ふりむかない

山口 ことり

ふりむかない(読み切り)



「柚子。」

この声を聞くたびに私はどうしようもなく泣きたくなる。嬉しいからか悲しいからかは今はまだ分からない。


「おはよう、航多。今日は寒いね。」

「そうだな、もうすぐ一一月だからな。」

「今日も部活?」

「あぁ、柚子は?」

「うん、私も。今日帰りに・・・」

「悪い、今日は約束があるんだ。」

「そう。」

航多が私の誘いをはっきり断るときは、長谷川さんと約束した時だけだ。

長谷川花音は、六月の修学旅行中に航多に告白し付き合うことになった彼女だ。話を人づてに聞いた日は、何も考えらず一日中ベッドから出られなかった。押しの弱い航多のことだから押し切られて付き合うことになったと自分に言い聞かせた。それは、ただ私の都合のいい妄想で、航多をずっと追いかけていた私に航多が誰に気持ちが向いているのか分からないはずはない。でも分からないふりをしないと私は私でいられなくなる。そんな宙ぶらりんな気持ちのまま、ぼうっと二人を眺めた。

ただのクラスメイトだった長谷川さんを認識したのは、航多の家から出て来た時だ。ショートカットで綺麗な人。長谷川さんは、私に会うたびにとびきりの笑顔を向ける。私も笑顔で長谷川さんと、たわいのない話をする。私たちは知っているから。航多が私と長谷川さんが仲良くすることを望んでいる。

そして長谷川さんの笑顔の裏側を私は知っている。長谷川さんが私を憎み、その憎しみは私に希望をくれる。


「柚子、またな。」

航多は軽く手を挙げて、隣の教室へ入っていった。私は、航多の背中を見送ってから、自分の教室へ入った。

「おはよう、柚子。」

「おはよう、真紀。今日いつもと感じが違う?」

「へへ、髪を巻いてきたんだ。」

「可愛い、よく似合ってる。」

親友の真紀が嬉しそうに笑った。私の想いを知っているのは、真紀だけだ。真紀が話を聞いてくれるだけで、悲しみを乗り越えることができた。明るい真紀の表情が一変した。きっと彼女が近くにいる。

「柚子ちゃん、おはよう。」

「おはよう。」

「今日、航多と一緒に来たの?」

「うん。」

「そっか、航多と同じ学校なんだから、別々に来るのもおかしいもんね。」

「・・・うん。」

「今日は、私に付き合ってもらうから、一緒に帰れなくてごめんね。」

「うん、航多に聞いてるから大丈夫だよ。」

「・・・・そっか、よかった。」

長谷川さんは、笑顔で私の元から離れて席につく。心配そうな真紀を見て大丈夫と答える。きっと長谷川さんも私と同じ気持ちだろう。私と長谷川さんが交わす言葉は空気よりも軽く何も意味はない。その軽さに隠れて見えないナイフでお互いを傷つけあっている。


不定期だった部活は文化祭に向けて、毎日部活動がある。正直、面倒な気持ちが勝っているが、図書室の窓から航多の走る姿をみて過ごすのも悪くない。

「柚子先輩。」

「玉木先輩でしょ。なに?」

気が付くと、一つ下の後輩である吉田卓哉が目の前に座っていた。

「暇そうですね。」

「暇じゃないわよ。文化祭の準備しなきゃいけないし。」

「全然参加してないじゃないですか。ちなみに図書部で何をするか知ってます?」

答えない私を見て、吉田君はふっと鼻で笑った。

「全員参加だと部長は言ってたじゃないですか?やりましょうよ。」

「・・・分かった。やるわよ。」

「やるって言いましたからね。」

吉田君は手を挙げて立ち上がり、部長と叫んだ。

「柚子先輩からオッケー出ましたんで、僕と柚子先輩ペアでお願いします。」

話が見えない。じっと吉田君を見たが答える気はないようだ。

「何のペアなの?」

「朗読劇のですよ。」

「聞いてないわよ。」

「何をいまさら。ずっと聞いてなかったじゃないですか。」

「そうだよ、お前全然聞いてなかったぞ玉木。俺ら最後の文化祭なんだから、もうちょっと協力してくれよ。」

部長が吉田君を加勢した。部員の目が一斉に私に向いた。

「すみません、頑張ります。」

「柚子先輩、頑張りましょうね。日にちもないので今日から特訓ですよ。」

「えぇ・・・特訓って・・」

部長の鋭い目がまた向けられた。いい訳なんかできない。

「そうだね、吉田君何の本にする?」

部長から逃げるように書架棚に入った。

「テーマは失恋らしいですよ。」

思いのほか近くに吉田君がいて驚いた。

「吉田君は、気配消して近づいてくるよね。忍者かなんか目指してんの?」

「まぁ、食べていけるなら。古典文学はどうですか?」

「聞いてる方が眠くならない?」

「そうですね。でも軽すぎて、こっちが読むのが恥ずかしくなるのも嫌です。」

「そうね。じゃあさ、五冊ずつお互い選んでその中で決めない?」

「いいですね。」

私は、吉田君と別れて、書架棚を回った。朗読をするとなると案外選ぶのが難しい。めぼしい本を見つけて開いては戻すを繰り返した。

時計を見ると、丁度六時を回るところだった。

私は慌てて、窓を開けた。見下ろすと予想通り、航多が見上げて手を振っていた。

「遅いから気を付けて帰れよ。」

航多が大きな声が三階まで上がってきた。

私は笑顔で手を振った。笑顔で振り返す航多の隣には、じっと私を見続ける長谷川さんの姿があった。航多が制服に着替えるため部室に向かったが、長谷川さんはまだ私を見ていた。私は貼りついた笑顔のまま、窓に背を向けた。

「何かありました?」

吉田君が声をかけてきた。もう吉田君の手には三冊の本があった。

「もう選んでるんだ。」

「柚子先輩が言ったんじゃないですか。」

「だから玉木先輩だって。」

「練習もあるので、明日までには五冊は選んでくださいよ。」

「はいはい。」

「じゃ帰りましょう。」

吉田君は、選んだ本を貸出処理をして鞄に入れた。

「持って帰るの?」

「そうですよ、朗読するからにはちゃんと読みたくて。」

「えらいね。」

「明日まで五冊ですよ。」

「分かったってば。お疲れ様。」

「お疲れさまって、一緒に帰るんですよ。」

「なんでよ、一人で帰る。」

「もう外は暗いですよ。最近不審者情報も多いし。それに岡田先輩も気を付けて帰れと言っていたじゃないですか?」

「聞いてたの?悪趣味ね。」

「あんな大きい声が聞こえないほうがおかしいですよ。」

「分かった。帰るわよ。」

吉田君は、にっこり笑った。

「職員室に行って、鍵を借りてきますから待っていてください。」

「えっ、みんなもう帰っちゃったの?」

「そうですね、柚子先輩がうつつを抜かしている間に。」

「うるさいな、早く取ってきて。」

「はいはい。」

吉田君がいなくなると、図書館は静かで不気味だった。私は、窓の戸締りを確認した。ドアが開く音がした。

「なに?吉田君、鍵をもう取ってきたの?」

「吉田って誰?」

私は振り向いた。航多が不満そうな顔で私を軽く睨んだ。心臓が跳ね上がり、声が高くなりそうなのを必死に抑えた。

「・・後輩なの。戸締り一緒にしてて。」

「そう、外が暗いから心配で来たんだ。」

「うん、ありがとう。」

私は、自然に航多の方に向かったが、途中で足を止めた。航多の背中から細い肩が見えたからだ。

「柚子ちゃん、一人で帰るの大丈夫?私も航多も心配になっちゃって。」

「・・・ありがとう。」

「柚子先輩、お待たせしました。帰りましょう。」

吉田君は鍵についたリングを指にかけて回しながら入ってきて私たちを見て驚いた。

「すみません、他の人がいるなんて知らなくて。」

長谷川さんは、満面の笑みで吉田君に話しかけた。

「あなたが吉田君?私は柚子ちゃんと同じクラスの長谷川花音です。」

「知ってます。岡田先輩と長谷川先輩カップルは有名ですから。」

「ありがとう、柚子ちゃんが一人で帰るのが心配で見に来たんだけど、吉田君がいるなら大丈夫そうね。」

「はい、必ず家まで送り届けます。」

私は、どうしていいか分からず、航多を見つめた。航多も無言のまま私を見つめた。

「航多、吉田君にお願いして行こうよ。早く行かなきゃ店閉まっちゃう。」

「そうだな、じゃ柚子また明日。」

航多は目をそらし、長谷川さんと肩を並べて出て行った。私は、口を堅く閉じたまま、航多の背中を目で追った。

「柚子先輩、鍵を閉めますから出てください。」

私は言われるがまま荷物を持って外に出た。分かっているはずなのに、航多が私を選んでくれたのかと期待した。その期待は、すぐに割れて、何もなかったようにしてしまう。

その帰り道は、外と同じくらい暗い気持ちで帰った。お喋りな吉田君は、ほとんど喋らず、ただ隣にいた。

「じゃ、柚子先輩。また明日。」

「うん、送ってくれてありがとう。」

「いえ、あの・・・」

「なに?」

「いえ、明日には本を決めましょうね。」

「そうね、おやすみなさい。」

吉田君は、軽く手を振るとそのまま行ってしまった。私も家に入るとシチューのいい匂いがした。

「お帰り、寒かったでしょう。航ちゃんも一緒?」

「ううん、長谷川さんとどこか行った。」

「そう、航ちゃんのママは仕事で遅くなるって聞いたのよ。ご飯食べて帰るのかしら?」

「聞いてない。」

「航ちゃんに聞いてくれる?」

「なんで私が。」

「なんで断るの?いつもは喜んで聞いてくれるじゃない?喧嘩したの?」

「喧嘩って、小さい子じゃあるまいし。」

「そっか、じゃ聞いて。」

私は、しぶしぶ航多にラインした。航多から予想通りの返事があった。

「長谷川さんと食べて帰るって。」

私は母の返事は聞かず、自分の部屋に入った。

「柚子、すぐご飯だから降りてきて。」

「すぐ行く。」

母とたわいのない話をして、風呂に入り、自分の部屋に戻った時には、隣の家の窓から明かりがこぼれていた。窓に近づき、真向かいの部屋をそっと見た。航多は窓を開けて月を見ていた。航多は、私に気づき苦笑いをした。窓を開けると冷たい風が吹き込んだ。

