孤愁

 郷愁の薬物、陽炎。

 一回目の服用では倦怠感や眩暈を覚えるという話だったが、俺は身をもってそれを味わった。


 あれからというもの、体に何かがまとわりついたような疲労が常に俺の中にはあって、時々視界が揺らぐほどの眩暈もある。そのせいで仕事にも集中することができず、今週は何度上司に叱責を受けたかわからない。


 仕事に集中できなかったのは、何も倦怠感のせいだけではない。

 陽炎が見せた幻――煌めいていた少年時代の思い出が、俺の中で蠢いていたからだ。


 時を経るごとに薄まっていった、あの頃の記憶。

 それを鮮明に思い出したせいで、それが二度と手に入らないことが口惜しくてたまらない。一度経験してしまった快感は、そうそう手放せるものではない。


「なあ辰也。あの薬だけど」


 俺の体は、あの揺らめく記憶を欲してやまなくなってしまっていた。

 辰也の言う通りだ。俺たちは、郷愁の念に抗えない。


「善治、お前も使ったか。陽炎を」


 俺の中で蠢いて今にも暴れそうになっている郷愁を、俺は鎮めなければならない。そのために、こうしてまた大衆居酒屋へ辰也を呼び出したのだ。彼も彼で俺が何を求めているか理解していたようで、中ジョッキを一気飲みした後、嫌らしい笑みでもって『陽炎』の名を口にした。


 その目の淀みは先週よりも遥かに深く、その奥に灯る黒い光は朧気で虚ろに揺らめいている。


「辰也、まさかお前も」

「ああ。先週は気軽に『俺たちは郷愁に抗えない』だなんて言ったけどよ。その通りだったよ、抗えねえ。抗えねえよ、これは」


 どこか目の焦点の合わない辰也は、ぼそぼそと何度も『抗えない』と呟く。その重く小さな悲鳴は、未来だとかを歌うジェイポップの中に溶け込んでしまった。


「善治と耕平と一秀と、夏休みを過ごしたよ。秘密基地でよ、四人で集まって、土手に捨てられてたカッピカピのエロ本を一心不乱に読んでた。あの頃は、そんなことですら幸福だったんだ」


 陽炎が見せた幸福の夢を語る辰也の指先が、ぷるぷると震えているのが見えた。彼の中に蘇った夏の粒子を求めるように、小刻みに動いている。その姿は、もう戻らない過去の輝きを懸命にかき集めているように見えた。


「一度思い出したら、それがたまらなく欲しい。一度手が届いたからこそ、また手を伸ばしたくなる。お前らとの日々が戻ってこないだなんて、そんなことってあるかよ。俺はもう一度、陽炎の中で揺らめく記憶を手繰り寄せたい」


 辰也の言葉ひとつひとつが、俺の中に染み入ってくる。彼の吐露する感情は、まるで俺の心の内を読み取ったものであるかのように思えた。


「二回目。お前もやるんだな、善治」


 二回目とは、聞くまでもなく陽炎の服用のことであろう。

 自分が二回目の服用をすることを前提に、辰也は俺の意思を問う。あの時を経験して、抗える者などいるのだろうか。辰也も俺も、同じ気持ちであるらしかった。


「ああ。頼む」

「そうか。それでな、その、陽炎なんだけどよ」


 揺らめくあの時を、煌めく陽炎を、俺はもう一度味わいたい。

 その意思を伝えたが、辰也の返事はどうにも歯切れが悪い。その理由には、なんとなく察しがついていたので、既に味などわからないハイボールをゆっくりと飲み込みながら彼の返答を待った。


「もう二回分を手に入れたんだけどよ。店長に足元見られてな、その」

「幾らだ」


 中毒となった者の抗えぬ感情を逆手に取って、高値で薬を売りつける。フィクションと変わりない現実に、驚愕よりも笑いが先に出てしまう。えらく察しのいい俺に目を丸くする辰也を見ていると、安酒の味が口一杯に広がったように感じた。


「百万」

「わかった。俺が半額出す。だから一回分、分けてくれ」


 人生最良の時をもう一度味わえるのならば、金に糸目を付けるつもりはない。数十万でも数百万でも、あの青春時代にはそれ以上の価値がある。


 夢の中とは違い、辰也は皺も白髪も増え、不健康そうな肌が薄手のパーカーから見え隠れする。あの健康的な小麦色の肌をした辰也に会えるならば、金など惜しくはない。心の底から、そう思えた。


