夜十時から先着百名様!』みたいな売り文句の商品を買おうと思ったけれど、どこも売り切れだったため、いろいろな店舗をまわらなければいけなくなり気づいたら朝になっていた、などでしょうか」
「どんなハシゴやねん!」
思わず、僕の左手が後輩の右肩めがけ弧線を描く。が、当たること
僕は何事もなかったかのようにソファーに座り直し、一つ咳払いをする。
「居酒屋じゃないんだから、そんなわけないって。兄はコンビニ一軒しか行ってないよ。寄り道もせずにね」
「それなら、片道五時間ほどかかるコンビニに行った可能性はありますね。理由としては例えば『新宿駅前店限定商品発売! 深夜三時から先着百名様!』みたいな感じで」
「時間設定どないなってんねん!」
再度突っ込みを放つ。が、またもや空を切った。
僕は何食わぬ顔で補足する。
「兄が行ったのは自転車で五分くらいの場所にある普通のコンビニさ」
「まあ、そうですよね。あとは十時間待ちの行列ができていた可能性もありますが、普通のコンビニならありえませんね」
「せ、せやな」
スタンバイしていた左手が、宙に浮く。
後輩は
「常識的に考えて、コンビニに行き買い物をして帰ってくる、この過程のみで十時間はかかりません。となると、買い物以外のことで十時間を費やした、と考えるべきでしょう。コンビニでできる買い物以外のことといえば、ATMの利用、郵便物の受け渡し、公共料金の支払い、ええと、あとは……」
後輩は
「他にもあるとは思いますが、咄嗟には出てこないです。ただ、どれも十時間もかかるとは思えません。もし普通に買い物をしに来た客が、十時間ほどコンビニにとどまることがあるとすれば、それは犯罪や事故が起きた場合でしょうか」
「……ほう」
「まず、兄自身がなんらかの犯罪を犯した場合ですが、これは違いますね」
「というと?」
「コンビニで起きる犯罪といえば万引きか強盗ですが、どちらも時間をかけて行う犯罪ではありませんし、店側が長時間身柄を拘束したりはしませんから」
「警察に引き渡した、とかは?」
「『兄はコンビニ以外どこにも行っていない』ですよね?」
「あ。そっか」
さっき自分で言ったことなのに、すっかり忘れていた。
ど忘れついでに、もう一つ
「じゃあ、立てこもりは?」
「銀行強盗ならともかく、コンビニ強盗ではまず起こりません」
「……なんで?」
「店内には商品棚があり、犯人側からの死角が多すぎて、立てこもりには向きません。そのうえ、そもそもコンビニには大金もなければ高価なものもありませんから、立てこもってまで強行する気にはならないと思います」
「にゃるほど」
「それに兄は、脅しに使えそうなものを所持してはいませんでした。少なくとも、この小説にはそんな描写はなかったはずです」
そう言って後輩は、手に持つ小説をひらひらさせ、僕を一瞥した。
僕はアイコンタクトで、続きをどうぞ、と
「そうなると可能性としてありそうなのは、なんらかのトラブルがあって兄は十時間ほど閉じ込められていた、ということになりますが、これも違いますね。仮にそんなことがあったとして、そのあとに普通に買い物をするとは考えにくいです。わたしだったら一刻もはやく家に帰りたいです」
「閉じ込められたあと、じゃなくて、閉じ込められる前に買った可能性は?」
「それはないです。買ったものは抹茶アイスですから、十時間も経てば溶けちゃいます」
自分で書いた小説なのに、すっかり忘れていた。
「まあでも、恐妻家ならぬ
何気なくそう言うと、後輩は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、
「きょうまいか」
と呟いた。そしてなぜかその言葉を
僕は後輩の顔を覗き込み、軽く手を振ってみた。おーい。
「……しはそんな……」
おーい。
「え、あ、その……。どこまで話しましたっけ?」
「恐妹家なら、もしなんらかのトラブルで十時間ほどコンビニに閉じ込められることがあったとしても、忠犬よろしく妹の言いつけを守って、抹茶アイスを買って帰るんじゃないか、ってところまで」
「……な言い方……」
また後輩は、なにか呟いていたようだったけれど、最終的には、
「でも、先輩が用意した答えは違いますよね?」
と
「どうして、そう思うのかな?」
「どうして、って、そんなのわかりきっていることじゃないですか」
「いや、まあ、それはそうなんだけど」
「根拠を示せってことですか?」
「そう。それ」
後輩は少し黙したあと、
「傍証くらいなら」
と前置きして、小説を指さす。
「ここ。『レジ袋を渡してきた』とあります。また『レジ袋の中には、カップの抹茶アイスとプラスチックのスプーンが一つずつ入っていた』とも。つまり、レジ袋ごと渡して、その中には抹茶アイスとスプーンしか入っていなかった」
「……つまり?」
「要するに、兄が買ってきた商品は入っていない、ということです。もちろん、前もってレジ袋から取り出して、ポケットかどこかにしまっていた可能性はありますが、そんな描写はなかったですし、もし仮にそうだったとしたら、ソファーで寝るのはおかしいです」
