郷愁の陽炎
稀山 美波
郷愁
かつて輝く未来を見た双眸には、今や薄汚れた現代のみが映るばかりである。
かつて夢を語らってきた口からは、今や現状を嘆く言葉しか出てこない。
「俺たち、いつからこんなになっちまったんだろうなあ」
心の底で淀んでいた泥のような感情が、そのまま言葉となり溢れてくる。座敷のテーブルを挟んで向かい側に腰かけている友人が、その泥を頭から被ることとなった。友人は文句を言うでもなく、重くなった首を大きく縦に振って俺の感情に同調する素振りを見せる。
「
「聞いたよ。二人目だってな」
「一流大学出の、一流企業で働く、一流の奴ぁ違いますね。こちとら出産祝い捻出する余裕もねえってのに。こっちのことも考えて子供作れってんだ」
「
「ふざけんなよどいつもこいつも」
薄暗い店内も、俺の心情よりは幾分か明るく感じる。汚泥を吐き続ける俺たちのことなんぞお構いなしに、店内では今流行りの女性歌手が歌う小気味のいい曲が結構な音量で流れていた。
詫びも寂びもへったくれもない、安酒にはうってつけの雰囲気ではないか。大衆居酒屋特有の空気に俺はさらにげんなりとしてしまう。
「未来とか、希望とか、夢とか。最近のジェイポップってやつあ、そんな言葉を並べて歌詞にすりゃ成立するんじゃねえか。そんなもん、こちとらとうの昔に失くしちまってんだよ」
大サビに差し掛かった曲を聞きながら、八つ当たり的な感情を乗せた暴論を呟いてみせる。
未来、希望、夢。
そんなものを抱いて上京し、そして失った俺にとっては実に耳が痛い言葉だ。あの頃は若く青かった、と一蹴してしまえばそれまでなのだが、失ったからこそ尚更に口惜しい。夢とか希望といった俺が掴み損ねたそれらは、今や毒となって俺の心を蝕んでいる。
「なあ
テーブルの向かい側に座る友人――
辰也は俺と同時期に上京してきた旧友で、こうして時たま顔を突き合わせては愚痴を零し合っている。大学生のコンパ連中が騒ぐ喧しい店内だが、辰也のか細く弱々しい声も、すっかり泡の抜けたビールで喉を鳴らす音も、しっかりと俺の耳に届いてきた。
あの頃。
どのことだ、と改めて聞く必要もない。俺たちが夢を語らってきた、かけがえのない青春の時だ。
眩いほどに煌めいて見えた未来が、こんな淀みきった暗いものであっただなんて、あの頃に俺たちに説明してもきっと理解してくれないだろう。
「善治。地元に帰ろうとか思ったこと、ないか」
「あのド田舎に戻ったところで仕事なんてないだろ」
地元に帰ろうとか思ったことはないか――という辰也の質問には、あえて答えなかった。郷愁の念は、ないわけではない。それこそ、戻ろうとしたことだって数えきれないほどある。
ただ俺が求めてやまないのは、『あの頃』の故郷なのだ。
ひたすらに遊び、ひたすらに夢を見て、ひたすらに希望を抱いた、青春の日々。その時に帰りたいのであって、故郷そのものに帰りたいのではない。
三十路を過ぎたこの身ひとつで帰ったとて、すでに母は他界しているし、友人たちだって散り散りだ。地元に残った友人にも、すでに家庭がある。もう、あの頃のままではいられないのだ。
「そうだよな。俺が悪かった。じゃあ、質問を変えるわ」
辰也はそう言いながら、俺に喉仏を晒すように顔を上げ、中ジョッキの底にこびりついていた水滴までも舌で捕らえようとしていた。それが終わると、ジョッキを力強くテーブルに叩きつけて、ずいと体を乗り出してくる。
眼前につきつけられた辰也の目は、ひどく濁っていた。
ビールの泡が溜まった口元は、今にもあくどい台詞を吐かんとしているように見える。
