番外編4:口下手伯爵と侍女のピクニック

 シルヴィーはお気に入りのロイヤルブルーのワンピースに身を包み、鍔の大きな同じ色の帽子をかぶり、鏡の中の自分を見つめながら、くるりと回って後ろ姿を確認した。


 どこもおかしいところはないはずだ。しかしそれでもこの服装で本当に良いのか、また、そもそも今日の外出に本当に行くべきかどうか、行ったとしても自分の決意通りの行動をするか否かで悩み、先ほどから半刻もうろうろしていた。


「シルヴィー、そろそろ時間じゃないの?お待たせしてはいけないから、もう出かけなさい」


 娘の様子を黙って見守っていたが、そろそろ背中を押した方が良さそうだと判断し、彼女の母親が声を掛ける。


「行きたくないのなら、無理に行くことはない。家でのんびり過ごす誕生日も良いじゃないか」


 ソファーで紅茶を飲んでいる父親が、違う方向に背中を押そうとする。


「もう!あなたったら!…大丈夫よシルヴィー。きっと素敵な一日になるわ。せっかくお弁当も作ったのだから、楽しんでいらっしゃい」


 母親の言葉に、自分の手に持ったバスケットを見つめて、シルヴィーはようやく出かける決意を固めた。


「…はい。行ってきます」


 にこにこと手を振る母親と、どこか不満そうな表情の父親に挨拶し、シルヴィーは家を出たのであった。



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 やってきたのは街の中心にある広場の噴水前で、人々の待ち合わせ場所として今日も賑わっている。出かけるまで延々と迷いつつも、シルヴィーは待ち合わせの時間よりかなり早めに着いたのだが、そこにはすでに伯爵の姿があった。今日はお忍びなので、裕福な商人の息子といった雰囲気の、カジュアルながらも仕立ての良さが感じられる装いだ。シルヴィーを見つけるとパッと輝くような笑みを浮かべた。


「おはよう、シルヴィー。制服姿じゃないあなたは新鮮で良いな。帽子もワンピースも、よく似合っているよ」


「おはようございます。…どうもありがとうございます。お待たせしてしまったようで、申し訳ござ…」


「私があなたに会えるのが楽しみすぎて早く来てしまったんだ。謝罪はいらないよ。…今日は来てくれてありがとう。実は少しだけ不安でもあったから、嬉しい」


 謝ろうとしたシルヴィーに、「しーっ」と口の前で人差し指を立てる仕草をし、旦那様は言葉を遮った。とろけそうな笑顔と言葉に、シルヴィーは自分の顔が熱を持つのを感じた。



 本当は家まで迎えに来るとか、伯爵家の馬車を出すとも言われたのだが、畏れ多いのでやめてほしいと、シルヴィーが固辞した。そのため、今日は街で待ち合わせをしてから、馬車を借りて出かけることにしたのだった。


 護衛は少々渋ったが、目的地は街から半刻ほどの場所でさほど遠くもなく、大きな街道から外れることもなく行けること、また、伯爵自身も鍛えているが、実はシルヴィーも子どもの頃からの使用人としての英才教育の賜物で護身術に長けていることから、今日は護衛なしで完全にふたりきりでの外出となった。



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 きっかけは、十日ほど前の出来事であった。


 その日の仕事を終えた帰り際に、シルヴィーは伯爵に呼びとめられた。少し話したいことがあるので、良かったら散歩に付き合ってくれないかと言われ、とくに急いで帰る用事もなかったため、シルヴィーは素直に頷いた。


 夕暮れ時の庭園を共に歩くが、話したいことがあると言った旦那様が、一向に話を始めない。不思議に思い、シルヴィーが旦那様の顔を覗き込むと、彼はようやく口を開いた。


「…シルヴィー、今まで私の曖昧な態度で、あなたを困らせてしまって申し訳なかった。ちゃんと伝えるから、聞いてくれないか」


「……はい」


 その瞳の真剣さに、何か大事な話をされることを察したシルヴィーは、息を呑んで次の言葉を待つ。



「シルヴィー。…私は、あなたのことを愛している。生涯、あなたに隣にいてほしいと思っている。結婚を前提として、私と付き合うことを、考えてもらえないだろうか」


「……!」



 シルヴィーは一瞬で頭の中が真っ白になった。旦那様からの好意は、もう十分に感じていた。ただ、旦那様が自分にどんな関係を望んでいるのかが分からずにいた。旦那様のような素晴らしい方が、自分に愛人のような立場を望むとも思えず、かと言って平民であり使用人でしかない自分を伯爵夫人として望むとも思えず、長らく困惑していたのだ。