「いいのか。というか、出せるのか」

「金貸しでも何でも使って捻出するさ」


 辰也にしては珍しく、えらく出し渋っているように感じた。彼なりに、友人である俺を揺らめく陽炎の中へと堕としてしまったことを気にしているのかもしれない。


「俺たちはもう沼の底に沈んでる――そう言ったのはお前だ、辰也」


 そんなことを気にする必要はないと、俺は言ってやる。

 死んだように生きている俺たちにとって、沼の底で見る夢の光は、陽炎は、救い以外の何物でもない。


 俺の言葉を聞いた辰也は俯いて、ただ肩を震わせた。

 その震えは感情の昂りによるものなのか、アルコールがそうさせたのか、陽炎の副作用か、それはわからない。


 未来、希望、夢。

 店内にはそんなそジェイポップが相変わらず流れていて、過去への郷愁に焦ぐ俺たちの間をすり抜けていく。



「なあ辰也。俺は嬉しいんだ。お前の人生最良の時に、陽炎が見せた幻に、俺がいたことが」



 そのジェイポップを耳障りだと思わなかったのは、これが初めてかもしれない。



 ◆



 喫茶店に漂う空気は、お世辞にも良いものとは言い難い。

 多種多彩な煙の香りが絶妙に混じり合い、先ほど食べたサンドウィッチを今にももどしてしまいそうだ。その不快さを、アイスコーヒーでもって流し込む。常連の中年共が曇らせた店内を、オレたちの煙でもってさらに曇らせていく。


「お前ら、堂々と吸うのやめろよ。俺まで共犯だと思われたらどうすんだ」


 咥え煙草に火を付けたと同時、一秀が怪訝そうな顔を浮かべながらそう言った。一秀の手にしたアイスコーヒーの氷が溶け、からりんと小気味よい音を奏でる。それと同調するかのように、耕平がげらげらと下品に笑ってみせた。


「お前、県外の高校やろ。こっちで見つかったって何ともならんやろ」

「匂いで親にバレるだろうが」


 一秀と耕平のこのやり取りを、何回見たことだろう。

 高校もろくすっぽに行かず退学した耕平と、県外の進学校に通う一秀。傍から見れば、まさに水と油といった感じに見えるかもしれない。


「まあだ親がどうとか言っとんのか。少しは大人になろうや一秀。そんなんじゃ彼女もできやんぞ」

「ばあか。おるっちゅうねん」

「は、おい、嘘やろ。初耳やぞ」


 だがしかし、オレたちの友情に変わりはなかった。

 時が流れ、それぞれが違った道を歩もうと、青春時代を共に過ごした思い出たちがオレたちを引き離さない。耕平が高校を辞めて働き出しても、一秀が県外の私立高校へ進学しても、オレたちはこうして同じ時を共有している。


「おい辰也、善治。お前らは知っとったんか」

「俺も善治も、この間三人で会った時に聞いた」

「嘘やろ。かあっ、また俺だけ仲間外れにしやがって」

「仕事があるってお前が断ったんやろ」


 けれども、ドブ川のザリガニを無垢に追っていたあの頃と全てが同じというわけにもいかなかった。耕平には仕事があり、一秀には受験勉強がある。オレと辰也はというと、それとなく高校生活を満喫している。


 小学校時代の夏、揺らめく緑色へと向かってオレたちは共に歩んできた。その先には同じ未来が広がっていると信じてやまなかったが、それはどうやら違うのだと、最近になってようやく理解した。


