第12話 エデン文書

 スペンサーと現れたブルコス会長は、厳重に鍵のかかったアタッシュケースを取りだした。そして黙ってカギを開け、みんなの前に大きな封筒を取り出した。アルフォンス会長が、すぐにそれに気づき、話しかけた。

「ブルコス会長、いいんですか…?」

「さっき、理事会の連中に、辞表を出してきた。やっと気が楽になった。やはり、最初からこうすればよかった」

「辞表を? やはりあなたはたいした人物だ」

 一体何が起こるのだろう、ブルコス会長は、封筒の中から厳重に保管された書類を取り出した。

「…これは、皆さんの推察の通り、盗難事件にあったとされているエデン文書であります。実はなんでもない、私の部屋の金庫の中にずーっと入っていました。ホプキンスが帰る二日前に送ってきたファイルをプリントアウトし、データ室に厳重に保管していたものです。さまよえるネアンデルタール人のプログラムが動きだし、メインコンピュータの中のファイルが被害を受けている、ちょうどそのころ、それとは別に私が勝手に持ち出したものです。さらに、同時に空のシャトルボックスのカギもはずし、誰かが盗んだように偽装までしました」

 みんなのざわめきは一段と高くなった。なぜ、どうして、絶大な人気を誇るブルコス会長までが、そんなことを…。

「この文書を先行して読んだ者は3人。生物学者のニューマン博士は、遺伝子の裏付けも無いままにリアルイブの発見とあるこの文書に失望感をあらわにし、アルフォンス社長は宗教に敵対するような表現に深く悩んだようでした。私は、人類の未来への展望に学べるところはないかと期待していたのですが、彼はある意味その期待を越えてしまいました。経緯はわかりませんが、彼はたぶん、自分の意志で、現代に戻らず、過去を選んだのです」

 みんなの驚きの声、ブルコス会長は、最後に送られてきた楽園に残るという未発表の彼のメールをみんなに見せた。そして、エデン文書の冒頭の部分を読み始めた。

「私、カピウス・ホプキンスは18万年前の世界で、偶然、ネアンデルタール人の村にたどり着いた。そこは幸福感に包まれた楽園であった。そう、森に生まれ、森とともに生き、森に還る彼らは未だエデンの園にいるかのようであった。だが、我々の直接の先祖、ホモ・サピエンスは楽園を飛び出し、新しい心のよりどころを求めて生きる別の進化を遂げていた。しかも、そこには、アダムだけではなく、イブの大きな進化が関わっていたと思われる。こんなたとえ話はどうだろう」

 ブルコス会長は、そこで1度読むのをやめ、咳払いし、ひと口ミネラルウォーターを口に含み、のどの渇きをいやした。どうやら、ここから先が問題の個所であるらしい。

「…旧約聖書にこうある。蛇にそそのかされ、赤い実を食べたイブは知恵を手に入れ、大事な部分をイチジクの葉で隠し、やがてアダムとともに楽園を追われる。蛇は脱皮、新しい命を象徴する。イブは脱皮して新しい進化を手に入れる。赤い実とは、赤い月、つまり月経を意味する。それは年一回の繁殖から、毎月繁殖可能な進化であった。そして、一年中繁殖可能になったイブに呼応して男たちのエネルギーも内側から外側に変わって行く。そして、ホモ・サピエンスは森を出て、繁栄の道を突き進んだのである」