「今日は悪かったな。」

「何が。」

「色々と。」

「なにそれ。」

「今日失敗した。柚子んとこのシチュー食べたかった。」

「何で知ってんの?」

「家の前通った時に分かったよ、ところでさ、柚子の部活おかしくないか?今までそんな真面目にやってなかったじゃないか。」

「失礼ね、もうすぐ文化祭だから部長が張り切ってるの。」

「何やるの?」

「朗読劇。」

「眠くなりそうだな。」

「そうなの。だから、眠くなりにくくなる本を探してるの。」

「そっち?テーマはないのかよ。」

「ちゃんとあるわよ。」

「柚子は朗読劇出るの?」

「うん、吉田君と二人で。」

「・・そうか、明日も部活あるのか?」

「うん、まだ本決まってないし。」

「今日と同じくらいか?」

「多分。」

「じゃ、明日は一緒に帰ろう。部活終わって図書室行くから待ってろよ。」

「うん、待ってる。」

「もう寒いから窓閉めろよ。風邪ひくぞ。」

「航多だって、おやすみ。」

私は、窓を閉め、カーテンを下ろした。じわじわと身体が温かくなった。航多は私の身体をいつも温めてくれる。


「柚子先輩。」

背中越しに聞いて、ため息が出た。

「来たね、噂の吉田君。」

「やめてよ、真紀。」

教室の出入り口に立ち、吉田君を軽く睨んだ。

「なに?昼休みに話すほど重要な話なの?」

「いや、本を選ぶの手伝おうと思って。」

「いいわよ、しなくて。」

「でも、今日の部活で本を決めるんですよ。そろそろ本の選定に入らないと間に合いませんよ。」

「柚子ちゃん、あれ吉田君も一緒?」

その声に私の身体は固くなった。

「長谷川先輩、こんにちわ。」

「最近仲がいいのね。」

「そうですね、頑張って距離を縮めています。」

「ちょっと、何言ってんの。」

「柚子ちゃん、ムキになってる。」

長谷川さんは声を出して笑った。

「吉田君、こっちに来て。」

たまらず、吉田君の腕を引っ張って廊下に連れ出した。

「どう言うつもり?」

「思ったままを言っただけですけど。」

「ばかばかしい。」

「ばかばかしい・・・・ですか?」

一瞬、吉田君の顔が曇った。急に吉田君を怖く思えて、慌てて話を変えた。

「今から、一冊だけ本を選ぶ。」

「ですね、行きましょう。」

いつもの穏やかな吉田君に戻り安心した。

昼休みの図書室は、思いの外にぎやかだった。本を手元に置いて眠りこける人、受験勉強をに励む人も多くいた。

「あれ?玉木じゃん。」

受験勉強のグループの中に部長もいた。

「部長も勉強するんですね。」

「当り前だろ!」

大きい声に、皆振り向いたので、部長が顔を赤くした。ばつが悪くなり、私は部長に謝った。吉田君は後ろでクスクス笑っていた。

「なに?お前ら。デート?」

「だといいんですけど。」

吉田君は悪びれずに言った。

「な訳ないでしょう。」

今度は私が大声を出し、皆の注目を浴びた。

部長は私たちを睨みつけ、行けと言わんばかり、手を払った。私たちは大人しく図書室から出て行った。

「吉田君のせいで恥ずかしかったじゃない。」

「大声出したのは、柚子先輩ですよ。」

「本当にムカつく・・・」

「柚子先輩はどうするんですか?」

「何が?」

「進路ですよ。来年は受験生ですよ。」

「まだ何も考えてない。」

「ここから離れた方がいいと思います。」

「離れる?なんで。」

「ここにいると、何も変わりませんよ。」

「どういう意味?」

「ところで本、どうしましょう?」

「本・・・五時までには五冊選ぶから心配しないで。吉田君もまだ三冊しか選んでないんだから、自分の心配でもしたら?」

「じゃ、部活で。」

吉田君はにっこり笑い階段を降りて行った。もうすぐ一年経つが、吉田君のことが掴めない。中学ではサッカーをやっていて、そこそこ上手かったらしいと人づてに聞いた。いまだに、吉田君が図書部に入ってきたかは謎のままだ。人懐っこく、スッキリした顔立ちとモデルのような体形から、私のクラスでも人気が高い。吉田君と航多は、背格好はよく似ているが対照的な二人だ。吉田君が太陽なら、航多は月のようだ。静かで隣にいると落ち着く。目立つ吉田君と一緒にいると、どこかで人づてに変な噂が航多の耳に入るのではないかと気が気でない。航多に嫉妬させたい気持ちもあるが、その反対に航多が私を見限るような怖さもはらんでいて、吉田君といると気持ちが落ち着かない。

「柚子、何してたの?」

教室に戻ってきた私に真紀が声をかけた。ほとんどの女子が私の答えを待っているような気がした。

「図書室。部長と一緒に文化祭の打ち合わせよ。」

部長と図書室で話したんだから嘘ではない。

「そっか、吉田君は完全に柚子狙いよね?」

「やめて、私にその気はない。」

真紀の言葉に冷たく切り返した。そうでもしないと、長谷川さんに付け入る隙を与えてしまう気がした。

「柚子、苦しくない?」

「どういう意味?」

「ずっと長谷川さん気にしてるじゃない。」

「気にしてないよ、気にするわけないじゃん。」

「私、吉田君がいてくれて良かったと思ってる。吉田君といるときの柚子は、すごく自然だし。」

「何を言ってるの?信じられない。」

私は、真紀に背を向けて自分の席に座った。

ショックだった。真紀は私の気持ちを理解してくれてると信じていたのに。

午後の授業は身が入らず、ぼうっと過ごした。

「・・・・玉木さんで大丈夫ですね。」

急に自分の名前が呼ばれて、顔を上げた。クラス全員が私を見ていた。真紀が黒板を見ろと指さした。黒板には、ダンス委員会に私の名前が書いてあった。私は立ち上がった。

「無理。できません。」

「柚子ちゃんなら大丈夫だよ。安心して任せられるよね。」

長谷川さんが笑顔で周りの子に同意を取っていた。

「しょうがないじゃん、玉木だけクラスでやるカレーの役割ないじゃん。」

委員長の黒木君が加勢した。長谷川さんに気に入られようと必死な態度に腹が立つ。でも黒板を見ると、確かに私以外の全員に役割があった。しまった。出遅れた。私が黙ったことをいいことに黒木君がまとめに入った。

「じゃ、ダンス委員は玉木さんと、加瀬君で決まりです。じゃ文化祭に向けて頑張りましょう。」

加瀬君?私は加瀬君の席を見た。今日もいない。加瀬君は二学期が始まって一度も学校に来ていない。私は、帰り支度をしている黒木君のところに猛然と向かった。

「あのさ、私はしょうがないとして、来てない加瀬君をダンス委員にするのは、どうかと思うけど。」

「気になるなら、玉木、お前が加瀬に学校に来るように言えばいいじゃないか。」

「そんなの委員長の仕事じゃない!」

「なんでもかんでも委員長の仕事にすんなよ。俺だって忙しいんだよ。受験に向けてやらなきゃいけないことたくさんあるんだよ。」

「そんなの皆一緒じゃん。」

「お前と一緒にするなよ。」

「どういう意味よ。」

「柚子・・・何かあったか?」

航多が黒木君を軽く睨んで、私に近づいた。身体の大きい航多に恐れをなした黒木君がいい訳を始めた。

「ダンス委員は玉木が引き受けてくれたけど、相手が加瀬でさ・・俺に文句を・・」

「文句?来てない加瀬君に押し付けるのはどうかと言ってるの。それに私だって引き受けたわけじゃない。」

「柚子ちゃんってえらいよね。」

私に押し付けた張本人が甘ったるい声で近づいてきた。

「確かに加瀬君、ずっと来てないもんね。心配よね。柚子ちゃんのそういう正義感見習わなきゃ。」

こうやって、いつも私が不利になるように、何重にも糸を張り巡らせる。

「柚子ちゃんが加瀬君のところに行くなら、黒木君も行くべきじゃないの?」

長谷川さんに言われて、黒木君はへらへらとうなずいた。

「ちょっと待って。私が行くの?」

「柚子ちゃん、加瀬君の心配をしてたから。本当に優しいよね柚子ちゃん。」

長谷川さんの笑顔と巧妙な話には勝てず黙り込んだ。

「玉木、じゃ今から行くか?」

「今日は無理ですよ。大事な部活動ありますから。」

吉田君が戸口から大声で話に入ってきた。

「柚子先輩、あまりに遅いから迎えに来ましたよ。」

「頼んでない。」

航多が、じっと私を見ている。私は航多の顔が見れず、吉田君の元へ行った。

「先に行ってて。」

「玉木、日にちを決めてくれよ。俺も予定あるからさ。」

「分かった。じゃ明日は?」

もう、どうでもいい。投げやりに答えた。

「明日は塾なんだよ。」

「あのう、僕が代わりに柚子先輩と一緒に行きましょうか?」

「なんで吉田君が?」

「加瀬先輩は中学の先輩で家も知ってます。今日の部活終わりに、柚子先輩と一緒に行けば皆さんにとって都合がよくないですか?」

「吉田君にお願いしちゃってもいいのかな。」

長谷川さんがすぐに反応した。吉田君が断らない確証を掴んだからだ。

「はい、そうしましょう。」

「私、今日部活終わりに予定があるから無理。」

私は、毅然と答えた。航多との約束は何としても守りたい。

「柚子ちゃん、文化祭まで時間ないよ。明日から委員会活動始まるのに、ゆっくり構えてて大丈夫なの?柚子ちゃんは責任感強いから、心配で夜も眠れないんじゃない。ねぇ航多?」

「俺、部活行く。」

航多は背を向けて、教室を出て行った。慌てて長谷川さんは追いかけて行った。

「じゃ、吉田君だっけ?お願いしていいかな?」

「はい。」

「じゃ玉木、そういうことで。」

黒木君も逃げるように帰って行った。

「柚子先輩、加瀬先輩の家に寄るなら、早く図書室行きましょう。」

「・・・何でよ。」

「どうしました?」

「何で邪魔するのよ・・」

「邪魔?むしろ先輩を助けているつもりなんですが。」

「私は行きたくない。」

「何を子供みたいなこと言ってるんです?」

「どこにも行きたくない。」

「ここで待ってても僕しか来ませんよ。」

そんなことないと、はっきり言いたかったが言えなかった。航多が必ず来てくれる自信なんてない。そう思うと涙が出そうになったので、慌てて帰り支度を始めた。

「柚子先輩、行きましょう。僕たちにはしなきゃならないことたくさんありますよ。」

吉田君が私の荷物を取った。

「返して。」

「いえ、図書室まで持っていきます。文化祭までの話じゃないですか。部活動も加瀬先輩の事も文化祭が終われば、きれいさっぱり忘れちゃえばいいんですよ。」

「文化祭まで?」

「そうですよ。文化祭まで頑張ればいいんです。」

「・・・分かった。」

吉田君と一緒に階段を上る。上がった先の窓からグランドを見ると、航多が図書室の方をじっと見上げていた。大丈夫。航多はまだ私の事を見限ってない。そう思うと足取りも軽くなった。