「にゃんで?」
「あらかじめレジ袋から自分が買ってきたものだけをポケットにしまうというのは、
そう言って後輩は、冷ややかな目を僕に向けてくる。べつに後ろ暗いことなんてないけれど、つい目が泳いでしまう。
「ま、まあ、そうだね。うん。ありえない。それで?」
「兄が買ってきた商品は、レジ袋にはなく、隠したわけでもない。となると、そもそも兄はコンビニに買い物をしに行ったわけではない、ということになります。言い換えると、兄は客としてコンビニに行ったわけではない」
後輩は一呼吸置いて、言う。
「兄は十時間ほどコンビニで働いていた。違いますか?」
「さすが後輩! 名推理だったよ!」
僕は賛辞と拍手を送った。
後輩の言う通り、兄はコンビニでアルバイトをしていて、その日は夜勤のシフトが入っていた。それを妹が勘違いしただけ。それだけの話だ。
見事、謎を解いた後輩は、なぜか不満そうに訊いてくる。
「名推理って……。先輩、それ本気で言っているんですか?」
「もちろんだよ。後輩がここまで真剣に解いてくれるとは思わなかったからね。だからそのことに対してのせめてもの賞賛さ。てっきり今回も、推理なしの一足飛びで答えを言い当ててくるのかと」
「前回わたしが読後すぐに答えを言い当てたら、先輩は解決篇を書いてないことをいいことにテキトーなことを言って、実はこっちが正解でしたー、みたいなことしたじゃないですか。だから今回はありそうな別解をあらかじめ潰しておこうと思っただけです」
この前のことはさすがに反省したから、今日はするつもりはなかったよ。
と、心の中で弁解しつつ、
「なるほど。さすが後輩!」
と感嘆の声をあげてみる。
「やっぱり、僕みたいな
「……そう、ですか」
後輩は
「わたしとしては、もう少し
完璧主義の後輩には、先ほどの自身の推理はあまり
僕は後輩の手中にある小説を指さす。
「まあ、題材が良くなかったから、仕方ないって」
しばし後輩は目をぱちくりさせていたけれど、最後には不承不承同意し、おもむろに小説を差し出した。丁重に受け取る。
「それじゃあ、今日はここまでかな。次こそは、後輩をあっと驚かす小説を書いてくるから、そのつもりでね」
そう言って僕は、退散しようと腰を浮かす。しかしすぐに、
「ちょっと待ってください」
とシャツの
振り向くと、後輩は視線を逸らし、
「……えっと、その……。わたしのためにわざわざ小説を書いてきてくださったのに、まだちゃんとお礼を言ってなかったなあ、って思って……」
「べつにお礼なんていいよ。たいした小説でもないし」
後輩はゆるゆるとかぶりを振る。
「ちゃんと言わせてください」
面持ちは
ここまで言われてなお拒否する理由はないので、僕はあらためてソファーに腰掛けた。
ひとまず返却された小説を眺めつつ大人しく後輩の言葉を待っていたけれど、俯き気味の後輩はなかなか話そうとしない。時間だけが過ぎていく。気づけば、さっきまで
静かだ。静かすぎる。
いつもならこういうとき僕は、冗談のひとつでも言って場を和ませるのだけれど、いまはそんな感じでもない。どうしよう。焦る。焦るんるん。
なんとなく居心地の悪さを感じて、あたりを見まわす。目の前にはガラステーブル。その上には数学の参考書、数枚のルーズリーフ、筆箱、それに僕の赤ペンがある。壁かけ時計は五時を少しまわったあたりを指している。カーテンは微妙に閉まりきっておらず、すき間からは外の様子が窺える。とはいえ、僕の位置からではほとんどなんにも見えないけれど。
ふと思う。どうしてこんなに緊張しているのか、と。
僕はお礼を言われるだけなんだから、どういたしまして、と無難に返せばいい。それだけのこと。なんてことはない。……なのに、どうして。
考えても仕方ない。ふっと息を吐き、だらりと腕を下ろす。
と、なにやら左手にやわらかい感触が。これは……クッションか。スカイブルーの色をした四角い物体であり、後輩と僕との間を隔てる物体でもある。僕は誰に
すると後輩は強張った表情で、身体ごとこっちを向いていた。横並びなのにほとんど正対している感じだ。ゆっくりと、右手で髪を耳にかけた。そして前かがみになって、ぐいと距離を詰めてくる。瞬間、シャンプーの香りが鼻をくすぐった。
顔が近い。
なるほど。こう間近で見ても、やっぱり後輩は美人だなあ。
まさしく、才色兼備ここに極まれり!
って、そうじゃなくて。いったい、これからなにを?
……お礼を言うだけ、だよね?
困惑する僕とは対照的に、後輩は覚悟を決めたらしく、膝の上の両手にぎゅっと力を入れて拳に変えた。それから顔を上げ、上目遣い。まっすぐ僕を見据える瞳は少し
桜色の唇が、ちいさく、動く。
「ありがと、おにいちゃん」
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