夏の絵本

雨世界

1 ……もう、夏、だね。

 夏の絵本


 プロローグ


 ……もう、夏、だね。


 本編 


 私は夢中で君を追いかけた。私から逃げていく、とても遠い場所に、離れていく君を。


 秘密の扉 


 ある日、私は秘密の扉を見つけて、その中に入った。

 秘密の扉の先には、もう一つの世界があった。

 その世界に私は十年いた。


 もう一つの世界から、秘密の扉を見つけて元の世界に戻ってくると、やっぱり十年の歳月が過ぎていた。


 私は元の世界で生きることにした。

 秘密の扉がどこかにあるか、探してみたりはしたのだけど、もう二度と、私には秘密の扉を見つけることができなかった。


 向こう側にあるもう一つの世界のことを、懐かしく思うこともあった。


 でも、もう二度と、もう一つの世界に行こうとは、私はもう思わなくなっていた。秘密の扉を見つけたとしても、たぶん私は、その扉を開けることはしないだろうと思った。(きっと、年下、というか、私よりもずっと若い人に、その扉を開けて欲しいと思った)


 私はそのもう一つの世界で、あなたのことを見つけた。

 ……そして、あなたと一緒に、私は私の世界に無事に戻ってきた。


 それは、……今日のように、とても暑い夏の日のことだった。


「絵本を書いてみたんだ。読んでもらえるかな?」

 ある夏の日の午後。

 僕は君にそういった。

「絵本? 急にどうしたの? 作家にでもなりたいの?」

 小さな庭にある白い椅子に座って、コーヒーを飲みながら本を読んでいた君は、僕を見て、にっこり笑って、そういった。


「絵本の題名は? 新人作家さん」

 僕に向かって右手を差し出しながら、君はいった。

「夏の絵本」

 書き上げたばかりの、自作のイラストを載せた原稿を手渡しながら、僕はいった。


「夏の絵本。簡単な題名だね」

 と、またにっこりと笑って君は言った。


「ふーん。まあまあだね。ありふれた物語だけど、面白いよ」ぱらぱらと(真剣な目をして)原稿のページをめくりながら、君はいった。


「物語もそうだけど、絵も面白い。あなた、こんな絵が描けるんだ。全然知らなかった」

 僕を見て、君は言う。


「うん。昔、少しイラストを描いていたこともあるんだ」と君の横にあるもう一つの白い椅子に座って、僕は言う。


「男の子と女の子のお話。男の子はたぶん、あなたで、女の子は、……もしかして私、なのかな?」

 原稿の最後のページをめくり終えたところで、君は言う。


「そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。僕にも、よくわからないんだ」と僕は言う。

「ただ、そんな子供たちが今もこの世界のどこかにいるんじゃないかって、そんな気がふとしてさ、それで、その子供たちのことを、物語にしてみようと思ったんだよ。ただ、なんとなくね」

 青色の空を見て、僕は言う。


「小説じゃなくて、絵本にして?」僕を見て君は言う。


「うん。なんとなく、絵も描いてみたいと思った」君を見て僕は言う。


「なるほどね。なんとなく、わかるような気もする」

 白い椅子の上に体育座りをして、両手で自分の両膝を抱えるようにして、君は言う。


「コーヒー、おかわりする? それとも麦茶にする? オレンジジュースもあると思うけど」からっぽになった白いコーヒーカップを見て僕は言う。


「……」

 君は返事をしてくれない。

 急に眠ってしまったかのように、目をつぶってじっとしている。(まるで蛹のように。でも、僕には、君は本当に眠っているわけではないことが、なんとなくわかっていた)


 僕は自分の分のコーヒーを淹れるためにキッチンに移動しようとする。


「……コーヒーにする」

 すると、そんな僕の背中に君がそんなことを小さな声でいった。


「わかった。すぐに淹れるよ」君の椅子の上で丸くなっている背中を見て、僕は言う。


 僕は二人分のコーヒーを淹れると、それをおぼんに乗せて、君のいるところまで戻ってきた。

 僕は二人の間にあるガラスの丸テーブルのうえに、お揃いのコーヒーカップを二つのせたたおぼんをそっと置いた。

 

 君はぐっすりと眠っているように見えた。


「君のことを心から愛している」

 と目をつぶって、じっと眠ったふりをしている君に、僕はいった。


「どうもありがとう。私も、あなたのことを心から愛している」と目を開けないままで、にっこりと笑って君はいった。


「なにか食べようか? サンドイッチでも作る? サーモンがあるから、サーモンとレタスのサンドイッチが作れるけど」と僕は言う。


「私、料理するよ。オムライス作りたい」

 ゆっくりと目を開けて、僕の顔をしっかりと見ながら君は言う。


「僕も久しぶりに君の作ったオムライスが食べたい」

 にっこりと笑って僕は言う。


「高いよ」

 すると、すごく楽しそうな顔をして、君は言った。


 ……私は、あのとき、二十四歳で、でもまだまだ私は、小さな子供のままだった。(あなたと出会う、そのときまで。……ずっと、ずっと、子供のままだった。ううん。もしかしたら、今も私は、小さな子供のままかもしれないと思った)


 夏の絵本 終わり

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夏の絵本 雨世界 @amesekai

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