私は早々と本の選定をした。ゴールが見えると気持ちの切り替えが自然にできていた。吉田君の選定も終わり、お互いの本の中から一冊選べばいいと思ったが、案外難しかった。まず吉田君の選んだうちの三冊は知らない本だった。吉田君の方は、二冊知らないようだった。

知らない本は選べないから読むしかない。だけど時間がなさすぎる。

「吉田君、提案なんだけどお互い知っている本の中から選ばない?」

「でもなぁ、僕のおすすめの五冊なんです。柚子先輩もそうじゃないですか?」

「そうだけど。時間かかるじゃない?」

「せっかくやるなら、全力でやりたいんです。」

吉田君の意気込みに噴き出してしまった。

「そうだね、せっかくやるなら全力でだね。」

「じゃ、五時まで読めるところまで読んで、残りは家で読んで来るのはどうでしょう?」

「うん、分かった。五時まで?」

「はい、加瀬先輩の家にも寄らなきゃいけないし。」

「そうだったね・・・」

「もう忘れてたんですか?」

私は、窓際の席に座り本を開いた。窓の外に目を向けると航多が走っていた。航多も頑張ってるんだ。私も頑張ろう。私は吉田君に声をかけられるまで本を読み続けた。

外に出ると冷たい風が目に染みた。

「一段と寒くなりましたね。」

吉田君は手袋をしながら話しかけてきた。

「そうね、ごめん。ちょっとだけここで待ってて。」

私は走ってグランドへ向かった。航多は黙々とグランドを走っていた。私は航多の走る姿が好きだ。ずっとこの姿を追いかけていた。航多が私に気づき、足を緩め私の方に向かってきた。

「どうした?」

「うん、今から加瀬君の家に行ってくるね。」

「そうか、気を付けていけよ。」

「うん、わかった。航多も部活頑張ってね。」

「柚子。」

「なに?」

「いや、なんでもない。」

「なに?」

「加瀬の家は、吉田と行くの?」

「うん、変な感じだけど。」

「吉田のこと好きなのか?」

私は、心臓が跳ね上がった。今まで航多から一度もそんな事を聞かれたことはなかった。

「そんな訳ないよ。ただ部活が一緒なだけ。」

「そうか。だけど吉田は柚子の事が好きみたいだな。」

航多が私の後ろに視線を送る。私もその視線を追うと、吉田君が心配そうに私を見ていた。

そしてまた航多に視線を戻すと、航多は私をじっと見つめた。

「柚子がはっきりした態度を取らないから、吉田が付け入って来るんだ。」

「なにそれ。私はいつもはっきりさせてるよ。はっきりしないのは航多の方じゃない。」

自分の言葉に驚いて、慌てて口を押えた。言ってはいけない言葉だった。今まで、もろくも何とか保っていた均衡が崩れてしまう。私が一番怖がって絶対口にしなかったのに。

「ごめん、もう行くね。」

航多の顔を見るのが怖くて、吉田君の元へ急いだ。


「聞いてます?」

「ごめん、何が?」

「だから、岡田先輩から何か言われたんですか?」

驚いて、吉田君の顔を見た。

「やっと顔を上げてくれましたね。」

「なんで、航多と何かあったと思ったの?」

「明らかに岡田先輩と話してから様子が変じゃないですか。」

「そうかな。」

「よく見たらわかります。柚子先輩だって、岡田先輩の事だったらすぐ分かるでしょう?」

「まぁ、幼馴染だから。」

「それだけですか?」

「どういう意味よ?」

「柚子先輩は、いつも岡田先輩を見てるから分かるんですよ。岡田先輩だって、柚子先輩が自分を見てくれてることを信じてるし。」

「見てるだなんて、ストーカー呼ばわりしないでよ。」

「大丈夫です。僕も柚子先輩のストーカーですから。」

「・・・怖いこと言わないで。」

「すみません。あっ、ここです。加瀬先輩の家。」

見上げると白い二階建ての家だった。玄関先には、白く可愛い花を付けた大樹があった。

「可愛い。」

私は樹に近づいた。

「柊ですよ。」

「吉田君、ものしりだね。」

「昔、加瀬先輩が教えてくれましたから。」

「加瀬君と知り合いって本当だったんだ。」

「何で嘘をつく必要があるんですか?行きますよ。」

吉田君はすぐにチャイムを鳴らした。

「えぇ、なんて言うか考えてないのに。」

すぐにドアが開き、加瀬君本人が出てきた。

「あれ?吉田?・・・それに玉木だっけ?どうしたの?」

身構えて拍子抜けした。加瀬君は、私の知っている加瀬君のままで何も変わっていなかった。

「こんばんわ。」

私は何を話していいか分からず固まってしまった。それを見た吉田君がすぐに助け船を出してくれた。

「先輩、すごく寒いので中に入れてください。」

「わりぃ、入って。」

吉田君に続いて中に入った。なんだろうこの違和感。思っていたイメージと違いすぎる。

「玉木はコーヒー飲める?」

「牛乳入れてもらえれば大丈夫。」

「加瀬先輩、僕も牛乳入りでお願いします。」

加瀬君はキッチンに引っ込んでしまい、どうしていいか分からずウロウロしていた。

「柚子先輩、ここに座りましょう。」

「吉田君の家でもないのに厚かましいわね。」

「なに?お前ら付き合ってんの?」

トレイを持った加瀬君がニヤニヤしながら聞いてきた。

「違うわよ!」

「そうなのか?じゃ何でウチに来たんだよ。」

加瀬君に促されて、ダイニングテーブルに着いた。

「加瀬君が学校来ないから来たの。」

「そうなの?なんか迷惑かけちゃった?」

「ううん、そうじゃくて。あのさ、もうすぐ文化祭じゃない?加瀬君と私ダンス委員に任命されちゃったのよ。」

「俺?欠席裁判かよ。」

「加瀬先輩、そういう世の中ですよ。柚子先輩困ってるので来てもらえませんかね?」

「別に吉田君がお願いしなくていいから!」

「分かった。明日から学校行くよ。」

「いいの?」

「だって、玉木に迷惑かけちゃうしさ。」

「本当にいいの?」

「いいよ、もうちょっと返事を渋ったほうがいいの?」

「いい、いい!大丈夫。本当にありがとう。」

私は、嬉しくてペコペコ頭を下げた。

「柚子先輩、良かったですね。」

「うん!」

勢いづいて吉田君とハイタッチをしてしまった。後悔している私を見て吉田君と加瀬君は声を出して笑った。あとは最近の学校について話した。加瀬君とは教室で会えど、挨拶しか交わしてなかったので、よく喋ることに驚いた。

玄関先で靴を履くとき、加瀬君がぽつりと言った。

「玉木は、俺がなんで学校に来ないのか聞かないの?」

「だって来たくないからでしょ。」

「玉木は良い奴だな。」

「えっ、なんで。」

「心に思ってないことは言わないから。」

「そうかな。」

「そうだよ、明日から行くからよろしくな。」

「うん、また明日ね。」

加瀬君の家を出ると寒さがまた一段と増していた。寒いと小さく言うと、吉田君は手袋を私に差し出した。

「いいよ、吉田君が寒いから。」

「使ってください、柚子先輩に風邪ひかれたら困りますから。」

「朗読劇の事そんなに心配してんの?」

「違いますよ、柚子先輩を心配してるんです。手袋しないと手をつなぎますよ。」

「分かったわよ、するわよ!ありがとう。」

「どういたしまして。」

吉田君を見上げると、少し遠くの空を見ていた。

「寒いけど、月は綺麗に見えてますよ。」

「ほんとだ。あと、加瀬君のことありがとう。助かった。」

「お役に立てて良かったです。」

「吉田君・・・いや、なんでもない。」

「はっきり聞いたらいいんじゃないですか?なんで僕が柚子先輩にここまでするのかを。」

驚いて吉田君を見ると、吉田君は真剣な顔をして私を見ていた。

「柚子先輩、僕はあなたが好きです。」

自分の心臓の音で身体が震えだした。震えを止めたくて、両手で自分を抱きしめた。

「あなたはズルい人ですね。僕の気持ちにずいぶん前から気付いている癖に、気付かないふりをして。そんなに岡田先輩が怖いですか?」

「怖い?何言ってんの。」

「岡田先輩から嫌われないように、自分の気持ちを押し殺しているじゃないですか。」

「そんなことない。」

「そうなんです。」

吉田君がはっきりと大きな声で私に言った。

「僕はずっと柚子先輩を見ているから分かります。」

「怖い訳ないでしょう。ずっとずっと好きなんだから。」

声がうまく出せず震える声で答えた。航多、助けて。私を助けて。

「柚子。」

その声に反応し、私は振り返って走った。いつも私を包み込む大きな体に頭を預けた。

「柚子、帰ろう。」

「・・・うん。」

航多が私の手を勢いよく繋ぎ帰ろうと吉田君に背を向けた。帰ろうと一歩踏み出した瞬間に手を離した。意味が分からず航多をじっと見ると、私の両手から手袋を脱がして猛然と吉田君の元に向かった。手袋を吉田君の目の前に出しながら強い口調で吉田君に迫った。

「柚子に手を出すな。」

吉田君は、航多を全く気にすることなく穏やかな顔だった。

「岡田先輩にそんなこと言う権利はないんじゃないですか?長谷川先輩を選んだくせに。」

「・・・俺と柚子は幼馴染だ。柚子の事は俺が守る。」

「守るって・・岡田先輩は柚子先輩を縛り付けているだけじゃないですか。」

「違う、そんなんじゃない。」

私は航多の背中に抱き着いた。

「航多、私帰りたい。」

抱きついた航多の背中から大きな心臓の音が聞こえたが、段々落ち着いていつもの安心する背中に戻った。

「そうだな、帰ろう。」

航多は何もなかったように、私の肩を抱き、ゆっくりと歩き出した。私の身体に、とろりと温かい何かが入り込み、体の隅々までいきわたると、ゆっくり息を吐いた。私は航多の隣じゃないと息もうまくできない。