「あの頃に戻りたいと思ったこと、ないか」
だが彼の口から紡がれたのは、まるで俺の心を見透かしたかのような言葉だった。
「そんな、こと」
「あるだろ。俺だってある。今だってそう思ってる」
突然のことに思わず言い淀んでしまった俺を、辰也は見逃さない。濁った言葉尻を漉すように、極めて断定的な言い方でもって俺に詰め寄ってくる。相変わらず淀んだ瞳ではあるが、その薄汚れた光の中には確かに俺の姿が映り込んでいた。
「そりゃ、あるさ」
あの頃に戻りたい――何度夢想したかわからない。
あまりにつまらない現状に苦しんでいるからだろうか、全てが輝いて見えたあの頃を求めてしまう。
「そうだろう、そうだろう」
俺の返事に、辰也は満足そうに大きく頷いた。
彼だって俺と同じ気持ちだろう。東京に出てなにか大きなことをしてやろう――そんなふんわりとした意志と夢だけをキャリーケースに押し込んで、俺たちは古郷を離れた。
「俺だってよ、こんな仕事したかった訳じゃない。辰也だってそうだろ」
「そらそうよ。フリーランスで生きていくだなんて格好つけたはいいが、今じゃどうだ。一回り年下の高校生アルバイトに白い目を向けられる中年フリーターよ」
だがしかし、結局俺はよくわからないまま就職し、よくわからない会社で、よくわからない仕事を、よくわからない給料に甘んじて、よくわからないまま十数年経過してしまった。辰也も辰也で、定職につかぬままフラフラとしている内に、その定職につくことすら難しい年齢となってしまったのが現状だ。
人の不幸を喜び、人の幸福を妬むことが安酒の肴となってしまっている俺たちが、人生最良の時を求めて何がいけないというのか。
「戻れるなら戻りたいさ。だけど」
「戻れると言ったら、どうするよ」
安っぽい間接照明に照らされたエイヒレを何度も咀嚼しながら、辰也は俺の言葉を遮った。
あの頃に戻れる――そんな夢物語みたいなことを、辰也は語る。
「辰也、お前、まさか」
タイムマシンがどうとか、オカルトがどうとか、辰也がそんなことを言いたいのではないことはすぐにわかった。人生で最も幸福だった時に帰って、そのまま帰ってこなくなった人々が、今巷では話題になっていたからだ。
「辰也、馬鹿、やめろ」
「察しがいいな」
彼が何に手を出そうとしているかに察しのついた俺は、辺りを何度も見回した後、身を乗り出して小さな声で彼を咎める。慌てふためく俺が面白くて仕方がないといった様子で、辰也は目を細め、エイヒレの食べかすのついた口角を大きく吊り上げた。
「こいつが今話題のヤク――『
よれたパーカーのポケットから辰也が取り出したのは、小さなポリ袋であった。見間違いであってくれと心の底から願ったが、やはりというかその中には小さな錠剤が数粒ほど確認できた。
昨今のワイドショウを賑わせている、違法薬物の俗称である。
一昔前は脱法ハーブ――今では違法ドラッグと言ったか――が若者の間で流行したが、この陽炎は主に三十代から五十代の間で流行しているという。
「こいつを飲むと、数分後には急激な眠気に襲われる。そして、夢を見るんだ」
その理由はひとえに、陽炎の持つ作用によるところが大きいらしい。
「陽炎は、人生で最も幸福だった時を、実に鮮明な夢として見させてくれる。使用者の話によれば、まるでタイムスリップでもしたかのようにリアルな夢らしい。そして最後には、風景がゆらゆらと揺れ動いて目覚める。揺らめく幸福な幻――陽炎とはよく言ったものだよな」
戻りたい、帰りたい、一度でいいからあの時を――そんな思いを実現させてくれるのが、この陽炎だ。その者が最も幸福であった時を、リアルな夢として見ることができる。
