『空白の十時間』
『空白の十時間』
土曜の夜。九時半過ぎ。
わたしはリビングのソファーに座り、優雅なひとときを過ごしていた。
穏やかに緩やかに流れていく時間。この
しかし、現実は非情で、すぐに安寧は崩壊した。
バタン、と勢いよくドアが閉まる音がしたかと思うと、慌ただしい足音が響き渡る。わたしは持っていたマグカップをテーブルに置いて、雑音の発生源を確認しに玄関へ向かった。
お兄ちゃんがいた。わたしの大好きなお兄ちゃん。濃紺のチノパンを穿き、若緑の薄手のパーカーに身を包んでいる。
わたしは、大好きなお兄ちゃんの、その背中に声をかけてみた。
「そんなに急いでどこ行くの?」
「コンビニ」
「じゃあ、アイス買ってきて」
「……なにアイス?」
「うーん、抹茶ならなんでもいいかな。てか、もう十時だよ。明日は日曜なんだし、明日にすれば?」
「……」
お兄ちゃんは無言で靴を履き、そのまま家を出ていってしまった。
……怪しい。怪しすぎる。
前にもお兄ちゃんは、夜遅くに出かけて朝に帰ってきたことがあった。その時も、今みたいにコンビニに行くと嘘をついていた。最初は友達の家にでも行っているのかなとも思ったけど、たぶん違う。だって、もしそうならそう言えばよくて、嘘をつく必要はない。
なのに、嘘をついて出かけている。
やっぱり怪しい。尾行して真相を確かめたい。でも出来ない。出来ないのがもどかしい。
犯行をするにあたってお兄ちゃんは自転車で現場に行っている。我が家には家族共有の自転車が一台だけ。車もあるけど、わたしは免許証を持ってないから運転できない。もちろん、自転車と同等の脚力も持ち合わせてはいない。
どうすることもできずに、わたしは
再びマグカップを片手にソファーに腰掛ける。大好きなお兄ちゃんが帰ってくるのを待ちながら、いろんなことを考える。
彼女でもできたのかな? ……嫌だなあ。でも、もしそうなら、応援とか祝福とかしなきゃいけないよね。
なにか悪いことでもしてるのかな? それだったら、どうしよう。……ううん、やめさせなきゃだよね。だってわたしはお兄ちゃんの妹なんだから。
あれこれ考えるのに疲れて、わたしはすっかり冷め切ったコーヒーを飲み干した。それからはなんとなく
そしていつの間にか、眠ってしまっていた。
日曜の朝。八時過ぎ。
起き抜けのわたしは、急いで玄関へ向かった。
お兄ちゃんの靴がないことを確認して、わたしは廊下の床にぺたんと座る。そのまま壁に背を
ガチャガチャ、と不意に鍵を開ける音が耳に飛び込んできた。わたしはすぐに玄関のドアを見る。影法師ができている。お兄ちゃんだ。わたしの大好きなお兄ちゃん。
わたしは慌てて立ち上がって、腕を組む。すぐにドアが開く。ドアがまだ開き切らないうちに、わたしはほんの少し怒気を含ませて言った。
「今の今までどこ行ってたの!」
言い終わると同時にお兄ちゃんが玄関に入る。
「ちょっと!」
お兄ちゃんは無言で立ち上がり、無表情のままレジ袋を渡してきた。わたしは突然のことに思わず後ずさる。渡されたレジ袋の中には、カップの抹茶アイスとプラスチックのスプーンがそれぞれ一つずつ入っていた。わたしはおつかいを頼んでいたことをすっかり忘れていた。
はっとしてお兄ちゃんの方に視線を向けると、お兄ちゃんは既にリビングに向かっているらしく、その背中は徐々に遠ざかる。わたしは一応お礼を言おうと思って、後を追った。
途端、お兄ちゃんは急にソファーに倒れ込んだ。慌てて駆け寄る。お兄ちゃんの口許に耳を近づけると、すーすー、と寝息が聞こえた。
な、なんだ、寝ちゃっただけか。そう思って胸を
お兄ちゃんは、昨夜十時に買い物をしにコンビニへ行くと嘘をついて家を出て、今朝八時に帰宅した。
わたしの大好きなお兄ちゃんは、いったい空白の十時間に何をしていたの?
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