私には、航多が必要だ。そして航多にも私が必要だ。


「あれって、加瀬?」

ざわざわする声に紛れて聞こえてきた。私は席から立ちあがって、加瀬君の席の方向を見た。加瀬君は何事もなかったかのように座っていた。私は加瀬君の席に向かった。

「加瀬君、おはよう。来たんだね。」

「だって約束しただろう。」

「うん、ありがとう。今日から委員会始まるからよろしくね。」

「おう、まぁ、頑張りますか。」

「うん、頑張ろう!」

加瀬君と話すと気持ちがほぐれた。今日の委員会に参加すれば部活に行く必要もないだろう。吉田君を避けても解決にはならないけど、今は会いたくない。

「加瀬君、来たんだ。柚子ちゃん良かったね。」

冷ややかな声に、私は笑顔で答えた。

「うん、昨日勇気出してよかった。」

「勇気出したのは、吉田君でしょう?」

「長谷川久しぶりだな。」

加瀬君が助け船を出してくれた。

「そうね、ずっと来ないから心配してたんだよ。」

「・・・ありがとう、長谷川の言う通り、ずっと来てなかったから、玉木に文化祭の状況聞きたいから・・いい?玉木。」

「うん。」

長谷川さんは何か言いたげな顔して、自分の席に戻った。

「お前、長谷川と仲が悪いの?」

「ううん、そんなんじゃない。助けてくれてありがとう。」

「ところで、ダンス委員ってなにやるんだっけ?」

「文化祭終わりに校庭で火を囲んで、皆でフォークダンス?する時の運営だよ。」

「えぇ、じゃ文化祭に最後までいなきゃいけないのかよ。」

「そうだった!面倒くさい。」

「玉木、お前気づいてなかったのかよ。」

「うん、いつの間にか決まっててさ。」

「ボーっとしてんな。お前いいの?吉田と出れなくて。」

「私と吉田君は付き合ってないってば!昨日も言ったでしょ。」

「そうだった、ごめん。でもお前吉田といると楽しそうだったし、それにあいつ絶対玉木の事好きだよ。」

「もういいからその話。今日放課後一緒に委員会参加してよね。」

私は自分の席に戻った。丁度先生も来てホームルームが始まった。礼をして着席する時に長谷川さんと目が合った。射貫くような眼差しに私から早々に目をそらした。午前中も終わり、鞄からお弁当を出すと加瀬君がやってきた。

「玉木、一緒にお昼食べていい?」

「うん・・・私でいいの?」、

「俺の事、はれ物に触るみたいでさ他の奴に声かけづらいんだよね。」

「ずっと来てなかったしね。」

「言うね、玉木。」

「うん、加瀬君に気を遣う必要ないしね。真紀も一緒でいい?」

「黒田真紀?もちろん!俺がとやかく言う話じゃないし。周りの視線も痛いから屋上で食べていいかな。」

「天気いいし、いいね。行こう。」

正直、加瀬君がいてホッとした。真紀とは昨日長谷川さんの件から話していない。真紀に加瀬君の事を言うと真紀も安堵していた。私たちには加瀬君が必要だ。屋上のドアを開けると、少し寒いけど日当たりもよく気持ちがよかった。

「あー気持ちいいな。」

「そうだね。来たことなかった。」

私たちはベンチを見つけて座った。何人か生徒がいる位で、のんびりできるいい場所だった。

「黒田、お昼一緒にごめんな。」

「ううん、いいの。加瀬君久しぶりだし。」

「玉木たちはいつも教室で食ってんの?」

「そうだね。外で食べる発想なかったな。」

「息が詰まんないか?」

「そう?考えたことなかったけど。」

「私は、加瀬君の言うこと分かるな。」

真紀が、加瀬君の同調した。

「だって、変化のない単調な毎日だもんね。」

「おっ、黒田もそう思う?」

「もしかして、それで学校休んでたの?」

「柚子、それだけじゃないよ。加瀬君にも他に考えることが・・・・」

真紀がフォローに入る途中で、加瀬君が笑顔で答えた。

「玉木、正解!そうなんだよ。」

「えぇ、そんな単純なこと?」

真紀が驚いて大きい声を出した。慌てて口を押えたがもう遅かった。私と加瀬君は目が合うと大笑いした。

「加瀬君、思いの外単純なんだね。」

「失礼だな、物事を単純に考えると、もっと人生楽しくなるのにな。」

「そうかもね、その方が楽しいかもね・・」

私も加瀬君のように生きれたら、航多とずっと二人でいられたかもしれない。

「柚子、昨日なんかあった?」

真紀が心配して声をかけた。加瀬君は慌てて、首をぶんぶん横に振った。

「誓って言うが、俺は玉木をいじめてないぞ!」

真紀はため息をつきながら、加瀬君を見た。

「そんなの分かってるわよ。加瀬君って本当に単純な人ね。」

「なんか、馬鹿って言われてる気がしてきたぞ。」

「言ってないから。」

真紀と加瀬君のやり取りがおかしく笑いっぱなしの昼休みだった。こんな昼休みもいいかもしれない。教室を出てみて分かった。私はずっと息苦しかった。

放課後になり、加瀬君とダンス委員会に行くため教室を出た。航多は待ち構えるように立っていた。

「岡田、久しぶり。」

「そうだな、元気だったか?」

「おう。」

「柚子、今日は部活行くのか?」

「ううん、委員会で遅くなりそうだから行かないつもり。」

航多は、ほっとした表情でうなづいた。航多に手を振り加瀬君と一緒に廊下を歩いた。

「岡田は長谷川と付き合ってんだよな。」

「・・・そうだけど、何?」

「いや、さっきの感じから玉木が彼女かと勘違いした。」

「私と航多は幼馴染だからね。」

「そうか、あの雰囲気じゃ長谷川は可哀想だな。」

「どこが?」

「玉木が長谷川だったらどう思うよ?」

私は言い返す言葉が見つからなかった。私は長谷川さんの気持ちを痛いほどわかってる。だけど長谷川さんが知らない長い時間を航多と過ごしてきた。たかだか浅い時間で航多を好きになった長谷川さんに何が分かると言うのか。航多と私の間には誰も入ることは出来ない。

「なんで岡田は、長谷川と付き合ってんの?」

「そんなの知らない。私が知る訳がない。」

「そうか・・・今気づいたんだけど俺さっきから地雷踏みっぱなし?」

「もう、うるさい!早く入るよ。」

ダンス委員会の集合場所である三年生の教室に先に入った加瀬君が振り向いて目配せをした。意味が分からずついて入ると、中に窓の外を見て座っている吉田君の姿があった。私は慌てて教室を出ようとしたが、加瀬君に捕まった。

「なんで逃げるの?吉田となんかあった?」

「ない!ううんあった。今日帰っていい?」

「そりゃないだろ!玉木に言われて学校に来たのに。心折れそうな俺を一人にするのか?」

「二年、痴話げんかはその辺で終わらせて。」

三年の委員長に声をかけられ、皆が一斉に笑った。その笑い声に吉田君が気づき、無表情で私を見た。私は吉田君の顔が見れず目を伏せた。加瀬君はそんな私を見て、吉田君から離れている席についた。私は加瀬君の後ろの席に座り、委員長の話も聞かず、ずっと加瀬君の背中を見続けた。そうでもしないと、心が揺さぶられてどうにかなってしまいそうだった。

「俺たち受付やるんだって。」

急に振り向いた加瀬君に驚いて、わっと声が出た。

「玉木、話聞いてた?」

「ごめん、受付だけでいいの?」

「受付の時カードを渡して制服につけてもらう。周りが見て、いいなと思ったカップルに投票すんだって。最後に投票結果が発表されてベストカップル賞かなんかもらえるらしいよ。」

