桜桃の日の思い出【角川武蔵野文学賞応募作品】
楢川えりか
桜桃の日の思い出【角川武蔵野文学賞応募作品】
通学路に玉川上水を通るだなんて、うらやましい。
そう言ったのは先輩だった。
大学までの通学路の話だ。中高一貫校で中学、高校と一緒だった私と先輩は、大学進学で都内と都下に分かれたけれど、それでも時々お茶をしたり電話をしたりした。恋人、とも友達、とも言いがたい関係ではあったけれど。
自然はあるけどそれだけですよ、とわたしが言うと、先輩の好きな作家が自ら命を絶ったところなんだと言う。縁起でもない。
そう言われると途端に、自然にあふれた光景がうら寂しい気味の悪い景色に見えてくる。
それでもわたしが反論しなかったのは、この通学路が先輩の気をひける唯一のカードだったからだ。先輩は普段の物静かな雰囲気からは想像できないほど勢いこんで、毎年、遺体が見つかった日にその作家の墓所まで行って、法要に参加しているという話をした。
桜桃忌、というのだそうだ。『桜桃』という作品を書いたからだと言う。
「ああ澪ちゃん、読んでみて興味があったら来年は一緒に行こうよ」
先輩はそう言ったから、わたしはなんとか興味を捻り出そうとしたけれど、わたしに残ったのは偉そうなおっさんが子供より親が優先だって言い張っているっていう印象だけだった。
それでもわたしは次の夏には先輩と出かけて、その人のお墓にさくらんぼが並べられているのをぼんやり眺めた。先輩はいたく感動していて、表情豊かな先輩は珍しいなと思ったっけか。
帰りにカフェに寄って、メロンソーダを頼んだ。
「あ、桜桃」
つまみあげてわたしがさくらんぼを先輩に見せると、嬉しそうに微笑んだ先輩の唇に、わたしは果実を押しつける。先輩は苦笑いしてその果実を舌で受けとめた。甘いものなんて好きじゃなかったのだけど。
青白い先輩の頰に映える真っ赤なさくらんぼ。あの色だけは、なんだか鮮やかに記憶に残っている。
「メロンソーダ、お待たせしました」
目の前にメロンソーダが置かれる。緑、白、赤。こんな鮮やかな色の飲み物を考えた人って誰なんだろう。二十年ぶりくらいなのに、まるで昨日のことみたいだ。先輩とここに来た、一度きりの思い出。
先輩はあの人に似ていたのかな。
わたしに感謝していたあの老婦人。先輩の母親だというあの人。二十年ぶりにわたしが先輩に会いにきたことを、びっくりするくらい感動していた。
動かない先輩には興味はないけれど。
だって、今日会った先輩は、ただの先輩の入れ物だった。わたしが好きだった、無口だったけれど物言いたげな瞳はなかったし、うっとりする優しい声も聞こえなかった。
わたしが会わなかった二十年間、先輩は幸福ではなかったのだろうか。あんな、美しい子供もいたのに。初めて会ったときの先輩みたいに、おとなしく、知らない大人たちにおびえたような表情をしていたあの子。
先輩は自らこの世界を捨てるくらい、この世界にも子供にも家族にも執着がなかったのだろうか。
いずれにしても、わたしは先輩をひきとめる何者にもならなかった。何者にもなる道がなかった。先輩が望んでいなかったのだから。
わたしはさくらんぼを口に運ぶ。酸味が広がる。先輩にもこんな味がしたのだろうか。わたしがこれを口にしなかった、あの日。
桜桃の日の思い出【角川武蔵野文学賞応募作品】 楢川えりか @narakawaerica
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