第11話 ミステリーの終焉

「それではよろしいですか。サプライズイベント、タイムトンネルのモードでお願いします」

 劇団員は再び例の仮面を装着すると、すばやくその隊形通りに移動した。

 プラドはルチアーノとシェパード役の役者とともにみんなの前に立った。

 その顔は自信に満ちていた。プラドはアルフォンス社長やガルシアをすぐ目の前に呼び出すと、全員に向かって話しはじめた。

「先ほどの、皆さんのご協力により高度な再現性を持って執り行われた1回目の再現によって、すべての謎は解けました。これから、実証実験を始めます」

「すべての謎が解けたと? 本当なのか…」

 アルフォンス社長が思わずつぶやいた。

 劇団員の中からも、どよめきが起こった。先ほど、1回目が終わった時は、プラドたちは何も謎が解けないと言った顔で沈んでいたのに、1時間の休憩時間の間に何があったというのだろうか。

「まず、実際の事件の時にいくつもの不可解なことがありました。通行禁止になっていたドアを通り抜け、シェパードは、なぜ、ベランダに出たのか? さらにそこから10数m離れた湖の岸辺に彼はなぜ行き、そこで石斧とともに遺体となって発見されたのか。最後の彼の電話の言葉…ヘクトール、029…とは何を意味するのか? 事件現場の近くの石畳で目撃された片足だけの大きな足跡とは一体なんだったのか? いろいろな謎があったために、マスコミやインフォセレクトにも大々的に取り上げられ、失踪したホプキンスのかわりに、本物のネアンデルタール人が転送されてきて、殺人をおこしたのではないかと騒がれたわけです。しかし、それは真実ではありません。事件の直接の始まりから見ていただきましょう」

 プラドが合図すると、大広間の壁にモニター画面が開き、そこに当日のシェパードの姿が映し出された。

「シェパードはこの会を進めるうちにある違和感を感じ、もしやと思って、アルフォンス社長のいた司会席に出かけました。そこで大胆にも司会席にあったあるものを懐に入れてしまったのです。いったい何を盗んだのでしょう。これは私の部下がすぐ分析してくれました」

 みんな顔をを見合わせた。気が付かなかったが、そんなことが起きていたのか?

「これが、司会のアルフォンス社長が最初に司会をしていた時の机の上、次がシェパードが近付いた時の机の上、残念ながらこの時は人影が多くよく見えません。そしてこれがしばらくした後の机の上です。どうです、何かが無くなっていませんか?」

 机の上には、例のタイムドームの模型とイベントの進行台本が載っていたが、明らかに最後の方になると、台本が消えていた

「さて、アルフォンス社長、台本はいったいどこに行ったんでしょう?」

「もう、事件から日にちが経っていて、とっくに処分したと思うが…」

「ところが、事件直後から、会場封鎖をして証拠品を徹底的に探した警察にも聞きましたが、その時から行方不明だそうです。社長が台本を持って進行をしていたのは全員が見ている、でも、イベント終了後はどこかに消えてしまった。当然です。シェパードが怪しいと思って運びだしたのですから」

「ひとつ聞いてもいいかね。私の使っていた台本をシェパードが持って行ったかどうかはわからないが、もしそうだとしても、特に私が変な司会進行をしたのだろうか。ここには当日参加した者もいるようだし、プラド君たちは監視カメラの映像で、何度も私の司会を見ているだろう。私は素人だから、司会の勘所も悪いし、言葉の足りないところもあったろう、だがなにかおかしい司会進行をしたならどこが、どうおかしかったのか、言ってみてくれ」

 みんな一瞬、シーンとなった。でもプラドはあのポーカーフェイスのまま、言葉を続けた。

「誰も気づかないところで、とんでもないことが進行していたんですよ。当日の参加者でこの人が気付いていました」

 驚くアルフォンス社長、その時会場のドアが開きふたりの人影が入ってきた。

「まさか、あんたは…」

 それは、あのセレクトニュースキャスターのエイドリアン・クロフォードとカルメン・サラザールだった。プラドが声をかけた。

「クロフォードさん、お願いします」

 するとクロフォードは、いつも通りにこやかに話しはじめた。

「ははは、社長、アルフォンス社長の司会は、言い間違えもなく、盛り上げ方も最高でした。こちらが教えていただきたいくらいです。でも、同じニュースセレクトのスポンサーとして、決してやってはいけないことは、やはり、見逃すことはできません」

