番外編3:口下手伯爵と執事の攻防
――くそ!また逃げられたか…!
伯爵は焦っていた。
執事の娘であるシルヴィーと会話ができるようになってから早十か月。最初のうちは彼女と親しく言葉を交わせるだけでも幸福であったが、彼女への自身の想いはとうに自覚しており、自覚してしまえば彼女を自分だけのものにしたいという欲が出てくるのは当然のことであった。
自分のことを上司としか思っていないシルヴィーに、なんとか男として意識してほしくて、挨拶や雑談の中に少しずつ自分の気持ちを織り込んでいった。しかしシルヴィーは手強く、遠回しの表現をしてもまったく伝わらない様子であったため、近頃はかなり直接的な好意の言葉を用いるようになった。
もちろん、勤め先の上司に好意を持たれているという事実に対し、彼女が嫌悪感を抱いたり、恐れを抱いたりしないよう、ここに至るまで彼女のちょっとした反応を見ながらゆっくりと進めてきた。少しでも嫌そうな素振りを見せるなら、潔く諦めようとも決めていた。
最近の彼女の表情には、私の言葉や態度への戸惑いは感じられるものの、私を嫌っている様子はなく、甘い言葉を囁くたびに顔を赤らめ、いつもの侍女としてのポーカーフェイスである微笑みを必死で保とうとしていて、率直に言ってとても可愛い。
あまりにも毎回可愛い反応を返してくれるので、困らせていることは知りながらも、私の言葉は甘さを増すばかりとなっていた。それも意図的に甘さを出そうと思っているわけではなく、彼女への気持ちは本心でしかないので、思ったままを口に出せば自然とそんな言葉が出てきてしまうのだから仕方ない。
シルヴィーにもようやく自分の感情が伝わったことが見て取れたので、私は次の段階に進みたいと考えていた。今のままではシルヴィーとしてもどう対応したら良いのか分からないだろうから、私が彼女を自分の伴侶として望んでいるということを、きちんと伝えたいのである。
すぐに告白をしてしまえば楽なのだが、私は今その前の関門を突破できずに躓いている。
シルヴィーは伯爵家の執事のひとり娘である。平民の娘を貴族の妻へ召し上げることは、この王国ではそれほど問題ではなく、平民側からすると名誉なことであるとされる。今は持参金の制度もないため、貴族との結婚が平民側の家庭への負担となることはない。しかし、平民とは言え、相手の家の同意なしに権力を振りかざすような形で妻を娶るわけにはいかない。要するに家長の承諾が必要なのであった。
通常であれば、先に娘との交際を始め、付き合ってみた結果として、父親に結婚の承諾を得るという流れでも悪くはないのだが、それはともすると貴族が何の約束もせず、遊びで平民の娘にちょっかいを出しているようにも見えてしまう。シルヴィーとの将来を真剣に考え、妻に迎えたいと考えている伯爵にとって、そのような形はまったく本意ではないため、先に家長の承諾を得て、名実ともに結婚を前提とした交際を申し込みたいと考えていた。
シルヴィーへ交際を申し込む許可を得るため、伯爵は彼女の父親である執事と話がしたいのだが…
そう決意を固めてからの一か月間、執事は伯爵から逃げ続けていた。
その間も伯爵家当主とその執事として、当然仕事上で時間を共にすることはあり、敏腕執事らしく、彼は仕事はいつもどおり完璧にこなしていた。しかし、話が業務のことから反れようとした瞬間、忽然と姿を消すのである。以前から神出鬼没と言われ、まさしく「神出」と言えるほど、いないと思っていたら突然背後に現れるということはよくあった。とくにシルヴィーとふたりで楽しく話をしているときに。しかし最近は「鬼没」ばかりで、つい先ほどまで間違いなくそこにいたはずなのに、次の瞬間にはいないということが頻繁に発生していた。
ここまでされたら、執事が自分と娘の交際を認める気が一切ないということは、嫌でも分かった。
しかし伯爵としても引くわけにはいかない。シルヴィー以外の女性と結婚することなど考えられないし、自分の気持ちをはっきりと伝えられずにいる間に、彼女が戸惑っていることも分かっていたからだ。なんとしても彼女の父親の了承を得て、堂々と彼女に想いを伝えたいのだ。
伯爵は執事を追いかけた。来る日も来る日も。業務の前後はもちろん、悪いとは思いながらも休憩中や食事の時間を狙って使用人室に押し掛けた。やむを得ず執務中に仕事の話をするふりをして、いきなり話をしようともした。伯爵としてではなく、ひとりの男としてこちらから挨拶に出向くべきと考え、休日や執事の帰宅後には何度も自宅へ訪ねた。
そこまでしても、どうしても執事と話が出来ずにいた。一体どうやって消えているのか分からないが、彼は見事に行方をくらませてしまう。いっそ執事ではなく諜報員に転身させようかと考えてしまうほどに。
この攻防が二か月ほど続いた頃には、シルヴィーと執事を除いた伯爵家使用人の誰もが、あまりにも不憫な伯爵の状況に同情をしていた。途中からは使用人総出で執事を確保しようと協力もしたのだが、それでも彼は捕まらなかった。