「それよりも、一秀は受験勉強順調なんか」

「まあ、それなりに」

「県立大目指しとるんやろ。エリートやんか、エリート」

「大学出たら起業して、俺を雇ってくれよ。もう足場組むのは飽きたんさ」


 耕平は一足先に社会人へ、一秀は大学へ、それぞれしっかりとした未来を見据えていた。


「俺より、善治と辰也だよ。お前ら、どうすんの、進路」


 どこか宙ぶらりんだったのは、オレと辰也だけだったのかもしれない。


「わからんなあ。耕平のとこで雇ってくれんか」

「辰也ならともかく、善治みたいなヒョロには無理やな」

「お、すまんな善治。俺だけ一足先に進路決定やに」

「ひっでえ。じゃ、県立大を出た後の一秀に期待しますかね」


 それを実感するのが怖くて、オレたちの関係を変えるのが怖くて、彼らとは歩んでいる場所が違うのだと理解するのが怖くて、オレも辰也も深くを考えないようにしていた。


「お前ら、県立大県立大言うけど。俺、東京の大学行くからな」


 だが、何もかも変わらずにはいられない。

 オレたちが歩むのを止めても、時は歩むのを止めないのだから。


「嘘やろ」

「初めて聞いたぞ」

「え、そうだっけ」


 オレは咥えていた煙草を口から零し、辰也はコーヒーを噴き出し、耕平はそれを浴びた。そんなてんやわんやな状況や、厳かな店内から冷ややかな視線が向けられていることにも気が付かず、オレたちは一秀に詰め寄る。


「教育のレベルも生活のレベルも、やっぱり東京のがいいのは当たり前だからな。東京の大学を出て、そのまま向こうで就職しようと思う」


 オレたちの関係に、一つ大きな区切りができようとしていた。

 外では相変わらず油蝉がやかましく鳴いていて、アスファルトからは靄が立ち込めている。揺らめいて不鮮明なその先に、一秀は未来や希望があると信じて、勇気ある一歩を踏み出そうとしている。


「そうか。そうだよな」


 机の上に零れ落ちたコーヒーを見ながら、辰也はわなわなと震えている。オレもそれに倣って、手元のグラスを一瞥してみた。コーヒーは黒く淀んでいて、長い間同じ場所に留まっていたせいか、熱を失っている。


 何故かはわからないが、それが今の自分の姿に思えて仕方がない。


「決めた。高校卒業したら、俺も東京に行く」


 だが辰也は、その淀みを陽炎の中へとぶちまけたのだった。


「嘘やろ辰也。お前まで」

「馬鹿野郎。善治、お前も行くんだよ」


 彼の力強い手は、先の見えない靄の中へと俺を引きずり込んでいく。ゆらゆらと揺らめく陽炎の先にはきっと輝かしい未来がある、そう信じて疑わない目の色をしている。


「善治。お前も思ってたやろ、このままじゃいけんって。耕平は立派に社会人やって、一秀は一所懸命勉強してよ。俺たちだけやで、鼻水垂らしてドブ川のザリガニ追っかけてた時と変わっとらんのは。なあ、俺たちもでっかい夢掴もうやんか」


 辰也の目は、きらきらと煌めいている。

 彼にはきっと、夢や希望といったものしか見えていないのだろう。


「辰也。その話、乗ったぜ」


 その夢や希望が満ちた世界に、オレも居座れたならどんなに幸福か――そんなことを思った。



 ◆



 体を起こすこともままならず、俺は布団に吐瀉物をぶちまけた。部屋はぐにゃりと大きく歪み、自分の手元すらゆらゆらと揺らめいているように見える。思考はまとまらず、頭は割れるように痛い。何とか立ち上がろうとしたがそれも叶わず、吐瀉物の上へそのまま倒れ込んだ。


 陽炎、二回目の服用。

 自分の存在すらあやふやに感じ、まさしく己が陽炎そのものになったかのようだ。


 二回目の陽炎は、高校時代の俺たちを映し出してくれた。

 友人たちが各々の道を歩み出し、俺と辰也が夢を抱いて上京することを決心した、その日の光景だ。


 あの後、耕平と一秀の二人は俺たちを激励し、俺たちは大いに騒ぎ合った。耕平も上京に誘ったのだが、何故かにんまりとした笑みを浮かべながら彼は断ったのだ。なんでも、交際していた彼女の妊娠が発覚し、そのまま結婚するだとかなんとか。


 俺たちはさらに騒ぎ、興奮そのままに辰也の家で酒を飲んだ。普段はそういった不良行為に加担しない一秀さえ、その日は酒を飲んで俺たちの未来を讃えてくれた。


 そんな記憶を、陽炎は鮮明に思い出させてくれた。

 未来、希望、夢――そんなものを語り合った、人生最良の時を。


「おええ」


 そして今、その代償が胃からせりあがってくる。



「クソみたいだ、本当に」



 輝かしい過去、暗い現在。

 汚れた布団の上に吐き出された汚れた吐瀉物は、俺の現状そのものに見えて仕方がなかった。

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