「決してやってはいけないこと…」

 みんながざわめきだした。

「最初に見事なバーチャルアートを見せて、それから頭が空っぽになったところで、事実とは違う情報を埋め込む。そうですよね、アルフォンス社長」

「いったい、君が何を言っているのか、まったくわからないが…」

「ではいいですか、あなたは言い間違いだとか、言い忘れたとかごまかすでしょうが、事実はこうです。皆さんはこのパーティーの正式な名称を聞きましたか。ほとんどレセプションとかしか聞いていないですよね」

 そういわれるとみんな自信がない。

「招待状にもきちんと書いていない、しかも司会がわざと言っていないのですから、知らなくて当然です。正式にはリアルイブセカンドプロジェクト レセプションですよね。」

「そうだが…言い忘れたかのう…」

「推進派のニューマン博士の機嫌がいつも悪いはずです。さらに言うなら、隊員と呼んでいましたが、正式にはリアルイブプロジェクト隊員だし、ホプキンスも、リアルイブを探していて、最後に失踪したのだし、イベントもサプライズも、ネアンデルタール人が中心で、リアルイブという単語は、多分会の終わりまで1度も出て来なかった。いや、意図的にすべて削られ、イベント終了後の観客の頭の中からリアルイブの文字は消え去っていた。そうではないのですか…」

 みんな唖然とした。そんなおかしなことに今まで気が付かなかったなんて…?

「いやあ、私は台本の通りやっただけで…」

 すると、そこでプラドが進み出た。

「そうなのです、そこなのです。リアルイブの文字が一つも出て来ないことをおかしく思ったシェパードは、本当にこれが台本の通りかと疑問を持ったわけです。そしてちょっと台本を失敬して、その中身を読んで確かめようと思った。それでさっと懐に入れたのです。ところが、その辺で読んでいたら、台本を盗んだのがばれてしまう。さあ、誰にも怪しまれることなく台本を読むことのできる場所を彼は探していた。さあ、どこでしょう…。」

「それは…もしかして…」

 みんなが顔を見合わせた。

「その通り、通行禁止の看板の向こう側にあるベランダです。彼は台本の確認だけしたらすぐに台本を返すつもりだったのでしょう、さっと人混みにまぎれて、ベランダに忍び出たわけです。そして、そこで事件は起こった。ルチアーノさんお願いします」

「サプライズイベント、タイムトンネルです」

 今度は引き出しの中の操作盤をルチアーノが直接操作した。すると部屋の奥に派手に光が渦巻き、そこからホプキンスが送ってきた映像に基づく、ネアンデルタール人のヘクトールが出てきて、観客の間を通り反対側の壁の向こうに消えていく…。

「ストップ!」

 消える直前プラドの声がかかった。

「みなさん、ここを見て下さい、タイムトンネルの消える方向を」

 みんな、そこを見て驚いた。その壁は偶然ではあるが、間違いなくベランダの内側の壁だった。タイムトンネルのもう一つの光の渦はよく見るとベランダまで突き抜け、大きな光の渦を作っていた。そして、そこにネアンデルタール人が壁を抜けて突っ込んでいくのだ。

「さて、この時台本を読もうと黙ってベランダに出ていたシェパードには、この光景はどのように見えていたのでしょう」

 するとペネロペに連れられて、シェパード役の俳優が進み出た。

「私は、再現を正確に行うため、先ほど、言われるままにベランダに出ていました。ところがそこで驚くべき体験をしたのです。サプライズのタイムトンネルが始まるとすぐ、ベランダでも大きな光の渦があちらでもこちらでも起きはじめ、まるで方向感覚が無くなり、フラフラしてきました。もちろん文字など読めません。そんな余裕はなかった。これがバーチャル映像だとは思っていても、あたり一帯が光の渦になってグルグル回りだすと、どうにもならないのです。しかも最後に突然壁の向こうからネアンデルタール人が突撃してこっちに来るのです。正直凄い迫力で、私はフラフラしたまま尻もちをついてしまいました。そして、サプライズが終わった時、ふと後ろを見て驚きました。そこは湖に一直線の階段のすぐ手前だったのです。もしあと一歩か二歩ずれていたら、私は背中から、まっさかさまに階段を落ちていたことでしょう」