「そうなんだ。」

「これって厄介だな。」

「どうして?」

「だって開票すんの俺らじゃん。時間ない中で大変だろうが。」

「そうだね。」

「柚子先輩。」

声の方向に振り向くことができず、前を向いたまま返事をした。

「なに?」

「部活行きましょう。」

「今日は遅いからやめとく。」

「僕たち本も決まってないんですよ。どうするんですか文化祭。」

「もうやめない?私たち上手くいきっこない。」

「僕が告白したからですか?元々僕の気持ちに気づいていたんだから、今更気を遣う必要ないじゃないですか。」

「俺、先帰るね。」

加瀬君が立ち上がった。私は加瀬君の手首をつかんだ。

「ここでいなくなるなんて卑怯じゃない?」

「俺、関係ないじゃん。」

「もう、話を聞いたんだから関係者でしょ?」

「勝手に聞かされただけなのに?」

「加瀬先輩はどう思いますか?」

「吉田、お前まで巻き込なよ。」

「加瀬先輩は当事者じゃないから、冷静に話が聞けると思うんです。」

吉田君からもお願いされて、加瀬君は逃げ場を失った。

「まず事実確認していい?玉木と吉田は文化祭で一緒に何かをする?」

「はい、朗読劇です。」

「えぇ?なんか眠くなりそうだな。」

「そうならないよう、本の選定を進めています。」

「そうか・・・それで吉田は玉木に告白したが振られた。振った玉木は気まずくて、文化祭に出たくないと言っている。で、合ってるか?」

「はい、合ってます。」

「玉木、部活に行けよ。」

「なんでよ!」

「吉田が大人になって、部活行きましょうと誘ってんだよ。玉木に断る権利はないと思うぞ。」

「ですよね。」

「気まずいなら、一緒に教室まで荷物とりに行ってやるからさ。」

「それって、自分が荷物取りたいだけじゃない。」

「人の善意を嫌な言い方するな。」

「吉田、必ず玉木は図書室に行くから図書室で待っててくれよ。」

「分かりました。」

加瀬君に促され、教室を出て廊下を歩いた。

「玉木、吉田の事も好きなんじゃないか?」

「好きじゃないわよ!」

「そうかな。自分で気づいてないだけじゃないか?」

「そうじゃない・・・ところで吉田もって、どういう意味?」

「岡田の事も好きなんだろ。でも俺が見る限り、同じ好きじゃない感じがするけど。」

「どういう意味?」

「上手く言えないんだけど、岡田と玉木は何か違う気がする。」

「幼馴染だからじゃないの。」

「その幼馴染のせいで、お互いを縛り付けあってる感じじゃないの?」

「違う。そんなんじゃない。航多は優しいから私を見捨てないだけ。」

「岡田の気持ち分かってるなら、どうして離れない?」

「航多が好きだから。」

加瀬君は一瞬驚いた顔をして、すぐに頭を下げた。

「泣かすつもりはなかったんだ。」

その言葉で、私は泣いているのに気付いた。

「その苦しい顔を吉田は見てられないんじゃないかな。」

加瀬君はくるりと背を向けて、自分たちの教室へ向かった。私は涙があふれてくるのを止められず、そのまま歩いた。教室で荷物を取り、部活へ行こうとする私を呼び止めた。

「玉木、俺に出来ることがあれば何でもするから。」

「・・・私が泣いたから気まずくなって言ってるだけでしょう?」

「ばれたか、だって登校初日で、女の子を泣かしたなんて縁起が悪いじゃないか。」

「たしかにそうだね。じゃ、部活行ってくる。」

「おう、頑張れよ・・・岡田に断らなくても大丈夫なのか?」

「うん、大丈夫。私と吉田君の問題だから、私が何とかしなきゃ。」

「そうか、じゃお先に。」

「うん、また明日。」

私は荷物を持って教室を出た。足がすくみそうになるが、一歩ずつ踏みしめて図書室へ向かった。図書室のドアを開けると、吉田君がホッとした顔で私を見つめた。

「来ないかと思いました。」

「約束したじゃない。」

「そうですね。」

「じゃ、本の選定始めよう。」

私と吉田君は向かい合って座り、本を並べ、お互い感想を言った。吉田君の本は次の

新しい恋に向かっていく前向きな話が多く、私が選ぶ本は夜のように濃い闇で冷たく散る恋の話が多かった。

「柚子先輩の選ぶ本って暗いんですけど、文中の言葉がとても綺麗なんですよね。」

「そうなの、言葉の響きが好きな本ばかり選んじゃった。吉田君が選んだ本は、勢いがあって展開が面白い本ばかりね。」

「この位読まないと、心がくじけそうですから。」

吉田君は、そういったことを軽々しく口にする。私は気にしてないふりをした。

「眠くなりにくそうなことを考えると、吉田君が選んだ本の方がいいかも。」

「僕の選ぶ本って、読むのは良いですが、声に出して読むとなると恥ずかしすぎません?」

「・・確かにそうね。恥ずかしいかも。かといって私の本は暗いし、眠くなりそう。」

私は本に手を置いて考えた。

「ねぇ、気に入った一節をまとめて朗読しない?朗読劇にこだわっていたけど、文化祭だから最初から最後までいる人なんて限られてるし、皆にも分かりやすくないかな?」

「いいですね、さすがです!」

「ありがとう、お互いに選んだ本の中から、これだと思う一節をまとめて、原稿の中身を決めよう。」

「分かりました。じゃ、帰りますか。」

「帰るけど、吉田君はこれから私の事送らなくていいから。」

「最近暗いから危ないですよ。」

「大丈夫だから。」

私は吉田君の目を離さず伝えた。吉田君もまっすぐに私を見つめた。

「それが答えなんですか?」

「うん。」

「だったら、ちゃんと僕の事なんか好きじゃないとはっきり言ってください。」

「・・・・好きじゃない。」

目を伏せて強い口調で吉田君に言い放った。

「・・・分かりました。何で僕が柚子先輩を好きになったか知ってますか?」

顔を上げると、苦笑いをする吉田君の顔があった。

「競技大会が僕らの中学で開催された時、岡田先輩と柚子先輩を見かけました。岡田先輩の走る姿を悲しい顔で見続ける柚子先輩がずっと気になってました。」

「悲しい顔?」

私だけの秘密を吉田君は知っていた。誰にも知られたくなかった。

「あの時の岡田先輩が何を見てたか気づいてますよね・・・気づかないわけない、柚子先輩はずっと岡田先輩を見つめてましたから。岡田先輩の目に何が映ってるのか手にと取るように分かったんじゃないですか。」

「私は知らない。何も知らない。」

「だって僕は気づいたから。柚子先輩が何で悲しかったのか。」

言葉に詰まって言い返せなかった。航多と長谷川さんが出会った日。航多は長谷川さんと目があってから私が声をかけるまで見つめ続けていた。航多は恋に落ちたんだ。名前も知らなかった長谷川さんに。それから私は航多の気持ちを確かめることが怖く、ずっと隣でおびえていた。航多はそんな私に気づいていたのだろうか。いつものように何も言わず、優しく見つめてくれた。このまま隣に居続ければ、航多の気持ちは必ず私に向く。そう思えるほど、航多は私にずっと寄り添っていてくれた。

「泣かないで柚子先輩。」

吉田君が私の頬に手を添えた。私は嫌悪感を覚え、思いっきり振り払った。その衝動で本が机から落ち、大きな音を立てた。

「おい!本は大切にしろよ・・・玉木お前大丈夫?」

書架棚から顔を出した部長が心配そうに私の落とした本を拾った。

「大丈夫です。帰ります。」

「僕も。」

「お前は残れ、吉田。」

部長に腕を掴まれ、吉田君は立ち止った。私は振り返らず、そのまま逃げるように図書室を後にした。とにかく早く学校を出たくて、早く靴を履き替えようとするも、もたついて上手く履けない。そして後ろから走ってきた人影に怯えた。

「玉木、大丈夫かよ。」

私は安心して嗚咽を漏らした。

「また泣いてたのか。」

「柚子、私たちがいるから大丈夫よ。」

真紀が温かいココアの缶を差し出した。

「真紀・・・いてくれたの?」

「うん、加瀬君から連絡あってね。三人で帰ろう。」

これ以上喋ると、また涙が止まらなくなりそうで一言も喋らず校門を出た。私は友達に迷惑しかけていない。

「あのさ玉木、俺が言うのもなんだけど、高校生活ってのは、笑って過ごすもんだと思う。」

私は、返事もせずうつむき加減で歩いた。

「柚子が一番わかってるわよ。それに不登校の人間に言われても説得力ないわよ。」

真紀が強めに加瀬君の肩を押した。

「俺なりに励ましてんだよ。」

「ありがとう二人とも。泣いてばかりでごめん。」

「私は、柚子が幸せだったらそれでいい。柚子はどう?幸せ?」

私は力なく首を振った。

「玉木は、どうやったら幸せになれると思う?」

加瀬君の言葉が胸に響いた。私は皆の気持ちに甘えて寄りかかっていた弱虫で、自分で何とかしようと考えたことはなかった。

「玉木は岡田とどうなりたいんだよ?長谷川から奪い取る覚悟はあるのか?」

「・・・無理だもの。私が選ばれないことは。ずっと前から知ってる。」

言葉に出してしまうと、もう航多との関係が終わってしまうようで今まで一度も言えなかった。

「よく考えたんだけどさ、岡田は玉木を大事に思ってる。可能性はないとは言い切れないぞ。玉木もそう思っているから、どこにも行けないんじゃないのか?」

真紀が私の肩に手を置いた。

「私もそう思う。柚子がどう思ってるのか岡田君に伝えるべきだと思う。」

「それで今までの関係が崩れたら、どうなるの?私はもう航多と一緒にいられなくなる。」

「見てるだけでいいの?」

真紀は矢継ぎ早に私の言葉に追いかぶせた。隣にいるだけで満足、いや、違う。私は長谷川さんのように航多に触れたい。私の答えを待つように二人は黙って私を見つめた。

「あのさ、今思い出したんだけど、長谷川って俺と同じ中学なんだよな?」

「私たちに聞かれても。なんで覚えてないのよ。」

真紀が鼻で笑った。加瀬君はムッとしたが、話をつづけた。

「長谷川って入退院を繰り返してて、あまり学校に来てなかったんだよ。」

「そうだったの?全然想像つかない。」

「昔は今より白くて細かったから、今日声かけられるまで分からなかった。」

確かに、あの時の長谷川さんは透明に近い存在だった。だけど、航多は見逃さなかった。きっと長谷川さんも。

「柚子、これからどうするの?」

「俺が決めてやるよ。ダンスは岡田と一緒に出るのはどうかな?直接言葉でいうより、いいやすくないか?少し前進した感じがするし、自信もつくんじゃないのか?」

「なんで不登校で今日はじめましての加瀬君が柚子の一大事を決めるのよ。」

「一学期はちゃんと来てたぞ。黒田は俺に全然遠慮しないな。俺だって傷つくぞ。」

二人の笑い声を聞いて決心した。私が決めるより、加瀬君の軽くて無責任な言葉の方が、私が傷つくことがない気がした。

「見てるだけは嫌。もう泣くのも嫌。」

「そうだ!ファイトだ!玉木。」

「頑張ればいい話なの?」

「黒田、いちいち水を差すなよ。」

真紀は私の真正面に立ち両手を握った。

「柚子、たった一度だけでいいから。」

「うん、航多と話してみる。」

勢いに乗って決意したのは確かだ。だけど私は、今の状態を手放す勇気はあるのか、それは分からない。

なんとなく航多と顔を合わせにくく、早く起きて、一人で学校に向かった。文化祭まであと一週間。私ができる全てをやってみよう。吉田君との朗読劇も宙ぶらりんのままだ。図書室へ向かうための階段を勢いよく上がる。私はもう進むしかないんだ。思いっきり図書室のドアを開けると、部長が既にいた。私に驚いたようだが、優しく微笑んだ。

「よう、玉木?元気になったか?」

「はい、ご迷惑おかけしました。」

「昨日はどうしたんだよ。心配したぞ。」

「すみません、急にお腹が痛くなって。」

「なんだよ、トイレに急いでたのかよ。心配して損したな。」

「女子に向かって、言う言葉じゃないですよ。」

「わりいな。」

部長は書架棚に入ったので、部長が座っていた斜め向かいに座り、選書した本をめくった。書架棚から戻ってきた部長が席に着いた。

「なぁ玉木。高校生活楽しいか?」

「はい、それなりに楽しくやってますよ。部長はどうなんですか?」

「俺もそれなりに楽しいと思ってた。」

「違うんですか?」

「もうすぐ受験だし、それが終われば卒業だろ。ずっと続くと思っていたことに終わりが来ることに今更ながら驚いてる。」

「何を言ってるんですか、中学と長さなんて一緒じゃないですか。」

「全然違うぞ玉木、ずっと隣にいた人間と生活も場所も違うんだよ。絶対に埋められない時間が出来るんだ。そう考えると、今の俺に何ができるのか、焦るばかりで何もできてない。」

「部長のやりたいことってなんですか?」

「彼女と別れることだよ。」

「えっ、彼女いたんですか?」

「そこにびっくりすんなよ。俺にだって中学から付き合ってる彼女がいるんだよ。」

「なんで別れるんですか?」

「多分、このままの生活が続けば、何も考えず、なんとなく楽しいまま付き合えたんだろうけど・・・終わりが来ると考えた時に、心から彼女とずっと一緒にいたいか考えてしまったんだよ。」

「考えてしまったですか?」

「うん、考えてしまった事自体、俺に迷いがあるんだよ。俺が向かう未来に彼女の姿が見えないんだ。」

「部長って・・・ロマンチストなんですね。」

「馬鹿にしてんのか?」

「いえ、いい話聞けました。」

「やっぱ、馬鹿にされてる気がするな。」

部長はぶつぶつ言いながら、本に目を覆とした。私もノートを出し、朗読劇で使いたい一節を探した。航多と私の終わりが来た時、航多は私をどうするのだろうか。

「手が止まってるぞ。」

「すみません。」

「吉田に迷惑かけんなよ。」

「私が吉田君に?逆じゃないですか?」

「本当にそう思うのか。」

私は、部長の問いかけに返事をせず、一節を探し始めた。そこに答えが書いてあるかと思うほどに。


「柚子ちゃん、ちょっと時間ある?」

長谷川さんからの言葉に正直驚いた。話の輪に入ってくることはあっても、個人的に呼ばれる事なんてなかった。

「部活行かなきゃいけないんだけど。」

「吉田君と朗読劇だもんね。頑張らなきゃだね。」

「言いたいことはそれだけ?」

自分のキツイ言い方に驚いた。

「柚子ちゃん、なんか怖い。」

「もう行っていい?」

「それだけな訳ないでしょう。」

長谷川さんのむき出しの心が現れた。私は口火を切ったんだ。

「中庭行こう。」

「分かった。」

加瀬君と目が合った。心配そうに私を見ていた。大丈夫と口を動かして合図をした。私は長谷川さんの後に続いて歩いた。心が落ち着かず、長谷川さんの黒髪から伸びる白いうなじをじっと見つめた。