 みんな、シーンと静まり返ってしまった。

 赤い実は、赤い月? そんな意味だったとは…。

「さらにここから先はまず、森に生まれ森に還る、森と調和して生きるネアンデルタール人の暮らしが書かれています。そして、次に、大地を走り回り、いろいろな環境に適応していったホモ・サピエンスのことが詳しく書かれています。家族を愛し、強い父親として家族を守るネアンデルタール人の、神さえもいらぬ幸福感の高い暮らし。一年中繁殖可能となったホモ・サピエンスは、その力を外に向け、新しい環境、不合理な出来事の中で、たくさんの神を生みだしながらどんどん広がって行った。そして、ヘカテと呼ばれた女性が、新しい型の人類の祖先としてリアルイブにふさわしいということも記してあります。さらに、ネアンデルタール人がなぜホモ・サピエンスとの戦いに負けたのか? いろいろな環境に順応するホモサピエンスは気候変動に強かったが、森とともに生きるネアンデルタール人は森が衰退するとともに弱体化すること。そして怪力だが、基本家族のために一人で戦うネアンデルタール人は、チームで戦うホモ・サピエンスの敵ではなかったことが詳しく書かれています。その先は、いくつか抜粋してまとめます。ホプキンスは、格差社会、自由主義社会の矛盾や、超大国の矛盾、独裁者が未だ出現する現代の矛盾を論じた後、こうまとめています。…どうも、何百万年にわたって、百人余りの小さな村落で暮らしてきた我々は、本能的に大人数の幸せを考えることに向いていないと思われる。元々、数千匹、何万羽が群れて暮らすような動物ではなく、ピラミッドの上位で、増えすぎずに周りと調和して暮らしてきたのである。だからどんな国家形態になろうと、結局は村の範囲、自分の一族や同じ宗派の者しか幸福を分け合えない。森を飛び出し、さまざまな環境に適応し、体験したことのない不合理の中に生きた彼らは、神という超越者を生み、国家という枠組みを創り、国民という幻想に過大に期待をした。それでうまく行くと思っていた。でも争いも、格差も何も解決しない。結局、人類は大きな集団の幸せを分かち合えない。現代の人類でも幸せを感じるのは、つまるところ、家族と一緒に幸福に住める土地なのだ。それは村であり、小さな町であり、豊かな故郷であることは何万年たっても何も変わらない」

 ブルコス会長は、そこで1度読むのをやめ、その広いおでこの汗をぬぐった。

「ここから先は未来への提言です。簡単に言うと、村に帰ろう、家族と幸せに暮らそう、真の豊かな故郷作りをしようです。中央集権国家を分解し、その力を地方に分け与え、同時に地域の地形や自然に合致した、本来の集落の復活を提案しています。大量生産、大量消費をやめ、小さな村落の農業や牧畜、漁業を中心にした、第6次産業による自立独立を進めることが書かれています。人間だって顔なじみの小さな集団の中なら平等につきあえる、助け合える。村は分け隔てなく幸せを分かち合う場であり、政治の場であり、独立採算できる経済の場であり、心のふるさとになる。国家はそれらをゆるやかに結び付け、生かし合うために存在すればいいのだと。それこそが、18万年たっても変わらない、人々の幸せな暮らしなのだと」

 そこで、後ろからスペンサーが進み出た。

「彼の言っていることが正しいのかどうかまだわかりません。地域の共同体のシステムと国家の大きいシステムを同時にかえていくのですから、ある意味、今の国家のあり方や経済の仕組みを根本的に変えてしまうようなことかもしれません。でも、さらに衝撃的だったのは、どんな都合があるにせよ、あの思慮深い彼が、18万年前のシステムの方を選び、現代に帰ってこなかったことです。18万年かかって人類は何をしていたんだろう。私は圧倒的敗北感を味わったわけです」

 そしてブルコス会長が言った。

「このエデン文書をそのまま公表し、しかも彼が18万年前の楽園を選んだという事実をそのまま発表するべきか、私は悩み、そして、展望が開けるまで隠し通すことにしました。思惑は当たり、スポンサーも大きな損害を被ることもなく、隊員の貴重な命と引き換えに偶然作り出されたミステリーは、思わぬ富を生みました。タイムシアターや人類タワーも大人気です。でも結局それは、神や自由主義経済の名のもとに、我々の利益を優先させてしまっただけなのかなと…。だからシェパードは死に、ホプキンスは帰ってこないのかと。いいや、すべての真実をキチンと公表して、我々は深く反省し、自分たちの未来のために、本気で取り組まなければいけない。もう、遅いかもしれないが、今から、ここから始めなければいけないと思ったのです」

 ところがその時、ブルコス会長の携帯電話が鳴った。

「なんだ、私はもう会長ではないぞ」

 電話の相手はアイリーン広報官のようだった。

「理事会は辞表をまだ正式に受理していません。そんなことより、今、池波のリターン信号が確認されました。明日の午前中に彼は予定より数日早く帰還するようです。真実がわかるかもしれません。すぐにお帰りを」