 ペネロペが、それを続けた。

「台本を読まれたくない誰かがシェパードをベランダに見つけ、読まれないように邪魔をしたのかも…。犯人は単なる邪魔をして、その間に近付き、台本を取り戻すつもりだったのでしょう。でも、通行禁止のベランダのバーチャル映像の迫力は予想以上で、台本が読めないどころか、最後に突進してくる原始人の迫力で、大事件に発展したんです。」

「ちょっと待ってください」

 アルフォンス社長が口を挟んできた。

「このサプライズイベントは、今日、初めて披露したわけで、当日はやっていません、誰も見ていないはずです。そうですよね。今日初めて、さっきやったんですよね」

 するとペネロペが意味ありげに笑った。

「それは、そうであるとも、そうでないとも言えるわ。皆様は覚えていますか。シェパードの最期の言葉を、ヘクトール、029を。私、さっき機械を操作しているルチアーノに聞いちゃったんです。この操作盤で029って打ったらどうなるのかってね。ためしに聞いただけなんだけど、ビンゴ、そしたら、ルチアーノの答えはこうだった。029のナンバーの仮面をつけた人にだけ映像がおくられる、個人指定になるよってね。そんなことができるなんて知らなかった。それで、私、当日の受付名簿を調べたんです。そしたら受付番号、029、その番号の仮面をつけていたのは死んだシェパードだった…。つまり、犯人は台本を読まれないように光の渦を起こすつもりで、029の番号のシェパードにだけ、サプライズイベントを見えるようにして実行した。そんなことを知らないシェパードはたったひとり、誰にも知られることもなく、光の渦に巻き込まれ、方向感覚を失い、そしてヘクトールの突進にあわてて、階段を一直線に落ちて行った、しかも背中からまっさかさまに…」

 そして、プラドが先をまとめた。

「たぶん、これは不幸な事故だったのでしょう。でも、シェパードを追いかけ、ベランダに目をやった犯人は驚いた。そしてすぐ監視カメラに写らない従業員用のエレベーターを使って下に降りた。すると、多分そこで見つけたんです。階段の最下段で、強く後頭部を打って血を流していたシェパードを。彼はアルトマンに最後の電話を入れたままこと切れていた…」

 するとアルフォンス社長がまた割って入った。

「ちょっと待ってくれ、その推理はおかしい。なぜなら、血を流して彼が倒れていたのは階段から10数メートル離れた岸辺だ。そこまで足跡も血の跡も無く、しかも短時間に死体を運べるものかね。彼は自分で10数メートル離れた現場まで歩き、そこで襲われた、そうじゃないのかい」

 プラドがすぐそれに答えた。

「シェパードは筋肉質の男で、身長も高い。しかも、体が重いだけでなく、多分そのまま歩いていたら、引きずる跡だけでなく血痕が必ず残る。だけれど彼の周囲には、そういったものは何もなかった。でもそんな不可能なことをできる男が一人、いたとしたらどうでしょう」

 シェパードのような屈強な男を短時間で運べる男などいるはずが…? いや、いる? みんなの視線があの身長2メートルの男にそっと注がれた。アルフォンス社長が、すぐに反論した。

「ガルシアは、違う、犯人じゃない。ずっと奴はワシの近くで…」

 しかしそこまで言うと、ガルシアが社長を止めた。

「…いいえ、社長、もう結構です。私をお守りになることはない。何もない。プラド捜査官、あんたには負けたよ。すべては俺一人の思い付きでやったこと。社長は何も知らないんだ。だから…」

