陽炎
■
目を瞑っているというのに、日差しが瞼を突き抜けて俺の眼球を焦がす。眠っているというに、どこか意識が覚醒していく。
ゆっくりと目を開けてもなお、俺は起きているのか眠っているのかわからなかった。目に映る天井はぐにゃりと歪み、どこかに置き忘れてきたみたいに意識は遠い。なんとか持ち上げた頭は、頭蓋骨の内側から鈍器で叩かれているかのようにひどく痛む。
ここが天国あるいは地獄か。
と思ったが、ひどい腐敗臭が漂っていることに気づき、ここが現実であると確信しする。
「俺の部屋じゃないか」
臭いの原因は、今寝ている床に染みついていた、吐瀉物だった。それは間違いなく、陽炎を服用した際にぶちまけたものだ。揺らめく視界の中にも見覚えのあるものが多く、ここが間違いなく自室であることを確信する。
俺は確かに、かつての夢を見た。
それは今は亡き母の夢であり、人生最上の瞬間と言って差し支えない。
であれば、俺は陽炎を服用したに違いない。
確実に死に至ると言われている、三回目の服用をだ。
死を覚悟して辰也の下へ向かった記憶もある。未だに思考もはっきりとしない、それこそここが夢か現かも断定できない中、それすらも夢であったと言われてしまえばそれまでなのだが。
自らがまだ息をしていることに困惑している中、ふと右の手の内に何かが握られていることに気が付いた。手のひらに収まる、つるつるとした手触り。俺はその感触に、覚えがあった。
脳の信号が上手く届かない指先をなんとか開き、靄のかかった視界の中で、それを確認してみる。やはりというか、それは陽炎を包んでいたポリ袋であった。これまで三度と受け取ってきたものだ、恐らく間違いないだろう。
「陽炎が、なんで」
しかしその中には、まだ錠剤が入ったままであった。
「どういうことだ」
はっきりとしない視界と思考の中では、それが確かであるかに確信ができない。だから俺は、何度も震える指先でそれの感触を味わった。つるりとした感触の中に、小さな凹凸の手触りがあり、ポリ袋の内に何かが入っているのは間違いなさそうだ。
凹凸の数は、三つほど。
陽炎の服用、ちょうど一回分だ。
つまり俺は、陽炎の錠剤を飲んでいないことになる。
ポリ袋には破ろうとした痕跡すら認められず、ただ俺の手に握られていただけだ。もしかすると、意識が朦朧としていた俺は辰也の家から帰るなり、陽炎を飲む前に力尽きて眠ってしまったのかもしれない。
いや、そうに違いない。
とすれば、あの夢は、三回目の夢は――
「母ちゃん、母ちゃん、母ちゃん」
あれは、陽炎が見せた幻なんかではなく、俺自身が見た夢であったのだ。
夢とは、記憶の整理とも言われている。
すべてを諦め郷愁と心中しようとしていた俺は、実のところ誰かに止めてほしかったのかもしれない。その深層心理が、いつだって俺を諭してきた母の記憶を呼び起こしたのだ。
使い物にならなくなった眼球に映る視界はく歪み、世界は陽炎のように大きく揺らいで、部屋には靄が立ち込めた。
「ごめん、母ちゃん」
そうなった要因は、陽炎の副作用か。
それとも、溢れる涙か。
今の俺にはもう、わからない。
■
あれから数年が経った。
俺が歩むのを止めても、時の歩みは止まらない。
「
名前を呼ばれた俺は、ゆっくりとベッドから身体を起こす。薬が抜けたとは言え、陽炎が俺に刻んだ爪痕は大きい。体を動かすたびに全身は痛むし、まるで言うことを聞かない時だってある。倦怠感や眩暈はもちろんのこと、時折視界もはっきりとしない。
俺が今寝ている病室のベッドだって、もしかしたら本当は黒いのかもしれない。この柔らかな手触りだって、本当はただの鋼鉄だったりしてもおかしくない。窓の外から差してくる夏の日差しだって、本当は冬のそれであるのかもしれない。
「今日の体調はどうですか」
俺はあの後、結局服用することのなかった陽炎を携えて、自首をした。大きくうねるアスファルトの上を歩くことは叶わず、ずりずりと這いながら揺らめく世界を進んで、なんとか街の交番まで赴いたのだ。
数日間の入院を経て、俺は警察に事情を聞かれることとなった。
