哀愁

 煙草を思いきり吸い込む度、頭が軋むように痛む。

 それは日頃の不摂生のせいでもなく、先ほどまで飲んでいた安酒のせいでもなく、ガタのきた換気扇の音がそうさせているのではない。


 半分ほど吸い終えた煙草を咥えつつ、俺はズボンのポケットの中をまさぐってみるた。手のひらには、ポリ袋特有のつるりとした感触が伝わってくる。半ば現実逃避のようにそれを何度か手の内で遊ばせてみた後、おもむろにそれを取り出しすこととした。


「辰也、とんでもないもん持ってきやがって」


 がたがたと大きな音をたてて回る換気扇に向かって、溜息に乗せて小さく煙を吐き出す。肺を通さずふかしただけの色濃い煙はゆらゆらと揺らめき、ゆっくりと消えていった。


 俺の口から解き放たれたそれは、今俺が手にしている薬物の俗称にもなっている現象によく似ていたと思う。


「陽炎、ね」


 陽炎。

 服用者の健康を代償に、人生最良の時を思い出させてくれる、違法薬物。


 陽炎は過去への郷愁を撒き餌にして、現状を嘆く者をおびき寄せる。陽炎の毒牙に三度咬まれれば再度、揺らめく過去の中へと消えていく。


「あの時に、戻れる、なら」


 無意識の言葉が漏れた後、はっと気づいて大きく首を横に振る。

 俺の人生最良の時、それは間違いなく青春時代だろう。辰也を含めた友人たちと過ごした、かけがえのない日々。


 あの時に戻りたい、その気持ちはもちろんある。

 だが、違法薬物に手を染めてまで、自らの健康を捧げてまで、戻りたいと思っているのだろうか。


 ぽとり、と煙草の灰が落ちると同時、携帯電話が震えた。

 間隔の狭い振動が三回――メールの着信を伝えるものだ。

 そのこそばゆい振動は、どこか浮ついた非日常感から俺を掬い上げてくる。


 我に返った俺は、吸い殻で一杯となった灰皿になんとかスペースを見つけて煙草を揉み消す。取り出した携帯電話には淡い緑色のランプが灯っており、夜の闇に包まれた室内をぼんやりと照らしていた。


「耕平か」


 折り畳み式の携帯電話を開くと、地元の友人・耕平からのメールが届いていた。

 なんてことはない、彼の奥さんがもうすぐ出産だとか、地元に帰ってきたら子供を身に来いよだとか、そっちは辰也とどんな感じだとか、他愛のない内容が綴られていた。


 現実へと引き戻してくれた友人からの便りが、再び俺の郷愁を刺激する。それとともに、過去をより輝かしいものとさせ、現実をより錆びつかせた。


 高校を中退した後、地元で働きつつも家庭を築いた耕平。県外の私立高校、東京の有名国立大学、一部上場企業とエリートの道を歩んだ一秀。夢に生きた結果、現実に殺されつつある辰也。


 そして、俺。

 俺たち四人は同じ青春時代を歩んだが、行きついた先はどれも違う。


 その現実が、まざまざと見せつけれられたような気分となった。あの頃の青春は戻らないのだと、彼らと俺の現実はもう二度と交差することはないのだと。


 換気扇に吸い込まれることなく微かに残った煙草の煙が、俺の過去のように淡く揺らめいているように見えた。


「陽炎」


 それはまるで、陽炎のように。



 ◆



「おい善治」


 熱せられたアスファルトから、目に見える程の熱気が昇っている。それは緑色の背景を揺らし、耳をつんざく油蝉の声の煩わしさを際立させているように見えた。視界を覆い尽くす揺らめく緑が田畑のそれであると気づいたのは、立ちこめる夏の匂いに混じって濡れた土の匂いが鼻腔をついたからだ。


「聞いてんのかよ善治」


 再度自らの名を呼ばれ、ふと我に返る。

 四方を覆う夏の空気にあてられていた俺を覚醒させたのは、年端もいかない少年の声であった。


「辰也」


 俺を呼ぶその少年は、紛れなく辰也の姿をしていた。

 よれたランニングシャツと短パンから、小麦色に焼けた肌が剥き出しとなっている。


「どうしたん、ぼうっとして」

「そんなんじゃ釣れるもんも釣れやんぞ」


 辰也だけではない。ひどく懐かしい風景と匂いの中に、あの頃の一秀と耕平の姿もある。ゆらゆらと揺らぐ緑色の中に、かつての旧友はしっかりとした形でそこに佇んでいた。


 天に広がる海の如く青い空の向こうに、連なった山々が見える。小汚い色合いのその下には、どこまでも続くと思わせるほどの田畑が広がり、その景色を油蝉の声が覆っていた。


 年齢がようやく二桁となった僕の小さな体に、夏の粒子が染み込んでくる。息を大きく吸う度に、粒子の一粒一粒が全身を巡っていくのを確かに感じた。


「釣りって」

「耕平の自転車ケッタが壊れたらしくてな。山まで行くのはえらいし、今日はドブ川でザリガニ釣る言うたやろ」

「善治、ほんま大丈夫か。風邪でもひいたか」


 一秀が心配そうな顔で僕を覗き込んでくる。利発さを絵に描いたような瞳には、心の底から僕を心配するような色が窺えた。


 そうだ。今日は学校の裏に流れる川――通称ドブ川でザリガニを釣るんだった。だからこうして僕は竹竿とスルメを持ってきたんじゃないか。元々は山にある秘密基地に行くはずだったけども、耕平のが壊れてしまったので予定を変更したのだ。