「ガルシア…、このパーティーを考えたワシの責任じゃ。お前は、何も…」

 ポーカーフェイスのプラドがモニター画面に見取り図を映して続けた。

「これはこの屋敷を上から見た図です。ベランダから続く階段のすぐ下は、水深10センチに満たない浅瀬です。昔は貴族がここに小舟を付け、湖に階段から直接舟あそびに出たそうです。でも、実際はシェパードは、ここの階段から10数メートル離れたところで見つかっている。これはあたかもシェパードが殺人事件に巻き込まれたように見せる偽装です。みんな騙されてしまった。というかそんなことは普通一人では短時間で行うことはできない。でも、身長2メートルの屈強なガルシアならできる。しかも、彼は頭脳も一級品だった。とっさに彼はシェパードの体から台本を抜き取り、さらに湖の浅瀬や波打ち際を歩いて10数メートルの先に遺体を運んだ。足跡も、流れ出た血も湖の波が飲み込み、掻き消してくれた。だが、ガルシアの片足は水にすっかりつかりびしょびしょになった。それが、石畳の片足だけの足跡に、しかも人間離れした大きな足跡になったわけです。しかも、彼は事件を決定的なものにするあるアイテムを現場に残した。そう、それこそ…ネアンデルタール人の石斧です」

 すると今まで黙っていたルチアーノが進み出た。

「すべてバーチャルイベントが終わった後、仮面が外れた後で、まだありえないものが残っていたらどうでしょう。気付いた招待客の記憶に深く刻まれることでしょう。ガルシアさんから、ネアンデルタール人を強く印象づけてほしいと言われたことから、わざわざ3Dプリンターで用意したのがこの石斧です。本当なら、イベントの最後にサプライズのタイムトンネルをやり、それから仮面を外した後に、あの机の上に会ったタイムドームの透明な模型の中に石斧が出現するはずだった。そして、ネアンデルタール人の映像が消えた後でも招待客に印象付けるはずでした。しかし、石斧はいつの間にか消え去っていたのです。もちろんサプライズイベントのタイムトンネルもお蔵入りとなったわけです」

 ルチアーノがそこまで言ったとき、カルメンが進み出た。

「そこから先はあたしに言わせてね。消えた石斧は犯人の手によって、岸辺に運ばれた。しかも被害者の血痕をつけて、遺体のそばにわざとおかれた。それがなければ事故死としてすぐに解決になっていたかもしれない。でも単なる事故死が、殺人に偽装され、さらに石斧を置いたことにより、そこに大きなミステリーが生まれた。当初、アルフォンス社長は、悩んだでしょうね。リアルイブの単語を消し、マスコミがホプキンスの失踪やネアンデルタールのことばかり追いかけるように仕向け、メタトロン社の顧客である宗教関係者に考慮することを…。リアルイブが立ち消えになれば、成功は成功だけれど、人類の真のルーツ発見という本来のニュースが無くなって、会社的には大損失を被ることになる。ところが、ガルシアが機転を利かせて石斧を置いたおかげで、古城の世界的ミステリーとなり、新しいニュースバリューが生まれたわけ。リアルイブ発見のニュースバリューには及ばないけど、世界中でこの世紀のミステリーを追いかけることとなり、イブのニュースに劣らない情報収入を生みだした。たぶん、そこに石斧があるのとないのでは、私たちの儲けもがらりと変わっていた。私もうまく乗せられて、あんたたちにうまく使われていたってわけよ」

 アルフォンス社長は、もう、何も隠すつもりはないようだった。

「さすがだね。我々はニュース一つひとつに、信頼度や年代別ニーズ、総合評価金額などを瞬時につける。それぞれの会社別のシステムを持っている。もちろん、先読みして予想金額を立てることも日々行っている。イブ発見の情報が失われても、ネアンデルタール人の情報やその殺人事件に広がったことによって、損害分はほぼ回収できた。ガルシアは何とかしようといつも一生懸命だった。その結果がこんなことになるとは、思いもしなかった。すべては、私が原因だ。私がうすうす気づきながら何もできなかった」

 プラド捜査官は、表情を一つも変えず、ガルシアの前に進み出た。

「さまよえるネアンデルタール人のプログラムを作ったり、人類タワーで不正アクセスをしたのもお前だな」

「ああ、さまよえるネアンデルタール人のプログラムは数日前に仕込んでおき、みんなの視線がセンターに集中する転送時に動き出すようにセットしておいた。だから私がいなくても自分で動きだし、リアルイブの言葉のあるファイルはすべてコピーの上、削除させてもらった。それから、人類タワーだが、あの時は痛い思いをさせて悪かった。」