中庭のベンチに長谷川さんが先に座った。ポケットから温かいミルクティーを取り出し私にくれた。

「ありがとう。」

「柚子ちゃん、座って。」

私が隣に座ると、長谷川さんは私を見ることなく空を眺めた。

「いい天気。」

「そうね、綺麗な青空だね。」

「ダンス委員って大変?加瀬君は委員会だけ真面目に出てるようだけど。」

「私が頼りないからだよ。もうやること決まってるから、そうでもないよ。」

「そっか、じゃうちのクラスの模擬店の方がやばそうだな。役割でもめてるし。」

「そうなんだ。知らなかった。」

「いつも遠い目してるもんね。ここにいませんよって存在消してるし。」

「そんなことはないと思うんだけどな。」

「そう思ってるのは柚子ちゃんだけだよ。」

たわいのない話に緊張の糸がほぐれ、私は饒舌になった。

「文化祭のダンス、今回は投票制なの。開票にあまり時間がないし、運営が大変そうで気が重いの。」

「そうなんだ。何について投票するの?」

「ベストカップル。ダンスに出るカップルに番号を付けて投票してもらうの。」

「じゃ、私と航多で出てみようかな。」

「やめて!」

「なんで柚子ちゃんがそんなこと言うの?」

長谷川さんの射貫くような目に圧倒されて言葉が出なかった。

「航多の事どう思ってるの?また幼馴染って言葉で逃げるのだけはやめてね。」

「好きだよ。航多が長谷川さんと知り合うずっと前から。」

「やっと本音言ってくれたわね。ありがとう。私も本音を言うわね。あんたなんか大っ嫌い。一緒にずっといれば何とかなると思ってるところがムカつくの。か弱いふりして航多の優しさに付け込んで。

柚子ちゃんって可哀想ね。長く好きでいても報われることないしね。」

長谷川さんの言葉は私の身体を切り刻んだ。長谷川さんは正しい。正しいからこそ痛かった。私は身体を守るよう両手で自分の身体を抱きしめた。

「柚子、大丈夫か。」

航多が私の肩に手を置いた。ただの弱虫の私は、航多の手の温かさに身を委ねた。

「行こう。」

航多が私の手を引いて立ち上がらせた。

「航多待ってよ。」

長谷川さんは、必死に叫んだ。航多は鋭く長谷川さんを睨んだ。

「柚子は俺にとって大事だと話したよな。誰であっても柚子を傷つけることは許さない。」

長谷川さんは、力が抜けたように座った。そんな長谷川さんを横目で見て、胸が苦しくなったが、初めて航多が私を選んでくれた事に舞い上がり、手を引かれるまま航多と歩いた。

「岡田、大丈夫だったか?」

航多は、慌てて私の手を離した。

「俺、部活行くから。」

航多は私に振り向く事はなく、そのまま行ってしまった。

「これで良かったのか。」

「加瀬君が航多を呼んだの?」

「あぁ、険悪な感じしたから。」

「そっか。」

「まさか、こんな感じになると思わなかったけど。」

「どういう意味?」

「玉木、これで良かったと思ってる?長谷川は言い方きつかったけど正しかったよな。」

確かにそうだ。長谷川さんの言葉は正しかった。だから私は傷ついた。航多もきっと長谷川さんの言葉は正しいと分かったに違いない。それでも私をかばった。もしかして、航多も私も同じ気持ちでいるのかもしれない。

「今ならチャンスなんじゃないの?」

「どっちの味方なのよ。」

「俺は、俺の思うことを口にしているだけだ。もう部活行くんだろ?」

「うん、行ってくる。」

加瀬君は何が言いたいんだろう。真意が分からない。

図書室のドアを開けると、吉田君が机に向かって本を書き写していた。

「お待たせ。遅くなってごめんね。」

顔を上げた吉田君は私を見て驚いたがすぐにノートに顔を戻した。

「いいことがあったみたいですね。」

「何もないわよ。」

「僕、そろそろ終わりそうなんで待ってもらえますか。」

「分かった。」

窓際の席に座り、走る航多を見つめた。

航多は私を選んでくれるかもしれない。そんなこと言える日が来るとは思わなかった。こんな穏やかな気持ちになれるなんて。ゆったりした気持ちになり、自然と笑みがこぼれてきた。

「始めましょうか?」

「うん。お先にどうぞ。」

「せっかくでしたら、交互に読んでいきません?」

「いいよ、そうしようか?」

「じゃあ僕からいいですか。

僕は知っている。君がどれだけ美しいのか。」

「隣で微笑むあなたと二人でずっと一緒にいられたら。」

「それは恋じゃない。ただの依存だ。」

「殻を破れないただの弱虫。」

「ねぇ、次私の番・・」

「あなたは本当にあの人が好きですか?あの人は、あなたの事を本当に好きですか?」

「なんなのそれ。」

「次は柚子先輩の番ですよ。」

「私は航多が好き。きっと航多も同じ気持ちでいる。」

私は、吉田君の目をまっすぐ見た。

「航多に告白する。」

吉田君は息を吐き、苦笑いをした。

「自信ありそうですね?」

「自信をつけるためにも告白する。」

「僕は、本当に振られましたね。」

「ごめん。」

「いいんです。実を言うと無理かなと思ってました。これからは、仲のいい先輩後輩でお願いします。」

「前から仲はいいじゃない私たち。気はあってると思ってた。」

「そうですね、最初は柚子先輩に近づきたくて、合わせてましたけど、今は結構自然体です。」

「そっか、じゃ良かった。これからもよろしくね。」

「こちらこそ。」

それからの吉田君は、ただの後輩として接してくれた。なぜか寂しい気もしたが、航多に告白するためにも身軽になりたかった。そのままの勢いで吉田君と朗読劇の台本を練り上げた。窓を見るともう外は真っ暗だった。

「柚子、まだ残ってんのか?」

航多が図書室の戸口に立っていた。

「もう帰るところ。戸締りするから待ってて。」

「僕が戸締りしますので、先に帰ってください。あれ?長谷川先輩は一緒じゃないんですか?」

航多と私が黙り込んだことで、吉田君がいつもと違う空気に気づいた。

「柚子先輩、明日も頑張りましょうね。」

「うん、お疲れ様。」

航多の後ろに続いて出た。今までずっと見つめていた大きな背中がある。もう後ろは嫌だ。

これからは航多の横顔を見ていたい。私は、少し早歩きをして、航多の隣に並んだ。

「廊下って冷えるね。」

「あぁ。」

航多の元気がない返事に、不安を覚えた。

「後悔してるの?」

「何が?」

「私をかばったこと。」

「するわけないだろう。俺は小さい頃から、ずっと柚子を大事に思ってる。」

航多の言い方に胸がざわざわする。上手く笑えず下を向いた。

「どうした柚子?寒いか?」

「ううん、お腹空いたなと思って。」

「なんだよ、それ。コンビによるか。」

「うん、また半分こしていい?」

「あんまん買うなよ。」

「いいじゃん、美味しいじゃない。」

航多が笑った。その笑顔といつも通りの会話に、ずっと航多の隣にいられると安心感に満たされた。

半分もらった肉まんを食べきる頃に丁度自宅に着いた。じゃあねと言おうとすると、歩いてきた反対側を、航多はじっと見つめていた。まるで私という存在を忘れていたようだった。

「航多大丈夫?」

私の問いかけに、我に返った航多は慌てて振り向いた。

「柚子、寒いから早く入れ。また明日な。」

「なんか変。」

「早く入れ。」

航多の言葉の強さに中に入らざるを得なかった。家に入り、そのまま二階の自分の部屋に入った。電気もつけず窓から航多を見ると、航多はさっき見ていた方向に歩いた。人影が動いて、航多に抱き着いた。見ていられず私はカーテンを閉めて座り込んだ。航多の気持ちが分からない。いや違う。私は知ってしまった。でも諦めたくない。私は階段を駆け下り、外に出て航多の元に向かった。航多が私に気づき、長谷川さんを押しのけた。

「航多どうしたの?」

長谷川さんは余裕の笑みで、航多でなく私に言った。

「航多、話がある。」

はっきりと言ったつもりだが、声が詰まった小さな声だった。

「柚子、後で聞くよ。」

「今じゃなきゃ嫌。」

「どうした?」

「私が見てる前で長谷川さんに触れないで。」

涙が頬を伝う。もう後戻りできない。航多が驚き私の頬に触れた。

「泣くなよ、柚子。」

「今度の文化祭、私と一緒にダンスに出てくれる?」

「ダンス?いいよ。」

航多が笑顔で答えた。航多の即答に、私がついていけず返事が出来なかった。

「航多!何言ってるの?ダンスはカップルで出るのよ。私と出ないとだめじゃない!」

「ただのダンスだろ?そんなにムキになるなよ。」

ただのダンス、その言葉は圧倒的な力で私を打ちのめした。私はぐっと下を向いた。

「柚子、大丈夫か?」

「大丈夫なわけないでしょう!」

長谷川さんが烈火のごとく航多に詰め寄った。

「あなたって最低ね。柚子ちゃんがどんな気持ちで言ったのか知ってるんでしょ!柚子ちゃんに嫌われないように逃げてるだけじゃない!」

私はいてもいられず、家に入り玄関の鍵を閉めた。大きな音に驚き、母が玄関に現れた。

「なによ、柚子忙しいわね・・・大丈夫?」

「大丈夫。」

そのまま自分の部屋に行きベッドに倒れこんだ。もう何も考えたくない。明日なんて来なければいい。

「柚子、航ちゃん来てるわよ。」

母が一階から声をかけてきた。

「会いたくない。」

私はそう言って、ベッドにもぐりこんだ。後になって考えると特別な一日だった。航多が初めて私を選んでくれ、私が初めて航多に想いを告げ、初めて航多を拒絶した日だった。


次の日は運よく風邪をひき学校を休んだ。また吉田君から逃げたと言われそうだ。吉田君になんて説明すればいいんだろう。

「柚子、お見舞いだって。」

「ちょっと待って。」

ちょっと待たないのが母である。ドアが開いて真紀と加瀬君となぜか吉田君も一緒だった。

「大丈夫?柚子の好きなプリン買ってきたよ。」

「ありがとう。」

「なんで吉田がって思ってるよな?表でウロウロしてたんだ。文化祭の準備もあるからって言うからさ。」

「私は反対したの。」

「俺だけ悪者かよ。」

やはりこの二人といると楽しい。その中で吉田君は固い表情だった。

「吉田君、ごめんね。」

「いえ、大丈夫ですか?」

「うん、練習できなくてごめん。」

「早く治るといいですね。」

「俺にも謝ってくれよ。」

「なんで柚子が加瀬君に謝らなきゃなんないのよ。」

「今日俺一人で、ダンスの受付表作ったんだけど。」

ダンスの言葉が胸に刺さった。胸がつかえて返事ができない。吉田君が私の固まった笑顔に気づいた。

「僕も手伝いましたよね?」

「吉田と一緒に来てるの忘れてた。」

「加瀬君って単純よね。」

「黒木、いつも言うが俺に当たりがきついぞ。」

私が声を上げて笑うと、吉田君はホッとした顔をした。

「明日からまた頑張りましょうね。」

「うん。」

今の私は、他の事は何も考えない。考えてはいけない。そうでもしないと、もう息なんかできない。三人が帰ると、急に寂しくなった。ベッドに寝転んで天井を見つめた。ドアがノックする音が聞こえた。

