第3話

「ただいま」


 仕事が終わった後はいつもこうだ。

 まがりなりにも身体を動かす業務なので、どこかにお釣りがやってくる。

 家の扉を開けたらもう秒読み。

 身体は既に布団を求め始めていた。


 廊下の電気を付け、自室についたらまた消す。

 真っ暗闇な家の中を一時だけ照らして、自分はまた暗闇の中へと意識を沈める。

 風呂に入るのなんて明日でいい。

 お腹は特に空いてない。

 残った理性は、電気の消し忘れを確認することにのみ働いていた。


「…………」


 違和感が残っていた。

 どこかが、おかしい。


 この空間には足りないものがある。

 俺には、それはとても大きく感じていたこと。

 けれど、空白を感じていて当然に違いなかった。

 そんなもの、俺に関わりが無い。

 それは、疑う事が出来ない事実だ。


 心臓がばくばくと動き始める。

 サイレンの音が聞こえそうなほどに焦る。

 意識はさっきよりもかなり明瞭だ。

 気味が悪くてしょうがなかった。


 だって、俺に幼馴染なんていない。

 サイレンって何だ? 消防車とかに付いてるアレだよな?

 それは、この村に無い物だ。

 第一、アラームってなんだよ?

 スマートフォンなんてこの世界で見た事ない。


「アイツ、どこだ……?」


 言いようの無い不安に、身体が自然と動かされる。

 家の中には居るはずがない。

 それはそうだ。

 電気が消えていた。

 三食の飯をつくるアイツが、電気を消して家にあがり込む訳がない。


 動機で手元が奮える。

 ここには居ないなら、多分外だ。

 心臓の音がうるさい。

 集中させてくれ。

 神様、頼むよ。

 靴紐をしっかりと結んで家の扉を開ける。


「────ッぁ……」


 探していた、アイツの顔がそこにあった。

 涎をだらんと垂らし、目の焦点はどこかへいってしまってる。

 頬には赤い筋が走っていて。

 何より首の下が無い。

 それを意識しなければ、アイツの顔とはきっと気付けなかった。


 次いで、八本くらいの細い脚。

 カサカサと気持ちの悪い音。

 生理的に苦しくんって、塞ぎこみたくなる。

 よく見れば、奥に丸く大きい胴体が見えた。

 全体的に赤みのかかった生物。

 毛も全身に生えている。


 そこまで観察して、もう限界だった。


「ああ、ああああぁぁ!!」


 本能が理性を打ち負かした。

 後ろを振り向いて即座に足を動かす。


 ああなりたくない。

 あのクモの口からはアイツの顔がぶら下がっていた。

 理由とかもうどうだっていい。

 アイツは、あのクモに……。


 憤りを感じて、すぐに手放した。

 人間の顔が口に入るほどの大きさを有するクモだ。

 武器があったって敵うものか。

 俺は強い人間じゃない。

 アイツはもう助からないと。

 諦めてしまえと。

 自分の命だけ考えている。

 俺は何かを選べる人間じゃない。


 こういう時、叫びながら走るのは案外合理的かもしれない。

 足の痛みと自分の声で、無駄な思考をかき消してくれる。


 家の窓を開け、すぐに飛び出す。

 名残惜しさなんて微塵も感じていない。

 後ろを振り向こうだなんてもう思っていなかった。

 知っている道を突き進んで逃げようと前を見た。


 一匹のクモと目を合わせる。

 醜い人の顔が眼に映っている気がして。

 それ以上は思考が止まってしまった。


 大丈夫。

 足さえ止めなければ何とかなる。

 保障の無い一縷の希望にすがって、地面を蹴り出す。


 口はすごく乾いていた。

 動機はもう止まらない。

 血管は破けてしまったかもしれない。

 あのクモは何匹も居た気がする。


 疑問こそ抱けど答えは思い浮かばない。

 そんな余裕は無い。

 階段を踏み外す事なく登っていくのに今は全力だ。


 ただ、そういえば。

 今走っている道は仕事場へ向かうものだと気付いた。

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