「印刷されたエデン文書を盗んだのは? ホプキンスの失踪は…?」

「それは知らない…、私たちは関わっていない」

 カルメンが、ガルシアに詰め寄った。

「嘘つくんじゃないわよ」

「…いや…」

 だが、その時、後ろのドアが開いてふたりの人影が入ってきた。

「はは、ガルシアは何も嘘など言っていない」

 振り向いたみんなの目に入ったのは、あのペネロペの上司スペンサー・グレイスとまさかのグルメモンスター、ブルコス会長だった。


 岩がまた崩れ、水面にしぶきを上げる巨大ワニの鋭い牙が空を斬る。それでも西の村のネアンデルタール人は、決してあきらめず、崖にへばりつき、なんとかよじ登ろうと必死だ。

「アド、どうせ死ぬんだから、無理なことはやめろ。危ないぞ」

 上からホモ・サピエンスのアドが槍を突き立ててとどめを刺そうとするのを、そういってやめさせるのが私の精一杯の行動だった。私も近付き、なんとか助けられないものかと思案したが、ロープを使ってもあの頑強なネアンデルタール人を持ち上げるのは到底無理だ。だが、輝きを失わないネアンデルタール人の瞳を見ると、いてもたってもいられない。自分が死ねば、家族が食べていけなくなる。子供のためにも、妻たちのためにも、強い父親として戻ってやらなければならない、そんな生きる力に満ちた輝きだった。

 だが、その時だった。すぐ頭の上を何かが通過した。どこから飛んできたのか、拳骨大の石が…。

「えっ!」

 ぱっと周りを見回してみても、誰もいない。

「ぐおっ!」

 アドの横っ腹に石が命中する。ただならぬ緊張が走る。みんなあちこちをキョロキョロしながら、後退を始める。私は叫んだ。

「みんな、危ない、早く逃げるんだ」

 ひとりが逃げ始めると、もうみんなバラバラちりぢりになって逃げだす。いまだ相手は見えない。石はどこか藪の中から次から次へと飛んでくる。よほど大人数で投げているか、もしくは投石器かなんかだろう。でも、森の連中も、草原の連中も、そんなしゃれたものは持っていなかった。未知の敵か? いったいどんな敵が…。

「グオオ!」

 だが、逃げようとした私のカーボンヘルメット越しに、大きな石が直撃した。一瞬目の前が真っ白になり、足がもつれたようになって、私はその場に倒れた。そしてだんだん気が遠くなっていった。

 夢なのか、昔の思い出がよみがえってきた。ここは…? そうか、サバイバル訓練をしたジャングルだっけ…。くたくたになって木陰で休んでいると、あのホプキンスがやって来て冷たい水をくれたっけ。人類学者と生物学者はいろいろと重なる部分も多く、私たちは、訓練の合間に話をすることが多かった。ホプキンスはあの人懐こい笑顔もなおさらだが、いつもおいしい食べ物や飲み物を隠し持っていてそっと渡してくれるいい人だった。あの時も、あの冷たい水がどんなにおいしかったことか。

 ホプキンスは、私の傍らに座ると、ほほ笑みながら話しはじめたっけ。

「今の世界は行き詰っている。一言で言って、今の世界に特効薬はない。何かひとつの方法で解決するとは思えない。たぶんあちこちにいっぺんにいくつもの薬を打って、地球全体として治していくしかないでしょう。でもどこにどのくらいどんなタイミングでどれだけ予算をかければいいのか誰も分からない。そこで、以前の論文で、池波隊員がエコロジー的探究法、動的多様性科学観というのを書いていたのを思い出したんです。あなたはひとつの主義やひとつのシステムが自然を作ることはない。数えきれない命が、いくつものシステムが支え合って世界が成り立っている。つまり、一つの小さなシステムに効く特効薬をいくつ作っても解決はしない。すべてを生かし合う新しい視点とそれを実現する多様なアプローチの方法が必要だ。学ぶべきはシステム同士の多様な組み合わせと循環だとそれを明らかにする新しい科学観、探究法だと…。それはつまりこういうことですよね。ひとつのパズルのピースを突き止める研究ではなく、無数のピースで大きな世界をいかに描くかの研究なのだと」