「誰?」

「僕です。」

「どうしたの?」

「忘れ物しました。」

「本当?」

私は立ち上がって探したが、めぼしいものは見つからない。

「自分で取っていいですか?」

「いいよ。」

吉田君が入ってきた。ベッド近くに落ちていた自分のスマートフォンを持ち上げた。

「すみません、お邪魔しました。」

「うん、気を付けて。」

「あの、ダンス委員ですけど、開票作業が大変なので、ダンスに参加していいのは三年だけになりました。加瀬先輩言い忘れてたみたいだから。」

「そう。」

「朗読劇ですけど、部長からオッケー出たので、あの台本通り進めます。」

「そう。」

「僕を利用してもいいですよ。」

「なに?」

「さっきの事、誰も気づいてないと思いますか?」

「さっきって・・・二人なんか言ってた?」

「気づかないふりをして、明日から柚子先輩が元気よく学校に来ることを望んでますよ。」

「そっか。」

ふいに涙が出た。

「一人で大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫。」

「そんな訳ないでしょう。今まで隣にいた岡田先輩がいないんですよ。」

「これ以上私に本当の事言わないで。考えるだけで・・・」

吉田君は、言葉に詰まる私の肩を優しく抱いた。

「座りましょう。」

吉田君はベッドに私を座らせ、椅子にかかっていたカーディガンを肩にかけてくれた。

「やっぱり言わなきゃ良かった。もう、航多の傍にいられない。私は先に進む勇気なんか持ってなかった。バカみたい。」

「岡田先輩の事諦めるんですか?」

「何言ってるの?」

「ずっと好きだったんでしょう?」

「吉田君が思うよりずっとね。」

「岡田先輩を困らせる位、ぶつかりましたか?岡田先輩に遠慮してませんか?」

「これ以上、嫌われたくない。」

「嫌うわけないでしょう、だったら柚子先輩から告白される前に、岡田先輩から離れてますよ。長谷川さんのものでいいんですか?死ぬまで我慢できますか?」

吉田君の強い口調に驚いた。死ぬまでなんてと言われて大げさだと思ったが極端を言えば、吉田君の言う通りだ。

「我慢できない。」

「じゃ、もうちょっと踏ん張りましょう。」

「うん、踏ん張ってみる。」


吉田君が帰った後、朗読劇の台本に目を通した。台本は部長のコメント付きだった。ほとんど修正ばかりだったが、私が書いた一節に花丸がしてあった。

「さすが、ロマンチック部長。」

少し笑ったが、台本を胸に当て目を閉じた。確かにいい言葉だ。今の私にぴったりだ。

「散らない花は美しくない。」

声に出して読むと、こんな私でも自信が湧いてくる。図書部に入った時の気持ちを思い出した。私を支えてくれた本をもっと知りたいと思っていたんだ。また私を支えようとしてくれている。私は一人じゃない。そう思うことで明日から学校へ行ける気がした。


図書室へ行くために、早く家を出た。と言うのはいい訳で、航多に会いたくなかった。昨夜もお見舞いに来た航多を突っぱねた。そう言えば、長谷川さんと仲直りしたのかな。ふと気になった。あんなに怒った長谷川さんを見たことはなかった。私が言葉に出来なかった想いを長谷川さんは航多にぶつけた。長谷川さんの事は憎い。同じ高校に入らなかったら、きっとこんな思いすることなかったと今でも思ってる。だけど、長谷川さんと私は、共通の想いがある。航多だ。お互い何を考えてるのか手にと取るように分かるからこそ、お互いを傷つけあった。その長谷川さんが、何で私を気遣ったのか。

「よう、玉木。腹の調子はどうだ。」

「風邪ひいてたんです。本当にぶしつけですね。」

部長は、私の隣に並んで歩き始めた。

「今日も、図書室か?」

「はい、昨日の分取り戻したくて。」

「いい心構えだな。」

「部長の最後ですから、頑張らないと。」

「縁起悪い言い方だな。まだ受験も終わってないのに。」

「すみません、じゃまた部活で。」

「おう。」

「そうだ部長、花丸ありがとうございました。」

「いい言葉だよな。」

私はにっこりとほほ笑み、図書室へ急いだ。

図書室は誰もおらず空気がひんやりしていた。ヒーターを付け手をかざした。

「柚子ちゃん。」

心臓が飛び上がるかと思った。動揺した顔は見せたくなかったので振り返らずそのまま返事をした。

「なんでここにいるの?」

「走っていく姿見えたから。」

「そう。」

「そのままでいいから聞いて。私、航多にダンスに出たいと言ったんだ。」

「ダンス委員は開票があるから出れないんだって。知らなかった。」

「そうだったの?」

「だから気にせず航多と出て。」

「航多に誰とも出ないと言われた。」

「えっ?」

驚いて振り返ると、青白い顔した長谷川さんの顔があった。

「信じられないわよね。」

長谷川さんは、力なく笑いヒーターに近づいた。

「なんではっきりしてくれないんだろう。私も、柚子ちゃんも息苦しいのにね。」

長谷川さんも、ずっと息苦しかったんだ。

「私さ、本当は柚子ちゃんより一つ年上なんだ。中一の時、入院して留年したの。」

「そうなんだ。」

「入院してた時、大げさだけど明日になったら死ぬんじゃないかと毎日考えてた。そう思うと、今できることは全力でやろうと力が湧いてくるの。」

長谷川さんは、じっと私の目を見た。

「柚子ちゃん、全力で航多にぶつかってよ。私も全力で航多にぶつかるから。」

「うん。」

「良かった。それが言いたかったの。」

長谷川さんはくるりと背を向け颯爽と歩いた。私になくて、長谷川さんが持ってるもの、それは正しさだ。その正しさは私を、そして長谷川さん自身を苦しくする。でもそうじゃなきゃ、もう空の青さが分からなくなる。私も正しくありたい。

私は机について台本を開いた。苦い言葉も、甘い言葉も自分に言い聞かせるように、しっかりと口に出して読んでみた。

明日が文化祭という大きなイベントに、ことごとく呑まれ誰もが落ち着かず、あっという間に放課後に突入した。残すは、ダンス委員会の運営の最終打ち合わせと、朗読劇のリハーサルだけになった。

「そろそろ行こうか。」

加瀬君と並んで委員会の教室まで歩いた。

「ここまで、あっという間だったな。」

「本当に、とうとう明日だもんね。」

「明日は忙しくなるけど、頑張ろうな。」

「うん。加瀬君、ありがとう。」

「何が。」

「学校に来てくれて。」

「何だよ急に。」

「私、加瀬君と友達になれて本当に良かった。」

「恥ずかしいこと言うなよ。」

「私に出来ることあったら、なんでも言ってね。いつも私ばかり迷惑かけてるから。」

「迷惑だなんて一度も思ってないよ。友達なんだろ?」

「ありがとう。」

「おい、しんみりすんなよ。明日が本番だろ?終わったら、黒田と一緒に打ち上げしようぜ。」

「いいね!やろう。」

「その時でいいからさ、俺の話も聞いてくれるか。」

急に声が真面目になった加瀬君に驚いたが、私は満面の笑みで答えた。

「うん、その時じゃなくても、いつでもいいから!」

「おう、とりあえず、最終打ち合わせを頑張りますか。」

教室に入ると、窓際に吉田君が座っていた。私は迷わず、吉田君の隣に座った。

「これ終わったら、すぐにリハーサルしようね。」

「部長が今日は会場作ってからリハーサルをすると言ってました。」

「その方が臨場感出るもんね。了解。」

「俺を仲間外れにすんなよ。」

加瀬君が恨めしそうに私の後ろに座った。

「さっきまで俺に感謝してたくせに。」

「ごめんってば。」

加瀬君の肩を軽くたたいた。吉田君は不思議そうに私を見た。

「なんか、柚子先輩吹っ切れてた感じですね。」

「そう?何も吹っ切ってないけど。」

「今の方がすごく楽しそうです。」

「まあね。」

それはみんなのおかげだ。吉田君の厳しくも温かい励ましと、いつも傍にいてくれる真紀と加瀬君、そして私に正しさを教えた長谷川さん。今はもう航多に全力でぶつかることだけを考えている。航多の動向を気にしなくなってから、不安から何も言えず飲みこんでいた苦い味もしなくなった。ただ、航多は元気がなく、ぼんやりと窓の外を眺めてばかりだった。

委員会も終わり図書室へ急ぐところ、航多に出くわした。と言うより、航多はきっと私を待っていたのだろう。

「どうしたの?」

「いや、今日時間あるか?」

「今から朗読劇のリハーサルをするから帰りが遅くなりそうなの。今日部活ないの?」

「文化祭の準備で部活が休みになった。」

「そっか、今日は長谷川さんは?」

「花音の話はいいから。」

強い口調の航多に驚いた。

「終わるまで待っているから。」

「分かった。」

はやる気持ちの自分がいた。航多が私を選んでくれたらと何度も考えそうになるが、今は朗読劇を成功させることだけ考えた。そうでもしないと依存するだけの自分に戻ってしまう気がした。