 プラド捜査官が進み出た。

「あなたの窃盗や証拠隠滅の件に関しては追って連絡いたします。すぐにタイムドームにお帰り下さい。池波がやっと帰ってくるのですから」

「わかった。感謝する」

 ほっとしたのか、ブルコス会長は、歩きながら手当たり次第に、ローストビーフやサンドイッチをつかんでは腹に流し込んでいった。


 久しぶりの、ネアンデルタール人のツリーハウスは風通しがよく、気持ちが良かった。夜中に降った雨も、森の枝や葉に守られ、まったく気にならなかった。そして朝、青空が広がり、輝く朝日が降り注いだ。

 たくさんの鳥の声に目を覚ますと、あのたっぷりのフルーツの朝ご飯が待っていた。

 西のネアンデルタール人の村で、一晩ホプキンスと語り合った私は、その朝早く、荷物をまとめて出発することにした。朝のひんやりした大気の中、森を抜け、小川を横切り、朝日に輝く黄金の草原に出る。タイムトランクのそばまで、あのホルスとホプキンス、そして、若くかわいらしい母のマヤと、かなり歩けるようになった娘のサヤが送りに来てくれた。ホプキンスはまだ頼りないサヤをわが子のように気遣い、かわいがり、にこにこしながら朝露の草原を歩いていく。遠くに見える巨大なバオバブの巨木のあたりにはあのユニコーンのような一本角のエラスモテリウムの見上げるような巨体が見える。朝日の中、たくさんの鳥が舞い降りる。その大きな体に着く寄生虫などをついばむのだろう。

 ホプキンスがこの約2年の間にまとめた、さらなるネアンデルタール人とホモ・サピエンスのファイルを受け取り、私は転送の用意を始めた。

 あの屈強なゴールドネックのホルスが槍を持って木陰に立ち、その間の見張りをしてくれる。無言だが、とても頼れる、有りがたい。

「この資料を池波君に渡してしまうと、また、現代に帰る理由が減ってしまうな。」

 私は、何も答えられなかった。やはりここに残るというホプキンスを説得する気もすでにおこらなかった。

 なぜなら、私もここに残りたいという気持ちが湧いてきたところだったからだ。

「じゃあ、お元気で」

 ホプキンスはあの人懐っこい顔でニコッと笑った。

 この雄大な自然も、巨大な生物も、温かい人々ももう見納めだ。夢のような時間だった。やがて私のまわりは光に包まれ、風景がだんだん遠くなっていく。最後に見たのはマヤやサヤにかこまれ、幸せそうなホプキンスとその後ろに広がる黄金の草原だった。


 気が付くとそこはタイムドームの中央ステージだった。大きな歓声の真っただ中に飛び出した。大勢の視線が私に集中していた。懐かしい顔が、懐かしい声が駆け寄ってくる。みんな私の名前を呼んでくれる。そうか、この時代も自分を待っていてくれたんだ。新たな感動がこみ上げてきた。

「池波君! やったよ、大成功だ」

 大村チーフやアルトマン、いつものスタッフが目を輝かせて喜んでくれた。

 私は、すぐに回収され、ボディチェックルームへの通路に案内される。

 さっそく、アルトマンにウェザーボイスのお礼を言うと、眼をうるませて喜んでいた。

「そうだ池波、君からのメールで、こっちも助かったんだ」

 私の行っている間に、シェパードの事件は解決したよと教えてくれた。

「すまないね、事前の打ち合わせ通り、この後記者会見だ。よろしく頼むよ」

大村チーフに言われるまで、すっかり忘れていた。ぼやっとしていられない。あの面倒くさい殺菌室やひと通りの身体検査を通過し、身支度を整えると、あっと言う間に記者会見場に通された。

 アイリーン広報官と大村チーフの間に着席。すごいカメラの数、シャッターの音が波のように押し寄せる。アイリーンが口火を切った。

「池波隊員は18万年前から戻ってきたばかりですので、時間厳守でお願いします」

 ほんの数分間ということで、じゃんじゃん質問が飛ぶ

「ホプキンスさんは見つかったのですか」

「はい、見つかりました。彼は元気で過去の研究を続けています。またそのうち詳しく説明します」

 私は。ホプキンスの発見したリアルイブにも会えたとはっきりそう言った。

「古代生物の新しい画像はあるのですか」

「今度は、ホモ・サピエンス側の地域に移りましたので、たくさんあります。キリンのように背の高い恐鳥の仲間や、巨大コンドルも凄いですよ。あ、そうだ大型のサーベルタイガーや巨大狼の狩りの様子もありますよ」