 ホプキンスは確信を持ってにやっと笑った。

「さすが、ホプキンス博士、うまいことを言いますよね、一つのパズルのピースを突き止める研究ではなく、無数のピースで大きな世界をいかに描くかの研究、ええ、その通りです! 私はそれが言いたかったんです」

 私ははっと気が付いて、目を覚ました。ここはどこだ。私はあそこで気を失って…。

「悪かった。まさか投石器の石が君に当たるとは思わなかった。特にけがはないようだけれど…平気かい、池波君」

「平気です…」

 とりあえずそう答えたが、私は驚いてそれからしばらく言葉を失った。

 涼しい森の中で、私を迎えてくれたのは、ホプキンスその人に間違いなかった。でも丸メガネはそのままだが、髪とひげは伸び、上半身は裸だった。

 ふと横を見ると、さっき崖にへばりついていた西の村のネアンデルタール人が隣に座っていた。よかった。助かったんだ。

「今、世話になっている村のホルスだ。池波がとどめの槍を妨害してくれたと、お礼を言っているよ。私が用意したロープを自力でよじ昇って脱出したんだ」

「よかった、助かって、本当に良かった」

 私は起き上がって、ホルスに握手をした。ホルスも私が起き上がったのを見て、喜んでくれた。ホルスは気を失った私を、この安全な西の森までかついで運んでくれたのだという。

「そうだ、まずはこれをどうだ」

 にこっと笑ってホプキンスは、冷えたフルーツを渡してくれた。近くの清水で冷やしておいたという。いつもホプキンスは何かをひょいとくれるが、いつだって最高だ。

 みずみずしくて冷えていて甘くって、涙がでそうにうまかった。

 どうやら私が元気になったのを見ると、ホルスは立ち上がり、ホプキンスにまた後でと挨拶し、去って行った。彼も家族に会いたいのだろう。

「…ええっと、何から話したらいいのか…」

私は、今までの出来事や、ここについてからのことをざっと話した。

「ははあん、それで、隊員の順位の高いダミアンやホフマンじゃなくて池波が来たのか。よかったあいつらとはうも気が合わないというか、池波でよかったよ」

「ホプキンス博士は、殺されたという説もけっこう信じられていて、私は心配していましたよ」

「はは、ある意味、私の国民としての存在も、宗教も、ホモ・サピエンスとしての存在も、すべて死んだも同じだ。君もネアンデルタールの村にいたからわかるだろう。彼らの村の幸福度の高さが。森と見事に調和して生きる彼らには、不合理などないから、神さえもいない。病気になっても、野獣に襲われても、すべては森に還り、森の命となるのだから…」

「不合理があると神が必要なんですか」

「ホモ・サピエンスの村には、戦いの神や、生命の神に当たるものがある。戦ってけがをしたり、その結果死んだりするからだ。森の住人と違って、森から草原、砂漠地帯まで進出する彼らは、多様な環境に対応することによって分布を広げた種族だ。彼らは自分の村を出て、環境も考え方も違う外の世界に出ていくことが本性なのだ。そこには自分の力だけではどうしようもない不合理があるのだ。そこから逃れ、あるいは未知の土地や、未知の人々を自分の力とするために神に祈るのだ」

 そうか、自分も村から出る時に、ミューシャとヘカテから蛇の抜け殻をお守りにもらったしな。新しい命を得るために。

「じゃあ、ホプキンス博士は、今…」

「現代人としてのすべての権利を捨てて、ネアンデルタールの村で暮らしている…。ははは。初めはちょっとした事件に巻き込まれて帰ることができなかったんだが、今はそれでよかったと思っているよ」

 それからしばらく、ホプキンス自身による、失踪の真相が語られたのだった。

 ことの起こりから言えば、あの村に連れてこられたネアンデルタールの母子だった。私と違って、現代に帰るギリギリまで村に居続けることのできたホプキンスは、村を出る二日前には、最後の手紙と、エデン文書を完成させ、シャトル転送で、現代に送ることに成功した。そして、ついに最後に村を出る日の朝、あの母子がいる小屋のカギをそっとはずし、自分の村に帰るんだと声をかけたのだそうだ。そして村のリーダーだけにお別れの言葉を言って、そっと村を出て行ったそうだ。みんなに引き止められて、転送の時間を逃さないように。