「私があなたを想う気持ちには、気付いてくれていただろうか」


 まだ声が出てこないシルヴィーは、首の動きだけで返事をする。


「そうか。それでも私がはっきりと気持ちを伝えられずにいたことで、あなたは随分困惑したのだろう。本当にすまなかった。正式な形であなたを迎えられるよう、先に根回しをするのが誠意だと知りつつも、あなたが愛しくて、つい言葉に出すことを止められなかったんだ」


 旦那様はシルヴィーを見つめ、はにかんだような笑顔を見せる。


「正直に言うが、あなたの父親の説得に時間がかかってしまったんだ。しかし先日ようやく、『娘が望むのであれば、交際を認める』との許しを得た。きちんとあなたの家族にも認めてもらった上で、交際を申し込みたかったんだ。ちなみに私の両親はもう不在だが、領地にいる祖父母と、嫁に行った妹にはすでに私の意思は伝えてある」


 この言葉にシルヴィーは心底驚いた。自分へ気持ちを伝える前に、すでに父親である執事の許可を得たということも、領地にいらっしゃる前々伯爵ご夫妻と、以前シルヴィーがお仕えしていた、旦那様の妹君であるお嬢様にも話をされているということも。それほど真剣に旦那様がシルヴィーとの将来を考えてくれていることが素直に嬉しいとも感じる反面、まさか自分が本当に未来の伯爵夫人として望まれるなんて思ってもみなかったことで、事の大きさを理解した瞬間に、手の震えが止まらなくなった。



「…お気持ちは、とても光栄です。…しかしながら、このような大変なことにどうお返事したら良いのか…」


 気持ちを告げてしまえばシルヴィーは混乱し、即答は難しいだろうと予期していた伯爵は、そっと彼女の震える手に自分の手を重ねて告げる。その手を振り払われなかったことに内心安堵しつつ、言葉を返す。


「急なことで、あなたが困ることは分かっていたんだ。もちろん返事は急がないし、ゆっくりと考えてほしい。私はただ、自分の気持ちを正しくあなたに伝えたかったんだ。私の想いは、伝わっただろうか」


 伯爵の言葉に、顔どころか耳や首まで真っ赤になっているシルヴィーは頷く。それを見た伯爵は微笑む。


「良かった。ずっと言いたくて言いたくて仕方がなかったから。……シルヴィー、返事は急がないが、あなたに私のことをもっと知ってもらって、考えてもらいたいんだ。あなたと共に過ごす機会を私に与えてくれないか。もし嫌じゃなければ、今年のあなたの誕生日を、一緒に祝わせてもらえないだろうか」


 穏やかな声だが、その声には真摯に懇願するような響きがあり、旦那様の言葉と、重ねられた手の温もりに戸惑い、シルヴィーは顔を上げることもできない。


 きちんと考えてお返事せねば申し訳ないとは思いながらも、とにかく今この瞬間を切り抜けたいという一心で、旦那様からのデートの申し込みに、顔を上げられないまま頷いたのだった。



 その数日後、あらためて旦那様から誕生日のお出かけについて話をされ、行き先はまだ秘密だが、ピクニックに行くこと、馬車の手配などは自分でするのでシルヴィーはただ来てくれたら良いと言われた。また、旦那様はシルヴィーがもしも少しでも嫌だと感じるなら、当日来なかったとしても決して責めないともおっしゃり、逃げ道も残してくれていた。

 

 旦那様の気持ちを知り、戸惑いはあるものの、その気持ちが不快だとはまったく感じていないシルヴィーは、お誘いを受けたからには約束は守ると答え、また、旦那様にばかり気を遣わせるのが申し訳ないので、もしよかったらランチの用意をすると申し出た。料理人ではない使用人の作るものを旦那様に召し上がっていただくというのは大変なことであり、口に出してしまってからこれは間違っているかもと不安になったシルヴィーであったが、そんなシルヴィーの言葉に旦那様は瞳をキラキラと輝かせて喜び、「楽しみにしている」と答えたのであった。



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 街道沿いで馬車を止め、森の中の道をしばらく歩くと、ひらけた場所に辿り着いた。

 

 「……!ここは!」


 そこは、辺り一面にネモフィラの花が咲く野原であった。野原の奥には澄んだ水がキラキラと輝く湖があり、空と、花畑と、湖で、視界いっぱいに青と水色が広がっている。

 