「へぇー、狩りの様子? そりゃ、すごい!」

「今、一番行ってみたい場所はどこですか」

 急にそういわれて思い出したのは生まれ故郷の日本ではなく、あの場所だった。なぜだろう。

「詳しくは言えませんが、地中海のそばの小さな村にすぐ行って休みたいなあ。食べ物がおいしくて、人々もあったかい、いいところなんですよ」

「18万年前と現在を比べて、何か考えたことはありますか」

「それは、本当の幸せとは何かということですね」

 記者会見場の奥では、プラド捜査官とペネロペがそっとそれを見ていた。ブルコス会長は、いつも通り、忙しそうに接待で駆け回っていた。


 数週間後、私はセロ爺さんの村にいた。

「今日は海も穏やかで釣りにちょうどいい日和だ。池波さん、きっと釣れますよ。がんばってくださいね」

「たくさん釣れたら、お土産持ってきますから」

「連れた魚でゼルバの店で一杯やるんでしょ。聞いてるわよ。うちの分はいいから、がんばってね」

 セロ爺さんとおかみさんの笑顔に送られてコテージを出る。竿を担いで果樹園の坂をゆっくり降りて見下ろすと、青い海が見えてくる。海風が心地よい。

「あーら、池波さん、釣りかい?」

「今日は波の感じがちょうどいいねえ。こんな日はよく釣れるぞ」

 青い地中海を見下ろす果樹園のベンチのいつものメンバーが気さくに声をかけてくれる。え? 波の感じがいいって? うれしいなあ、わくわくする。途中グルメ工房の脇を通る。

 観光客の向こうから誰かの呼ぶ声がする。

「おはようございまーす、イケナミさーん」

 かわいい売り子のアルマが爽やかに手を振る。早々と昨夜仕掛けた籠を引き揚げてきたペトラ爺さんが、獲物を自慢する。

「ほらほら、今日は大漁じゃ。ゼルバの店で一杯いこうや」

 籠の中で、ごっついカニや鮮やかなエビが跳ねる。さらに海に向かって坂を下る。小さな漁港を横に見ながら進むと、チョウザメや牡蠣の養殖場が見えてくる。

「よお、池波、今日は釣りかい?」

「ああ船長、元気そうだな。ハハ、実はこの間、船長に教えてもらった場所で釣るんだよ。今日は海の調子はよさそうかな」

「ばっちりさ。これで連れなかったら、よっぽどへたっぴいだな。はははは。」

 すっかり顔なじみになった漁港の人々ひとり一人に挨拶をかわす。どこまでも青い地中海の海風を受けながら、釣りの穴場の岸壁に出る。

「ヘーイ、池波、待っていたぞ」

 ひょろっと背の高い人影が釣竿を持って私を迎える。グルメ仲間のシェフ、オーギュストだ。さっそくふたり並んで釣りを始めるが、いつもの通りオーギュストの話が止まらない。

 おいしい店や、特別な食材の入手に成功した話などが次から次へと切れ目がない。釣れなかったら、お前のせいだぞ。

「今日はここで連れた魚をゼルバのレストランで即、料理だ。池波、競争だぞ」

「おう、負けないぞ」

 ふふ、こちらはセロ爺さんから譲り受けた秘伝の餌と竿があるんだ。勝負はもらった。だが、そうは言ったもののこれがなかなか釣れないんだな…。

 ところが、少しすると後ろから女の声がした。いやな予感がした。

「ねえ、私も一緒に釣りしていいかしら?」

 あの、謎の女ペネロペだ。なぜ、ここに? なぜか色鮮やかなフィッシングウェアをスポーティにきめ、ちゃんと釣竿も持っている。返事もしていないのに私の隣にちゃっかり座りこみ、手際よく餌をつけてさっと竿を振る。オーギュストが、さっそく聞きにくいことを聞きだす。

「…あの、いつも一緒に行動していたプラド捜査官は来ていないんですか。」

「仕事、仕事って忙しいみたい。あいつは女の扱いをもっと学ぶべきね。ルチアーノと変人同士でお茶でも飲んでいればいいのよ。…あっ、ヒット、大物よ!」

「え、う、うそだろう!」

「ほうら、嘘じゃないでしょう、本当にでかいわ!」

 岸壁に歓声が響き渡った。そして笑い声。


 今日も海はどこまでも青かった。 (了)

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ネアンデルタール人殺人事件 セイン葉山 @seinsein

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