 最も釣果の悪かった奴が罰ゲームとして、明日は自転車ケッタなしで秘密基地まで向かわなくてはならない。ブラウン管の向こうでは、明日は猛暑だと言っていたはずだ。照り付ける太陽の下、農道をひた走るのがたまらなく嫌で、僕は今日のザリガニ釣りにただならぬ気合を入れてきていたというのに、どうして忘れていたのだろう。


「大丈夫。行こう」


 僕が決意を新たにしたところで、田んぼの水面がぴちゃりと鳴る。それを合図として、僕たちはドブ川へと足早に向かっていく。


「ザリガニもいいけどさ、お前らちゃんと宿題進んどるんか」

「一秀は口を開けば宿題宿題て。そんなもんな、最終日に気合入れてやりゃええやん」

「せやな。オレなんてもう諦めとるわ」

「耕平んとこはええなあ、田所センセ優しいもんなあ。夏休みの宿題やってないなんて言うたら、こっちの高島はもう激怒やに。なあ善治」

「やんなあ」


 蝉の声、砂利を踏む音、僕らの声。

 それらが一体となって、夏の中に溶けていく。


 百数十センチの目先には、世界はどこまでも続いているように見えた。揺らぐ緑色の先には、きっと明るい光が注いでいるものだと、僕らは信じて疑わない。


「夏休み、終わらんでほしいなあ」


 僕がふと呟いた言葉に、三人は大きく頷いてみせる。

 この夏が永遠に続けばよいと、この幸福はどこまでもつづいているはずだと、僕らは願ってやまない。


 田畑はどこまでも続いているし、山々はいつまでも薄汚いままだ。

 蝉はいつまでも鳴き続け、ドブ川のザリガニは僕らをいつまでも待っている。


「これからの人生、ずっとこんな夏休みやったらええのに」


 辰也の言葉は、より一層その揺らぎを強めた陽炎の中に、ゆっくりと静かに消えていった。



 ◆



 固い感触が、後頭部から伝わってくる。その硬質感がやけに気味悪く、段々と意識が自らの支配下へ戻ってくるのがわかった。意識を取り戻すにつれ、自分の体が自らのものでないかのような感覚に陥っていく。


 思考は靄がかかったかのように朧気で、視界はゆらゆらと揺れている。窓から差し込む日差しすら、気色の悪い曲線を描いているように見えた。


「うえっ」


 途端、胃の中から何かがせりあがってきて、思わず嘔吐えずいてしまう。壁つたいにゆっくり立ち上がると、頭上で何かが音を立てて回っているように見えた。未だに視界が揺らいでいるのかとも思ったが、それは古びた換気扇であることに気づく。


 ようやくクリアとなってきた視界と意識とで辺りを見回すと、そこが見覚えのあるキッチンであることがわかる。シンクの中には未洗浄の食器類が水だけを被っていて、その中で小蠅が息絶えているのが見えた。間違いなく、自室だろう。


 キッチン横の小窓からは、朝日と小鳥の囀りが微かに届く。どうやらここで眠ってしまったらしい。


 何故こんなところで寝てしまったのだろう、昨日は確か辰也と飲んでいたはずだがそこまで深酒はしていないはずだ――などと考えていたところで、灰皿横に置かれていた小さなポリ袋が目に入った。


「陽炎」


 その瞬間、様々な情報が俺の頭の中を駆け巡る。キャパオーバーであることを知らせるかのように、頭蓋骨全体が軋むように痛んだ。


 そうだ、辰也が先日俺に手渡してきたものは、陽炎という名の違法薬物であった。人生最上の時を夢として思い出させる、魔性の薬。


 確かに俺は、夢を見ていた。

 青春の時を共に歩んだ友人たちと、あの頃のままの姿で夏の粒子を体全体に吸い込んだ。その記憶はやけに鮮明かつリアルで、実際にタイムスリップを体験したかのような気分でさえある。


 郷愁を呼び起こす錠剤、陽炎。

 それを包んでいたはずのポリ袋は、空となって俺の眼前にある。


「俺は、飲んだのか」


 自分のしでかしたことが未だ信じられずそんなことを呟いてみる。だがしかし、鮮明な夏の記憶と鮮明な倦怠感、そして空のポリ袋が、俺の蛮行の証明となった。


 少年時代、夏。

 あの頃の俺たちは、ただひたすらに無邪気であった。


 記憶の中だけに残る夏の粒子を懸命にかき集めている内に、灰皿の中に溜まった吸い殻に一粒の水滴が垂れる。微かな夏の粒子は俺の体を懸命に昇っていき、やがて涙となって外界へと零れ落ちたのだ。



『善治。俺たちは、郷愁の念には抗えないんだ』



 郷愁を呼び起こす薬、陽炎。

 哀愁漂う友人の背中が語った言葉が、今の俺には痛いほどわかる。

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