最終手段として、伯爵は執事の妻であり、シルヴィーの母親である侍女に、助けを求めた。彼女としてもあまりにも往生際の悪い夫と、伯爵の真剣な様子を見て、協力することに否やはなかった。
生まれた頃から「ぼっちゃま」と呼んで長く大切に見守り、今や若くして立派な当主となられた旦那様のことを、夫も自分も心から誇りに思っている。そんな夫が、旦那様から「娘を娶りたい」と言われてしまえば、断るという選択肢など持っておらず、だからこそ、それを言われないためにひたすら逃げ回っていることを理解していた。そして愛娘を嫁にやりたくないという思いと同じくらい、娘に幸せになってほしいという思いと、子どもの頃から我が子のように大切に思っていた旦那様にも幸せになってほしいという気持ちがあり、葛藤していることも。
シルヴィーの両親は、月に一度だけ、ふたりで街のレストランで食事をする習慣がある。使用人同士の結婚で、どうしても家のことよりも仕事を優先してしまい、生活のすれ違いも多いふたりだからこそ、せめてたまにはきちんと夫婦らしく会話をする時間を持つべく、結婚した頃からずっと続けられていた。
妻とのひとときをゆったりと気兼ねなく過ごせるよう、執事は必ずレストランの個室を予約していた。そして今日も妻を連れて個室に通され、着席した瞬間のことであった。
柱の陰から現れた伯爵の姿を見て、瞬間的に逃げようとしたが、立ち上がろうとテーブルに着いた右手を伯爵に掴まれ、動揺した一瞬の隙に、もう一方の手は妻に握られた。
伯爵の手だけだったらまだしも、愛する妻に握られた手を振りほどくことなど、彼にはできない。
「…妻にしてやられたようですね。…分かりました。旦那様のお話をうかがいましょう。」
状況を理解した執事は、素早く店の者を呼び、伯爵のための席を設けさせた。また、大切な話があるので食事はしばらく待ってほしいと伝え、店員は部屋の外へ下がらせた。
シルヴィーの両親は席に着くが、伯爵は追加で用意された席には座らず、執事の前で片膝をついた。
使用人であり、平民である執事に対し、伯爵が膝をつくなどあってはならないことであり、普段であれば執事も侍女も間違いなく止めたであろう。しかし、今ここにいるのは伯爵と使用人としてではなく、シルヴィーの親と、彼女の両親へ誠意を伝えたいひとりの若者であり、その気持ちを正確に汲んだふたりは、伯爵の行動を諌めなかった。
「私は、あなた方の娘であるシルヴィーを、心から愛している。この想いを彼女に伝え、もしも彼女が私に同じ気持ちを抱いてくれるのであれば、将来妻として迎えたいと思っている。あなた方が、どれほど彼女を愛し、慈しんで育ててきたのかは理解しているつもりだ。彼女に気持ちを告げることを、許していただきたい」
伯爵は真っ直ぐに彼女の両親を見て話した。
しばしの沈黙のあと、執事はシルヴィーの父親として、重い口を開いた。
「…伯爵家の嫡男として生まれたあなたが、幼いながらにその責を理解し、ひたすらに努力をされてきたことを、私たちは知っています。そしてそんなあなたに見初められた娘のことを、私たちは誇りに思います。あなたが真剣に娘のことを考えていることも理解しています」
最後の逡巡が見えたが、執事は続けた。
「…娘が望むのであれば、あなたとの交際を認めましょう」
常に不動の微笑みを湛える執事が、柔らかな笑顔で答えたその言葉に、伯爵は心からの感謝を述べたのであった。
その後、シルヴィーの母親からは、「よろしければ一緒にお食事もいかがですか」と声を掛けてもらったが、ふたりの月に一度の大切な時間をこれ以上邪魔することも忍びないので、「いつかシルヴィーも交えて四人で食事をしたいから」と言って断った。もちろん、今日の食事は騙し討ちのような真似をした詫びとして自分が支払うので、好きなだけ食べてほしいとも伝えて。
帰り際、執事はどこか悔しそうにこう言った。
「まったく知らないそのあたりの若者であったなら、いくらでも難癖をつけて断ることが出来たんですけどね。幼い頃からそばで見てきた旦那様に言われてしまったら、私としては文句のつけようがない。だから逃げました。最近の非礼はお詫び申し上げます」
「そのあたりの若者よりも、どこの貴族よりも、彼女を幸せにすると誓おう。詫びは受け取るが、父親としての気持ちは察するので、気にしないでくれ」
伯爵が去った後、執事は店員に店でいちばん高いワインを注文した。
今日の食事は伯爵家の予算ではなく、伯爵個人が支払うことが分かっているので、ちょっとした嫌がらせの気持ちを込めて。
シルヴィーの両親である執事と侍女の夫婦は、愛するひとり娘と、お仕えする伯爵の幸せを祈って、ワイングラスを掲げたのであった。
「交際は認めましたが、まだ結婚は認めてませんからね」
にこにこと笑いながらワインを楽しむ夫の姿に、まだまだ苦労するであろう伯爵の未来を思って、侍女は苦笑いを返したのであった。
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