 ここは街から少し離れた穴場なので、家族連れや恋人たちが数組ほど同じ野原に遊びに来ていたが、数は少なく、距離もあるのでお互いの姿が気になることはない。


 ふたりで野原をのんびりと歩きながら、たくさんの話をした。美しい景色と花や草の香り、心地よい風に木々が揺れる音、小鳥のさえずり。普段と違う風景に、心が弾み、シルヴィーは朝から続いていた緊張が解れ、伯爵とふたりで過ごす時間を心から楽しんでいた。そんなシルヴィーの姿に、伯爵も自然と笑みがこぼれるのであった。



 少し散策して景色を楽しんだ後、居心地の良さそうな木陰を見つけ、座って休憩を取ることにした。


「…以前、あなたが話していただろう。子どもの頃の誕生日に、家族でピクニックに出かけたことがあると。実はあなたの両親に、その野原の場所を教えてもらったんだ」

 

 元々お気に入りのワンピースではあったが、母がさり気なくこのロイヤルブルーのワンピースを薦めた理由をシルヴィーは理解した。母は娘の行き先を知っていたのだ。そしてそんなことよりも、旦那様がピクニックの話を覚えていたことに驚いた。


「旦那様にネモフィラの野原のお話をしたのは、随分前のことだと記憶していますが…覚えていてくださったんですね」


「忘れるわけがないよ。あなたと初めて、仕事以外のことで会話ができた日のことなのだから」


 旦那様は事も無げに言う。あれは去年のシルヴィーの誕生日プレゼントに何を選んだら良いのか分からないのだと、旦那様に申し訳なさそうに相談された日のことだったと思い出す。一年も前に話したことを、彼は覚えていてくれたのだ。

 

 シルヴィーの心の中に、じんわりと温かい気持ちが広がっていく。



「あの日のことは忘れられないよ。あなたと言葉を交わせたことが嬉しくて、眠れなかったんだから」


 シルヴィーの知らない旦那様の気持ちを、彼は素直に話し続ける。



「あの日以前の私は、なんとかあなたともっと話がしたくて、必死だったんだ」


「…え?」


 シルヴィーは思ってもみなかった言葉にきょとんとする。



「あなたは有能な侍女だからね。いつも私が話しかけても、すぐになんでも理解してしまって、一瞬で回答してくれるだろう?頼もうと思ったことがあっても、言うより先に済まされてしまう。私などよりよほど優秀なあなたともっと話がしたくて、あなたがすぐに回答できないような問いかけをしたくて、いつも難しいことばかり考えていたんだ」


 シルヴィーは当時の伯爵の様子を思い出し、また、同時に彼に自分を誤解されていることに気付き慌てる。



「そんな…!私はそこまで優秀な者ではございません。あの頃はとくに、毎日旦那様が思いもよらない方向から新しい提案や質問をなさるので、なんとか旦那様に着いていかねば、なんとか旦那様に相応しい侍女にならねばと、いつも勉強しておりました。何かお声を掛けられる度に、自分に回答できる内容だろうかとドキドキして、懸命に頭の中で答えを探しておりました。必死だったのは私の方です!」


 シルヴィーの言葉に、今度は旦那様がきょとんとした顔をする。そしてシルヴィーの言葉を頭の中で噛み砕くと、旦那様は声を上げて笑い出した。



「はは、ははは!…そうだったのか。私はずっとあなたに追いつきたくて必死だったのに、まさかそんな風に思われていたなんてな。…一年前に、誕生日プレゼントが決められず、初めてあなたに相談したときに、私は心の底から思ったんだ。もっと早く、あなた自身のことを聞いて、あなたを理解する努力をするべきだったのだと」


 まだ笑いが収まらない様子の旦那様は、さらに続ける。


「ふふ、私は本当に愚かだったんだな。あんなに必死に勉強する時間を、あなたとの会話に回して、一緒に考えたら良かったのに」


「それは、私も同じことです。旦那様に余計なお手間を取らせてはならないと思い、自分の至らなさを必死で隠していました。もっと早くご相談したら良かったと思います」


 ふたりで目を合わせ、しばらくお互いの情けなさを披露して笑い合ったのであった。




 ひとしきり笑いが収まると、伯爵はシルヴィーに語り掛けた。


「…私は、自覚はなかったが、あの頃からすでに、あなたに恋をしていたのだと思う。どうしたらもっとあなたと会話ができるのか、会話が続けられるのかと、いつもそればかり考えていたよ」


