離愁
指先の感覚がない。意識も朧気である。視界は揺らめいている。頭蓋はすでに砕けているようにすら感じる。
俺は今、どこにいるんだろうか。
俺は今、何をしているんだろうか。
歩いているのか、走っているのか、止まっているのか進んでいるのか寝ているのか起きているのか死んでいるのか生きているのか夢か現か――何もかも分からない。
覚えているのは、煌めく過去の映像。
確かなのは、陽炎を二度服用したこと。
揺らめく陽炎のように今にも消えてしまいそうな意識の中、辰也の言葉が何度も頭の中を巡る。
『その二回で体はボロボロになるかもしれねえけどよ、今もボロボロじゃねえか俺らは。何も変わりゃしねえんだ。二回やって、死にたくなけりゃそこで止めりゃいい。生きるのが辛くなったら、三回目をやって夢の中で死にゃあいい』
陽炎を二回服用し、死に瀕している今だが、これまでと何か変わりがあるだろうか。夢も希望も未来も失って生ける屍となっていたこれまでと、屍寸前の今――そこに差などありはしない。
『善治。俺たちは、郷愁の念には抗えないんだ。人生最高の記憶と共に揺らめいて死ねるなら、それこそ最高だと俺は思うぜ』
辰也の言う通りであった。
目の当たりにすればするほど募っていく、郷愁の念。それを渇望する心に、俺たちがどうして抗えようか。
現で死んだように生きているより、夢の中で生きるように死ぬ方が、よっぽどマシに思えてくる。
「ああ、誰だ。善治か。善治だな。違うか、いや、善治だな。お前は善治に違いない」
そんなことを考えていると、自然と足は親友の下へと向かっていた。ぐにゃりと歪む視界の中、そこが辰也の家であることはわからなかったが、彼の声だけは確かに耳に届いてくる。
「もう視界も思考もめちゃくちゃだ。何がなんだかわかりゃしねえ。ここがあの世だって言われても、俺ぁ信じるぜ」
陽炎が見せてくれた、かけがえのない思い出。その中で何度も聞いた声だ、聞き間違えるはずがない。俺の目の前には確かに、親友の姿がある。揺らめく陽炎の中でも、彼の声はしっかりとした実体をもっていた。
「でもな、お前がきたってのはわかるぜ善治。夢の中で、陽炎の幻の中で、何度も聞いた声だ。最高の思い出の中にあった、善治の声だ」
それは辰也も同じようだった。彼が飲んだ陽炎もまた、人生最上の時として俺たち四人の青春時代を選んだのだ。
「俺たちが上京することを決意して、耕平に子供ができたってのを教えてくれた日だ。お前も覚えてるだろ。二回目の陽炎はさ、四人で俺の家で酒飲んでさ時の夢を見させてくれたよ。あの頃はよお、楽しかったなあ、幸せだったなあ。なあ善治よ。俺たちよ、どうしてこうなっちまったんだ」
眼下で、辰也らしき存在が足元にすがりついてくるのが見える。彼の声が段々と霞んで聞こえてくるのは、とうとう俺の耳がイカれてしまったのか、それとも彼が声が掠れるほどに泣いているのか。ぼやけた頭では、それも判別することができない。
「辰也」
俺は崩れそうな体に鞭打ってなんとか腰を下ろし、揺らめく陽炎の中にいる辰也の影に対峙する。その存在を確かめるように、何度も彼の名を呼んだ。
「これが最後の陽炎だ。金はいらん。店長からふんだくってきたからよ」
俺の親友は、誰よりも俺のことを理解している。
そして俺も、彼のことを誰よりも理解している。
お互いがこれからどうしたいかは、言わずとも理解できた。
「ありがとう、辰也」
俺たちは、郷愁の念に抗うことができない。
最後くらい、煌めいていた記憶を抱いて死にたいと思うことは、至極当然なことだろう。陽炎は、死んだように生きていた俺に、最後の夢を見させてくれたのだ。
「じゃあな、善治」
「夢の中でまた会おうぜ、辰也」
俺の記憶は、そこまでしかない。
■
窓の外から、ヒグラシが悲し気に鳴いているの聞こえてくる。まるで懺悔するかのようなその声の方へと向き直ると、窓の外では山々に濃い茜色が落とされていた。田畑の姿も昼のものとは違い、その緑に朱色が混ざって見える。
アスファルトから昇る熱気も、今はない。
揺らめく陽炎もその姿を消し、視界は実に良好であった。
「善治」
夜の訪れを告げる虫の声に、懐かしい声が混じった。
呆れるほどに聞いた、その優しい声。反対を押し切って上京した手前中々帰省できず、とうとう最後の言葉も聞くことができなかった、その声。
「今日は善治の好きな生姜焼きって言ったやろ、早く座りなね」
歓喜と恐怖の入り混じった感情でゆっくり振り向いた先には、かつての母の姿があった。
「どうしたん、そんな変な顔して。食べやんのか」
陽炎が最期に選んだのは、辰也たち友人たちの記憶ではなかった。
この場所は紛れもなく自宅で、不思議そうに俺の顔をみる女性は間違いなく母だ。
五年前に亡くなった、女手一つで俺を育ててくれた母。俺の上京を、最後まで反対していた母。喧嘩別れしたまま、とうとう今生の別れとなってしまった母。
呆然とする俺を律するように、外にいるヒグラシが一際大きな声をあげる。それと同時、沈みかかった茜色が窓から差し込んで、夕食が並べられた座卓の前に腰かけた母を明るく照らした。
