第4話

 気が遠くなるほど走ってきた。

 足が地面についているか、ちょっと自信が無い。

 麻酔を打たれた脚部を何かしら動かされている、とでも言われた方が納得できる。

 日々の仕事にも意味はあったのだろうか。

 運動は全然だった自分がここまで走れるのが信じられなかった。


 心に少し余裕が生まれている。

 あれだけ苦労して登った道だ。

 クモといえど追ってはこまいと後ろを振り向く。

 一切の不安を残すことなく、そこには何もない。

 カサカサ、と耳障りな音はもうしない。

 逃げきれている。

 口角が自然と上がっていた。


「……明かり、消えちまってら」


 村の様子は一変していた。

 あんなに美しかった地上の星は、一つも残らず消えており、目をすぼめれば地面が蠢いて見える。

 その動作の理由は考えるまでも無いが、見間違いだと思いたくって少し堪える。


 雲は晴れていた。

 月の明かりだけが山を照らす。

 じっと見つめていようが、情景の不気味さは晴れなかった。



 緊張の糸が切れ、身体中に巡らせていた力がふっと抜ける。

 受け身をとる事もできない状態で、目蓋に重さが掛かる。

 ドサリ、とした音と相応の痛みが身体に響く。

 少し頭を打ったかもしれない。


 そうする事が当然だというかのように、危機感はない。

 地の冷たさが身体を覆って、そういえばカサカサとなにか聞こえる。

 心臓の鼓動だけが未だ鳴りやまない。

 霞んだ視界になにが映った。

 それには、きっと恐怖するべきだったのだろう。

 もう出来そうにない。

 身体だって疲れて動かない。

 抵抗の意思も起き上がらない。

 アイツだって助けられなかったし、投げ出してしまおうという気持ちが今は一番強い。


 身体の一部が浮遊感を受けた。

 横一面に人の顔が映る。

 みんなひどい面構えで、暗闇にはよく映る。

 あの人は泣いているのだろうか。

 こんな状況で涙を流してどうにかなるものか。

 実に笑える。


 皆ひとりひとり違う顔をしながら、不規則に左右に揺れ、こちらに近づいてきている。

 目を閉じながらも、音だけはよく聞き取れる。

 最も、カサ、カサ、と好きになれないクモの足音ばかりだが。


 ただ、最後に誰かの叫び声が聞こえた。







 朝日が目に突き刺さる。

 携帯にセットしたアラームを止めて、急いで時間を確認。

 とっさに遅刻してないがどうか確認してしまう。

 社会人の悲しい性だ。


「なんだこの時刻……」


 かけた覚えの無い数字が画面に映る。

 いつもよりも三十分程度早い。

 これは少し困ったものだ。

 二度寝を決めてしまうには些か中途半端な時間だ。

 起きて何かする方が、多分いい。


「……今日は朝飯食うか」


 冷凍食品を取り出して皿を手に取りながら独り言をつぶやく。


 その日はなんだか、味に物足りなさを感じていた。







「おかげで寝覚めが悪くってさ……」


 夢の内容は事細かく覚えていた。

 だから、後輩に向けての雑談に使えている。


「それ、私も昨日見てたかもしれません」


 目を見開いてしまう。

 こんな奇怪な夢、普通あり得ないだろうに。


「しれないって、どういう?」

「ええと……あんま覚えてなくて。

 大切な人の帰りを待ってたら、クモに食べられちゃった……みたいな」

「はっ、なんじゃそりゃ」


 ちゃった。なんてノリの内容じゃないだろそれ。

 良いオチもついた辺りで席を立ちあがる。

 昼休みもそろそろ終わりだ。


「あ、先輩」

「なんだ?」


 所詮夢で見た内容だ。

 あまり気にしてもしょうがないし、ここで忘れる事にしてた。


「今夜、そっちの家で台所貸してください」

「あ、あぁ……え?」

「……あれ?」


 それが当然とでも言うかのように。

 キョトンとした顔をこちらに向けていやがった。


「あ、あはは……嘘です。忘れてください」


 見た事のある顔だった。


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ヒラサカ村 霜月ゆう @aaai_tac

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