 思いがけない告白に、シルヴィーの心臓が音を立てている。

 そしてシルヴィーは、このところずっと悩んでいた答えを告げるのは、今だと思った。



「…旦那様、私は、あまりお喋りが得意ではありません。それで…素直にお話しするのが難しいと思いましたので、お手紙を書いてきたんです。…読んでいただけますか?」


「…もちろんだ」


 伯爵は驚いた様子であったが、シルヴィーの言葉から、その手紙に書かれているのは自分の気持ちに対する彼女からの返事なのだろうと予想し、緊張しながらも手紙を受け取った。


「…今、ここで読んでも?」


「…はい、どうぞ」


 シルヴィーは声が震えそうになるのを抑え、小さな声で頷いた。




 淡い水色の便箋に、シルヴィーらしい綺麗な文字が綴られている。伯爵は緊張でのどが渇くのを感じながら、ゆっくりと読み始めた。



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 前略失礼いたします。


 今日は素敵なお誘いをいただきありがとうございました。この手紙を書いている私は、今の自分がどこにいるのか分かりませんが、とても楽しみで、ドキドキしております。


 私は人に気持ちを伝えることが得意ではないので、今日も面と向かってうまくお話ができる自信がなく、こうしてペンを取らせていただきました。急に手紙を渡されて、戸惑っていらっしゃることと拝察いたしますが、最後までお読みいただけたら幸いです。



 先日いただいた、旦那様の心からのお言葉、とても嬉しく存じます。どうもありがとうございます。


 お恥ずかしながら、これまで異性の方にそのようなお言葉をいただいたことがなく、最初は正直に申し上げてとても戸惑いました。しかし時間が経つにつれ、生まれて初めてそのような温かい言葉をかけてくださったのが、尊敬する旦那様であったことが、本当にありがたいことで、心から嬉しいと感じる自分に気付きました。


 しかしながら、私のような者が、旦那様の妻として相応しいとは今も思えずにおります。お気持ちは本当に嬉しいですが、辞退すべきではないか、その方が旦那様もお幸せになることができるのではないかと、何度も何度も考えました。


 平民出身の侍女でしかない私が、伯爵夫人として旦那様の隣に立つことは、やはり想像が難しいです。

 そこで私は、自分がお申し出を辞退した後の未来について考えました。いずれどなたか旦那様に相応しい貴族の奥方様を迎え、使用人としてこれまでのようにお仕えすることを想像しました。あるいは、旦那様のおそばを離れ、伯爵家を辞して他のお屋敷へお仕えするという想像もしました。そのどちらの未来も、想像しただけで身を切られるような思いがしたのです。



 私は旦那様のおそばを離れたくないのだと、気付いてしまいました。


 伯爵家の妻として相応しい人間になることは、容易いことではありません。それでも私は、旦那様のおそばから離れる苦しみを味わうくらいなら、旦那様の隣に立てる人間になれるよう、どれほど大変なことがあっても、努力を続けたいと思うのです。この気持ちに嘘偽りがないと、私は何にだって誓うことができると思ったのです。


 最後の言葉は、勇気を出して口に出して伝えます。

 この手紙を読み終えたら、どうか私の目を見てください。


 シルヴィー



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 最後の一行までゆっくりと目を通した伯爵は、手に持った手紙から顔を上げ、シルヴィーを見つめる。

 シルヴィーも伯爵の瞳を見つめて、告げる。



「…旦那様のことを、お慕いしております」



 シルヴィーの言葉に、伯爵は泣きそうな笑顔を見せた後、彼女を思いっきり抱き締めたのであった。




 ∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴


 帰り道、ネモフィラの花畑を背に、森の中を歩くふたりの姿。


 伯爵の右手には、シルヴィー手製のサンドウィッチや果物がぎっしりと詰まっていたバスケットが、すっかり軽くなって揺れている。反対の手には、愛しい恋人の手をしっかりと握り、幸せを噛みしめるのであった。



 繋いだ右手の温かさと、ほんの少しの恥ずかしさで、頬を染めたシルヴィーの首元には、ネモフィラの花と同じ色の宝石が輝くペンダント。伯爵は、シルヴィーが自分の想いを受け入れてくれるのならば指輪にしたかったと悔しがったが、シルヴィーはこのペンダントが一目見て気に入り、とても喜んだ。


 これから先、このペンダントを着ける度に、この日のくすぐったい幸せな気持ちを思い出すのだろう。青い景色の思い出と共に、いつまでも大切にするのだと、シルヴィーは誓いを込めて、そっと右手に力をこめるのであった。


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口下手伯爵は侍女と喋りたい ロゼーナ @Rosena

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