だからだろうか、陽炎の服用者は中年の独身男性が主であるという。俺たちのように腐った現実に生き、輝いていた過去を求める者が、この陽炎に手を伸ばすのだ。
「お前、どこからそんなの手に入れたんだよ」
「仕事先の店長がな、ちょっと昔やんちゃしてたらしくて。んで、今でもヤーさんと繋がってるんだってよ。そこから、な」
大事な部分は、『触れてくれるな』とでも言わんばかりに誤魔化した。その藪をつついても毒蛇しか出てきそうにないので、俺はそれ以上追及しないことにする。
「なあ善治。俺たちはさ、もう沼の底に沈んでんだよ」
話を切り上げるように、辰也はそんなことを言う。
沼の底に沈んでいる、そう語る辰也の瞳は、なるほど確かに沼の底のような淀みで満ちていた。その声も、どこか低い。店内に流れている甲高い女性歌手の歌声とあまりに対照的で、やけに耳にこびりついた。
「この歳じゃ、もう這いあがれない。頭のてっぺんまで泥に浸かって、いつか夢見た明るい光はとうの昔に見えなくなっちまった。お天道様をもう拝めねえならよ、もうこれは夢の中で見るしかねえんだ。いいじゃねえか、沼の底で夢見るのを願って、何が悪いってんだ」
沼の底にいる俺たちに、光が差すことはない。
ならばせめて、夢の中だけでも光が見たい。
当事者である俺は、辰也の語る持論が痛いほどよくわかる。
「でも、陽炎は」
「三回服用すれば、ほぼ確実に死ぬ」
けれどもその代償に命を投じることになることを、俺も辰也も知っていた。陽炎の性質は、飽きるほどにワイドショウで報道されていたからだ。
陽炎は、服用の度に体を蝕んでいく。
一度目の服用後は、倦怠感や眩暈程度の軽い症状を覚える程度だそうだ。だが二度目の服用後は視界は大きく揺らぎ、体は言うことを聞かず、ひどい喪失感が襲う。
そして三度目には、死に至る。
アナフィラキシーだとかなんとか、専門家が言っていた気がするがよく覚えてはいない。
揺らめく夢を見た代償に、世界が揺らぎ、やがては存在すら揺らぎの中に消えていく。陽炎とは上手いことを言ったものだと感心してしまう。
「逆に考えろ。二回までは大抵生き延びられるんだ。沼の底にいる俺たちが、二回だけお天道様を見れるチャンスがきたと思おうぜ」
だがその空恐ろしさを、辰也は好機だと語る。
暗く淀んだ瞳の中に、薄汚れた黒い光が確かに灯っているのが見えた。
「その二回で体はボロボロになるかもしれねえけどよ、今もボロボロじゃねえか俺らは。何も変わりゃしねえんだ。二回やって、死にたくなけりゃそこで止めりゃいい。生きるのが辛くなったら、三回目をやって夢の中で死にゃあいい」
辰也はこうして、とんでもない持論を語ることが多々ある。
客観的に聞けば暴論以外の何物でもないのだが、俺はいつだってそれを否定できないでいた。
今回だってそうだ。
俺たちは死んでいないだけで、その実生きているとは言い難い。
暗く苦い現在の中で死んだように生きるのか、明るく甘美な過去の中で生きるように死んでいくのか。陽炎は、その選択肢を俺たちの前に突きつけてきたのだ。
「善治。俺たちは、郷愁の念には抗えないんだ。人生最高の記憶と共に揺らめいて死ねるなら、それこそ最高だと俺は思うぜ」
そんな台詞とポリ袋、そして割り勘には少し足りない程度の紙幣を置いて、辰也は店を去って行った。
未来、希望、夢。
そんなものを歌うジェイポップが、今まで以上に耳障りに思えて仕方がなかった。
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