母の姿は、俺が家を飛び出した当時のままだ。
俺が最後に見た、皺と白髪にまみれた死に装束の姿ではない。
「善治、豚の生姜焼き大好きやったろ」
母が指差す先には、俺の大好物であった豚の生姜焼きが二人分並んでいる。食欲をそそる懐かしい香りにつられて、俺は座卓の前へと腰を下ろした。
太陽も山々へと腰を下ろしたようで、あっという間に外には夜の帳が降りる。ヒグラシの声もいつしか聞こえなくなり、夏の夜虫の物悲しい声だけが食卓を彩った。
「なあ善治。母ちゃんに言いたいこと、あるんやろ」
幾度となく言われてきた台詞だが、いつ聞いても慣れない。
母は決して、俺を怒鳴ることをしなかった。俺が何か悪さをした時は、こうして俺の好物を夕飯に出しては自白を促してきた。まるで全てを見透かしたかのような母の瞳に、俺はいつだって屈してしまうのだ。
「母ちゃん」
母の透き通った瞳には、一点の揺らぎもない。
そこに映った俺だけが、母の瞳を汚している。
「俺、東京に出ても、何もできんかったよ」
息詰まる喉の奥から、なんとか声を絞り出し、爆発しそうな感情を言葉にしていく。懺悔にも似た感情の吐露を、母は黙って聞いていた。
「東京に行けば、何かが変わると思ってた。だけど、何もできやんで。大事なのは場所じゃなくてその人間次第なんだって、ずっと気づかんかった。焦っとったのかもわからん。耕平は早いうちに奥さんと子供作るし、一秀は大学へ進もうとして、それに乗せられたかたちだけど辰也も上京を決意して」
かつて夢を見た俺の双眸は、湧き出る涙を抑え込むには、あまりに小さすぎた。豚の生姜焼きが、俺の涙で塩辛くなっていく。それにすら気づかずに、俺は俯き、肩を震わせ、涙を流し続けた。
「俺だけだったんよ。何も考えとらんかったんは、俺だけ。皆一足早く大人になって、俺だけがまだ子供だった。皆が未来に生きようとしとったのに、俺だけがまだ過去に生きようとしてた。新しいものに手を伸ばそうとせず、手に入らない過去に縋ってたんよ」
過去とは、思い出とは、心の内にあるからこそ輝いて見える。
その光を背に受けて、新たな光を求めようとせず、俺はただひたすらに後ろだけを向いていた。
「終いには陽炎なんてもんに手を出して。母ちゃんは生きたくても生きられんかったのに、俺は望んで死のうとして。過去の揺らめく陽炎に、俺は囚われとった」
年月を重ねるごとに揺らいでいく、過去の幻影。
それは当たり前のことだというのに、俺はそれに執着していた。
「耕平も一秀も、辰也も。俺はあいつらの過去の姿しか見とらんかったんよ。年相応に大人になっていくあいつらに悪態ついて、『昔はよかった』だなんて嘆いて、『今』のあいつらから目を背けてた」
郷愁の念に抗えず、俺は彼らの陽炎をひたすらに追っていた。
「俺たちは、友達なのに。俺たちは、親友なのに。どうして俺は、あいつらと一緒に未来を見ようとせんかったんやろ。そら、陽炎も最後はあいつらの夢を見させてくれんわけや」
俺たちの関係が昔のままでいられないのなら、どうして新しい関係を築こうとしなかったのか。俺たちは共に青春時代を生きたのだから、それができたはずだ。けれども彼らの幸せを呪い、彼らの不幸を祝う、最低の人間へと成り下がっていた。
「母ちゃん。もしかしたら俺は、母ちゃんに叱られたくてこの夢を見たんかもしれん。最後くらい母ちゃんに怒ってほしい――そんな願いを、陽炎は叶えてくれたんかもしれん」
人生最良の瞬間、それは母の愛を受けた時に違いない。
だから陽炎は、最後に母の幻影を見せたのだろう。
「なあ、善治」
涙も枯れた頃、優しい母の声が頭上から降ってくる。それと同時、頭を優しく抱かれる感触があった。そのままゆっくりと顔を上げていくと、母の顔がぼんやりと霞んで見える。
「母ちゃんがお前を叱ったことが、一度だってあったかね」
優しく微笑む顔が、次第に揺らいでいく。
それはまるで、陽炎が夜の闇の中へ溶けていくかのようであった。
「またやり直せばいいやろ。さっき善治も言っとったけど、あんたらは親友なんやろ。だったら、これからまた一緒に未来を見ていけばいい」
その揺らぎは段々と大きくなり、母の幻影は霞んでいく。
三度目の陽炎が見せる幻影も、俺の命も、残り僅かということか。
「でも、俺は」
「どんなことがあっても母ちゃんは、善治の味方やに。世の中がどれだけ善治を悪く言おうが、母ちゃんだけは言わん。だから、安心して眠ってな」
母の姿が霞みいくように、俺の意識も遠のいていくのを感じた。眠ったが最後、俺は母と同じところに行くのだろう。人生最良の思い出を抱いて、過去の幻影の中に囚われたまま、俺は揺らいで消えていく。
「母ちゃん」
経緯はどうであれ、俺はこうして実家へと帰ってきた。
そしてこれから、母と同じところで眠りにつく。
であれば、せめてこの言葉だけは母に伝えておかなければ。
五年前、とうとう言えなかった、この言葉を。
「母ちゃん、ただいま」
俺の意識は、揺らめく母の陽炎の中に、ゆっくりと溶けて消えていった。
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