 ところが村を離れて、少し行くと、まさかのあの母子が追いかけてきたのだという。母の名前はマヤ、赤ちゃんの名前はサヤ、二人だけで村に帰るのが心細いのだという。そこでホプキンスは、西の森の見えるところまで送り、そこからあのタイムトランクの前まで戻って来たそうだ。するとしばらくして、そこに、ホモ・サピエンスの村から男たちがやってきた。ネアンデルタールの女が逃げた、見かけなかったかというのだ。ホプキンスは見かけなかったと嘘を言って、その場をしのいだ。男たちは、槍を振り回しながら、女を探しに行った。うまく村に戻れるといいが…見つかったらただではすむまい。

 そしていよいよ転送時間が近付いた。ホプキンスは村にいた間に書き上げたホモ・サピエンスの資料を転送ボードにセットし、後は時間を待つだけだった。だが、転送の直前、なんと、マヤとサヤが、タイムトランクの前にやってきたというではないか。村に行ったら、夫はホモ・サピエンスに負わされた怪我がもとで死んだという。ほかに頼れる人もいないので、一緒に村に来てくれと言うのだ。慣れない草原を、しかも危険な野獣をものともせず…。よっぽどの思いでここまで来たに違いない。

「ホプキンス、お願い」

 すぐ戻るとか、うまいこと言って、現代に帰るのは簡単だった。だが、ここでふたりを置いて帰るのは見殺しにするのも同然だ。この辺をうろうろしていたら、危険な野獣や興奮した奴らにすぐ見つかってしまうだろう。

 そこで悩んだホプキンスは、結局、資料と簡単な手紙だけを転送し、自らは過去に残る決断をしたのだという。

「え、手紙を送ったんですか? 私たちには知らされていなかった…」

「転送時間が迫っていた。私は仕方なく短いメールをその場で打った。だが、今考えると、知らぬ間に自分の心の奥をさらけ出してしまったのかもしれない。反省しているよ」

 その短い時間で書いたメールの文章は次のようなものだったという。

 …理由はかけません。私は決断しました。しばらくこちらの楽園に残ります…。

「そうか、その文面だと、現代に戻るのが嫌になったと受け取られたかもしれませんね。だから発表されなかったかもしれない。しかも、問題だとされたエデン文書の送られた後だし」

「最初は事件が落ち着いたら、すぐにリターン信号を送って、次の隊員と合流し、帰るつもりだった」

「でも、すぐ合流するはずだった私は、妨害に会って、二年近く来るのが遅れてしまった。あれ、でも、ホプキンス博士、あなたからのリターン信号は一度も来なかったと聞きました。もう誰も迎えに来ないと思って絶望したとか…」

「それは、逆かな。無意識のうちに楽園に残ると書いたのは私です。私の本心は、最初から残りたかったんでしょうね。ここには、もちろん文明の便利さもない。でも、戦争もないし貧困も環境破壊も、エネルギー問題もない。神もいないが絆があり、かえがたい幸福がある。一生をかけてこの森の住人の暮らしから学び、未来の自分たちのために少しでも役立てられないかと思った。それから、現代では不合理な国家間の問題に巻き込まれ、私は家族をすべて失った。ところが、長期間にわたって私が村に住みつくことがわかったら、どうだろう。村人は誰もが家族のように優しくなり、まるで生まれた時からの仲間のように私を受け入れてくれた」

「家族ってまさか?」

「特にマヤとサヤが、家族ごっこみたいなもんだがよくしてくれて、離れがたくてね。とにかく、ここにいると失ってしまったものがすべて帰ってきたような気さえするんだ。ホモ・サピエンスは森の楽園を出て、大地を走り回る力を手に入れ分布を広げた。ネアンデルタール人は森の楽園に、幸福な恵みの中に未だとどまっているのさ」

 ホプキンスの顔は晴れ晴れしていた。

「あとひとつだけ教えてください。すべての始まりになった、エデン文書のことを…」

「わかった。みんなに迷惑をかけたエデン文書のことを今こそ語ろう」

 雨が近付いて来たのだろうか。遠くで雷が鳴った。湿った風が森を吹き抜けて行く。なんでエデン文書と呼ばれていたのか、その真実が本人の口から語られたのだった。

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