手を振る男
くるくま
手を振る男
他の日より遅めに出勤する水曜日の通勤電車、それは男にとって一週間で一番の楽しみであった。
男の勤める会社は、出社時間を結構自由に設定できる会社だったので、男は毎週水曜日だけ、10時半に出社することを習慣としていた。
男の家は巣鴨にあり、会社のある新大久保までは山手線で十分ほどの距離だ。朝早くは地獄の様相を呈す車内も10時台となればガラガラで、座ろうと思えば椅子に座ることもできる。
しかし、男は椅子には座らず、決まって先頭車両の一番前の窓に陣取って電車の前面の展望を眺めていた。
巣鴨駅―池袋駅間はちょうど「山の手」を切り開いて線路を通した区間で、電車は周りの「山」となっている土地より低い、溝のように掘り下げられた部分を走る。そのためこの区間には跨線橋が多く、巣鴨駅を出てすぐのところにも小さな跨線橋が一本架かっていた。
10時台というのは、ちょうど保育園児たちが散歩に連れていかれる時間でもあった。東京の保育園では散歩中に電車を見せるということが少なからず行われており、線路を見下ろすことができるこの小さな跨線橋はまさに絶好の「電車スポット」であった。
橋の下の線路を電車が通るたび、保育士と子供たちは電車に向かって精一杯手を振る。
この手を振る子供たちの笑顔を見るのが、日々の労働に疲れる男にとってほとんど唯一と言っていい癒しの時間となるのであった。
子どもたちはあくまでも電車に手を振っているのであって、決して男に向かって手を振っているのではない。
そんなことは男もとうに承知しているのだが、子どもたちが、腕がちぎれんばかりに手を振る姿を見ると、ああ、あの元気な子どもたちが未来を背負っていくんだなあ、あの子たちに明るい社会を引き渡すために俺も頑張ろう、という気分になるのだ。
ときには、電車の運転士が子供たちに手を振り返したり、警笛を鳴らしたりする。
ぷわーん
という、電車の警笛の音は、男の胸をもうち震わせるのであった。
あるとき、男はふと考えた。
俺も、あそこで手を振ったら、運転士は手を振り返してくれるだろうか。警笛を鳴らしてくれるのだろうか。
折よく男は大きな仕事をひと段落させたところで、仕事にはある程度の余裕があった。
男はすぐに三日間の休暇を申請し、許可された。
初日、男は町に人が少ない2時から3時の間をねらってその小さな跨線橋に立ち、電車が通るたびに運転席に向かって手を振り続けた。しかし、無情にも電車は何の反応も示さず通過していく。
二日目、男は時間を延長して4時まで手を振っていた。精一杯の好意を見せるために、最大限の笑顔も心がけた。それでも、警笛はおろか手さえ降り返してもらえなかった。
さすがに、休暇を延長することは困難だ。三日目に失敗したら、もう後がない。しかし、今までと同じようにただ手を振っているだけでは、応えてくれる気配がない。
そう考えた男は、ある一計を案じた。
――――――――――――――――――――
巣鴨駅に停車した山手線の電車は、抑止をかけられて発車できずにいた。となりの大塚駅で安全確認を行っているとのことで、延発になったのだ。
その電車の運転席に座る山野は、引継ぎの際に先輩運転士から聞かされたある話を思い出していた。
なんでも、この先の巣鴨駅を出てすぐの跨線橋で、おとといから不審な男が電車に向かって手を振っているらしい。一日中手を振っているわけではなく、午後の2時台とか3時台に限って見られるという話だった。
引継ぎに時間の余裕はなく、その時はすぐに電車を発車させなければいけなかったので詳しい話を聞くことはできなかったが、なんだか気味が悪い。時刻はちょうど2時半を回ったところであった。
きっと気が散るだろうな、迷惑な話だ。
そんなことを考えているうちに、抑止は解かれ、発車メロディーが鳴った。
電車が動き出してすぐ、山野は跨線橋の上の人物に気付いた。その人物は、交代の時聞いた話とは違って、女の服装をしていた。
それは、セーラー服であった。山野は一瞬、高校生の女の子が手を振っている、手を振り返してやろうか、と考えた。しかし、どこか違和感がある。そこはかとないおっさんのオーラが、そのセーラー服からは放たれていた。
よく確認しようと思ったその時、山野は50メートルほど先の線路脇で、退避した作業員が確認の旗を振っているのを見つけた。
安全のため、作業員は電車が来るたびに旗を振り、電車の方は退避した作業員に向かって警笛を鳴らす決まりになっている。
山野はその決まりに従って、跨線橋の手前で作業員に向かって警笛を鳴らした。
ぷをーん
という警笛の音が、線路に響き渡った。
手を振る男 くるくま @curcuma_roscoeana
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