俺は、全てを話した。郷愁の念に抗えず陽炎を二度服用したこと、それは友人の辰也から入手したこと、彼はきっと三回目を服用しただろうこと、その全てを。
警察の調査の結果、俺の証言に嘘偽りがないことが判明し、それから暫く経ってから処罰が決定した。初犯であること、多少なりとも情状酌量の余地があること、陽炎の売買には加担していないこと、それらが考慮されて実刑とはならず数年間の執行猶予がついたのだ。
「体調ですか。変わりないですよ、最悪です」
「あらよかった。最悪です、なんて言えてるのは元気な証拠ですね」
それからずっと、俺はこの病院に入院して治療を続けている。違法薬物とは、常に後遺症に悩まされるもので完治などない、陽炎もその例に漏れない、と医師は言っていた。
俺はそのことに、絶望も驚きもしなかった。
そのくらいのことを俺はしでかしたのだし、当然の報いと言える。過去の幻影を見るためには、それほどまでの代償を払わなくては叶わないものだと、俺は身に染みて理解してもいた。
ただ一点後悔しているのは、辰也のことだ。
彼も郷愁の念に抗えず、陽炎の揺らぎの中へ身を投じてしまった。
夢の中で会おうだなんて言っておいて、結局俺が最後に見たの母の夢だ。夢の中に現れた母に救われて、俺は最後の陽炎を見ずに生き延びた。
だが、辰也はそうではない。
辰也はきっと、輝く青春時代で俺たちと語らいながら死んでいったはずだ。
警察に辰也のことを聞いてみても、『陽炎関係者のことは話せない』の一点張りであった。ただ、きっとそれは恐らく、これから前を向いて生きていかねばならない俺に気を遣って、あえて辰也の死を伝えなかったのだと思う。
「飯島さん。今日は面会が来てるんだけど、通していいかしら」
過去の煌めく揺らぎの中へと消えていった辰也に思いを馳せていると、看護師が俺の顔を覗きこんでくる。俺の視界が良好ではないことを知っている看護師たちは、いつもこうして話しかけてくるのだ。小皺の数とふくよかな体の線から、いつも私を担当している中年主婦の看護師であることがわかる。
「ええ、どうぞ」
俺に面会が来ることは、そう珍しくない。
そのほとんどが、警察関係者だ。あれからも陽炎に関する事件は後を絶たないらしく、少しでも情報が欲しいだとかなんとかで、色々と聞いてくる。
煩わしいと思わないでもないが、協力しない理由もない。
実のところ、俺が知っていることなんて大したことはないのだから。
これから小一時間ほど頭の痛む時がやってくることに少々うんざりしつつ、病室の引き戸が開く音のした方へと、重い首を回した。
「よう、善治。気分はええんか」
「お見舞いに果物持ってきたぞ」
虚ろな視界では、声の主の姿がよく見えない。
だがその声に、俺は聞き覚えがあった。
思い出の中でも、ゆらゆらと揺らめく陽炎の中でも聞いた、俺が求めてやまなかった声だ。
「耕平、一秀」
俺はまた、あの薬を飲んでしまったのだろうか。
これは、揺らめく過去の幻影なのだろうか。
「なんだ、意外と元気そうじゃんか。心配して損した」
「ホンマにな。俺らの心配返せや」
両の肩にぽんと手を置かれ、それが現実のものであると確信する。俺の右肩には一秀の右手が、俺の左肩には耕平の左手が置かれている。あの看護師と同様に、二人はずいと俺に近づいて、その顔をよく見せてくれた。
世界を覆う靄を突き抜けて、耕平と一秀の顔が俺の視界にはっきりと映る。俺が焦がれた、俺が求めた、過去の中だけに生きていた友人の姿が、今ここにあった。
「どう、して」
「ま、話は全部聞いたよ。来るかどうかも、正直迷った」
「ぶっちゃけた話、俺も一秀も嫁さんに『行くな』言われとったんやけどな」
二人の顔が、俺の傍から離れていく。
それでもなお、彼らの姿だけはハッキリと俺の瞳に映しだされたままだった。
「にしてもアホやな、お前も辰也も。陽炎なんて意味のわからんもんに手ぇ出して」
「少しは言葉選べよ耕平」
「アホか一秀。こういうのはな、親友の俺たちからガツン言わなアカンわ」
「お前、またアホって言ったか」
その姿もやり取りも、かつてのままだ。
進むべき場所も未来も変わってしまってもなお、あの頃と同じままの姿が目の前にある。
それよりも、何よりも、こんなことになってしまった俺を『親友』と呼んでくれたことが何よりも嬉しく、胸の奥から何かがこみあげてしまいそうになった。
「俺も周りから行くのを反対されたよ。けど、来た」
「周りが何と言おうがよ、親友やろ、俺らは」
かつて吸い込んだ夏の粒子が、全身を駆け巡ってくる。
かつて共に飲んだコーヒーの味が、俺の喉を潤していく。
過去の幻影は、実体となって現在にまで俺にまとわりついてくる。
彼らの瞳は、確かに俺たちが共に生きる未来を夢見ていた。
「お前も辰也も、元気になったらまた飲もうや」
「そうだな。四人で馬鹿みたいに騒ぎたいわ」
そしてその未来には、辰也の姿もあった。
「今、なんて」
彼らは確かに、辰也の名前を口にした。
まるで彼が、今も生きているみたいに。
「ん、聞いてないんか。辰也もな、お前と同じや。三回目の陽炎を使用する前にバタンキューしたらしくてな。自分の部屋でぶっ倒れてたのを警察が見つけたんやって」
「かなり危険な状態だったらしいよ。善治の証言から辰也の家まで行ったんだけど、あと数時間遅くなってたら死んでたかもしれないし、目を覚ましたら三回目を使ってただろうしで、ギリギリだったって」
辰也が、生きている。
俺と同じように、三回目の陽炎を見ることが叶わず、今も生きていると彼らは言う。
「まあ、辰也は陽炎の取引に加担してたから。実刑は免れないって」
その事実に、俺は大いに困惑した。
辰也は、『人生最高の記憶と共に揺らめいて死ねるなら、それこそ最高だ』と言っていた。そんな彼の願いを、俺は断ち切ってしまったんではないか。死んだように生きることを、彼に強要してしまったのではないか。
「今はムショん中おるわ。実は俺らもこの間会ってきてな、善治への伝言を預かってきた」
ゆっくりとそう語る耕平の口を、塞いでしまいたくなる。
最後まで陽炎の見せる夢に付き合わせた挙句、中途半端にそこから掬いあげてしまった辰也の言葉を、俺は聞きたくなかった。
『最後に見た夢の中で、オトンにぶん殴られた。善治、すまなかった。そして、ありがとう』
だが、耕平が語った辰也の言葉は、予想だにしないものだった。
「お前もお袋さんの夢を見たんだってな。辰也も親父さんの夢を見たんだと」
「辰也の父ちゃん、めっちゃ怖かったもんなあ。アカン、思い出しただけで震えてきたわ」
辰也もまた、過去の幻影を振り払ったのだ。
俺が母親の愛情でそうできたように、彼は父親の愛情で。
母、父、耕平、一秀。
俺たちが煌めく過去の郷愁に打ち勝てたのは、過去の郷愁の中に生きる者の存在だったのだ。
『またやり直せばいいやろ。さっき善治も言っとったけど、あんたらは親友なんやろ。だったら、これからまた一緒に未来を見ていけばいい』
その時、夢の中で母が語った言葉が、脳裏に浮かぶ。
過去で揺らめく陽炎は、美しい思い出のままでよい。何が起こるかわからない、先の見えない陽炎に向かって、俺たちは共に歩んでいけばいい。
時の歩みと同じ歩幅で、俺たちも歩んで行く。
変わらずにはいられないものがあるのなら、俺たちも同じように変わっていかねばならない。
「なあ、一秀、耕平」
「なんだよ」
「どしたん」
かつて夢の中で再会した親友たちを見ていると、心の中に空いた穴が埋まっていくような感じがする。過去の幻影の中で感じていた何とも言えぬ虚無感を、彼らの存在が塗りつぶしていく。
そこで俺は、初めて気づく。
俺と辰也が、執拗に陽炎を求めた理由を。
揺らめく最上の記憶だけでは、きっと物足りなかったのかも知れない。
「お前らと会うの、夢の中だけじゃ足りねえや」
胸の奥から溢れる熱気は陽炎となり、俺たちの未来を優しく揺り動かした。
郷愁の陽炎 稀山 美波 @mareyama0730
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