図書室のドアを開けると、すでに会場は出来上がっていて、鑑賞席には監督気取りの部長が座っていた。

「遅いぞ、玉木!五分後には始めるぞ。」

「すみません、すぐ準備します。」

慌てて荷物を置き、台本を出した。その台本の隣に、吉田君がポカリを置いてくれた。

「落ち着いていきましょう。」

「ありがとう。」

私はポカリを一口飲んで、息を吐きだした。

「じゃ、行きましょうか。」

「うん、頑張ろう!」

ガチガチに緊張していたが、吉田君との掛け合いが自然にでき、部員の全員から拍手がもらえた。

「柚子先輩、やりましたね!」

「吉田君のおかげよ。ありがとう。」

吉田君が照れたように下を向いた。

「やだ、照れてるの?」

「照れていません。からかわないでください。」

「いつも私をからかってるんだから、たまにはいいでしょう?」

「今日はここまでだな。明日よろしく頼むぞ。」

部長から気合の入った挨拶があり、解散となった。私は急いで帰りの支度を始めた。

「柚子先輩、送っていきましょうか?」

「ありがとう、今日は航多と帰るから大丈夫。」

「と言うことは、上手くいったんですか?」

「違う、違う!航多が話があるって。」

「これから上手くいくんですね。」

「分からない。でもそうだといいな。吉田君のおかげだよ。ありがとう。」

「振られついでに一つ告白していいですか?」

「なに?」

「柚子先輩って、皆が謝る所をいつもありがとうって言ってくれるんですよ。」

「なんか私空気読めてない人みたいじゃない?」

「あはは、違いますよ。例えば何かしてもらってごめんなさいと言う人が多いのに、柚子先輩はありがとうと素直に言ってくれるんです。」

「そう?意識してなかったな。」

「僕が気に入ってる所なんで、ずっとそのままでいてください。」

「上から目線だね。でもありがとう。嬉しい。」

「じゃ、柚子先輩頑張って。」

「うん、明日頑張ろうね。」

私は図書室を飛び出して航多の元へ急いだ。今までの二人の事を考えながら。私たちはいつも一緒だった。航多から目をそらしたことなんか一度もなかった。これからもずっと一緒にいられたら。早く会いたい。下駄箱に行くと、航多が壁に寄りかかって空を眺めていた。慌てて靴に履き替えた。

「寒いでしょ。大丈夫?」

「あぁ、帰れるか?」

「うん。」

航多と並んで歩いた。舞い上がる私とは反対に航多はとても静かだった。その静けさは、私の心を揺さぶった。

「なぁ、覚えているか?」

航多がおもむろに話を始めた。私は、航多の横顔をじっと見つめた。

「小さい頃、柚子の方がずっと足が速かったから、俺は柚子にばれないよう練習してた。」

「そうだったの?航多は走ることが好きだから練習していると思ってた。」

「やっぱり知ってたんだ。俺が練習してたこと。」

「そりゃ分かるよ。生まれた時からずっと一緒なのよ。」

「それだけじゃない、柚子はずっと俺を見ていてくれたからだ。正直、それを嫌だと思って少し離れてみたことはあるけど、何だか上手くいかないんだよ。柚子がいないと。」

航多が私を見つめた。寒さのせいか航多は涙目になっていた。

「頼むよ、俺のそばにずっといてくれよ。」

「私だって、航多の隣にいたい。」

私の言葉にほっとした航多が笑顔になった。長谷川さんに出会う前の私たちに戻れる。そう思えると涙が出そうになった。航多が私を選んでくれたという事実が私の今までを肯定してくれた気がする。もう何があっても離れない。航多の肘をひっぱると航多が笑顔で私を見つめた。

「長谷川さんはどうするの?」

幸せを感じる片隅で長谷川さんの事を考えている自分がいる。長谷川さんには正しく接したい。

「どういう意味?」

航多が驚いた顔で私を見た。

「長谷川さんと別れるって意味でしょ。」

「柚子といるときは花音と会わないようにする。それだったら大丈夫か?」

「・・・意味が分かんない。」

「俺には柚子が必要だ。その気持ちは死ぬまで変わらない。」

「航多は、私にただずっと隣にいろって言うの?」

「さっき、俺の隣にいたいって言ってくれたじゃないか。」

「私は、航多が好きなのよ。」

「俺だって柚子が好きだ。」

「そうじゃない。」

涙で航多の顔がぼやけて見えた。

「私は、長谷川さんと同じように航多に触れたいのよ。」

航多は傷ついた顔をしたが構わなかった。

「航多は、長谷川さんと同じように私を好きなの。」

返事なんかもらえないことは分かっていた。だけど答えて私を傷つけて欲しかった。

「航多の悪い癖だよ。困ると返事をしないところ。」

私は、そのまま走りだした。途中で息が切れ、倒れこんだ、息を切れ切れに吐き出すと白い煙となって夜の闇に消えていった。嗚咽が止まらず大きな声で泣いた。

「泣くなよ。」

いつの間にか航多が後ろにいた。

「航多はいつの間にか、身長も足の速さも私を追い抜かしたよね。私だけ時間が止まっているみたい。」

「俺は花音が好きだ。同じくらい柚子も好きだ。だたの自己中だけど両方手放したくないんだ。」

「勝手すぎない?」

「分かっている。分かってるけど。」

私は立ち上がった。

「じゃ、長谷川さんと同じように私を抱きしめてくれる?」

航多は、こわごわと私を後ろから抱きしめた。私は、その腕を振りほどき航多の方に向き直した。

「長谷川さんにするみたいに、私にキスして。」

航多は一瞬目を伏せた。それが答えだった。

私は航多の首に手を回し抱きついた。

「さようなら航多。」

静かに呟き、航多の頬にキスをした。落とした荷物を拾い家に帰った。

自宅前の外灯の下に吉田君が立っているのが見えた。吉田君は私に気づくと駆け寄ってきた。

「今日は来ないほうがいいと思ったんですが携帯忘れていったから。」

「本当だ、今まで気づかなかった。ありがとう。」

「どうぞ。」

吉田君が携帯電話を差し出した。携帯をもらおうと受け取ったが、吉田君は携帯電話から手を離さなかった。そのまま吉田君は私を自分の方に引き寄せた。

「すみません、弱った時がねらい目だと思っています。」

吉田君の身体は温かくそのまま眠ってしまいたかった。

「もうこのまま眠ってしまいたい。」

「いいですよ。このままゆっくり休みましょう。」

「また逃げてる気がする。」

「十分頑張りましたよ。少しくらい逃げたって大丈夫ですよ。」

「吉田君はいいの?こんな私で。」

「はい、柚子先輩をどうしても手に入れたかったので・・願いが叶いました。」

「じゃ、ずっと傍にいてくれる。」

「はい、ずっといます。」

「ありがとう。」

その後は、どうやって自分の部屋に入ったか分からない。部屋に入っても吉田君はずっと私を抱きしめてくれた。私は目を閉じた。そうすれば、この温かさを勘違いして、ゆっくり休んでいられる。自分に都合のいい優しさがこんなに心地いいとは知らなかった。

いつの間にか眠ってしまい、起きた時には吉田君も消えて、いつもの朝が始まった。母は何事もなかったかのように私に声をかけ、無駄なダイエット話を始めた。聞き流し、玄関を開けると吉田君が立っていた。母がいち早く吉田君に声をかけた。

「おはよう、吉田君。いい天気ね。」

「そうですね、今日午後一時から朗読劇をするので見に来てくださいね。」

いつの間に母と打ち解けたんだろう。驚いた顔の私に、吉田君が微笑んだ。

「行きましょう、柚子先輩。」

「うん、母さん行ってきます。」

「あとで見に行くね。」

母に手を振り、吉田君の隣を歩く。

「いよいよ今日ですね。頑張りましょうね。」

「そうだね、あとダンス委員会の方も頑張らなきゃ。」

「終わったら二人で打ち上げしませんか。」

「二人で?」

「そう、二人で。」

吉田君の言葉に昨日の出来事が事実だった事を思い知らされる。私は吉田君を利用していると思うと胸が苦しくなった。吉田君は私の手をギュッと握った。

「僕が、柚子先輩の隣にいることを選んだんです。柚子先輩が悪い訳じゃない。そして、いつかきっと僕に気持ちが向いてくれると信じています。」

私は吉田君を見つめた。吉田君は空の青さと同じくらい爽やかだ。

「ありがとう。どうぞ宜しくお願いします。」

「こちらこそ。」

それから、いつもの吉田君でたわいのない話が心地よく響いた。

私と吉田君が一緒に登校したことは、すぐに話題になったようで、教室に入ると女子から質問攻めにあった。ただ、その中には長谷川さんはいなかった。この関係を何と言って説明していいか分からず、曖昧な返事をしてごまかした。今日が文化祭で良かった。文化祭の放送が始まると、熱心に聞いていた女子たちは霧が晴れたようにいなくなった。加瀬君は朝だと言うのに、すでに疲れた顔をしてた。

「俺たち、ビラ配りだってよ。」

「えぇ!寒いのに。」

「しょうがないよ。俺らクラスの役割ないんだし。」

「分かった。ところで何でそんな疲れた顔してるの?」

「玉木が部活に行った後、またダンス委員は徴収されたんだよ。」

「なんで?」

「カップルにつけてもらう番号が全部そろってなくて、やり直しになった。」

「どこで間違えたらそうなるんだろう。大変だったでしょう?声かけてくれれば良かったのに。」

「玉木急いでたからさ。」

加瀬君は、私と航多が一緒だったことを知っている。でも何も聞かない。

「加瀬君、ありがとう。」

「おう、ちゃちゃっと配りますか。」

外に出ると、ビラ配りや看板持ちでごった返していた。加瀬君と私は無言で見つめた。

「俺たち配らなくても大丈夫そうじゃないか?」

「そうだね、人多すぎだし、大変そう。」

「温かいもんでも買って座ってようぜ。」

「それ賛成!」

「柚子ちゃん。」

その声に、私より加瀬君が驚き、変な言い訳を始めた。

「人が少なくなった時が狙い目かなってさ。」

「人が多いからビラ配りの意味あるんじゃないの?」

長谷川さんの正論に加瀬君は何も答えられず、しょんぼりしていた。私が持ってたビラを加瀬君に全部渡した。

「しょうもない言い訳したから罰として一人で配って。」

「へっ、無理だよ。」

長谷川さんの冷たい視線に耐えられず、加瀬君はうなずいた。

「柚子ちゃん借りてくわよ。」

長谷川さんは私の手を取り、どんどん人込みをかき分けて進んだ。手を振りほどくことも出来たのに、私は長谷川さんについて行った。中庭に着くと、私の方に向きなおした。

「柚子ちゃん、ごめん。私の話を聞いてくれる?」

「いいよ、なに?」

「昨日、航多から電話があって、もう付き合えないと言われた。」

「なんで?」

「理由を聞いたら、俺は最低な人間だからとしか言わなかった。」

「長谷川さん、どうするの?」

「航多が私を好きでいてくれるんだったら、私は別れたくない。」

「そう。」

「柚子ちゃんは昨日航多と何かあった?」

「振られた。」

長谷川さんは目を見開いたが、何も言わなかった。

「そういうことだから。」

私は目を伏せて元の場所に戻ろうと、長谷川さんに背を向けた。

「じゃ、なんで航多の方が傷ついた顔してるの?」

震える声で長谷川さんは叫んだ。鼻をすする音が聞こえた。

「あんな航多に幾ら私が声かけたって何も聞こえない。」

これ以上、私に何を求めるんだろうか。航多に気持ちを伝え粉々に砕かれた自分に。足の震えが治まらない。でも早くここから立ち去りたい。誰か助けて。急に周りが騒がしくなった。犬の着ぐるみが看板を持って乱入してきた。何が起こったか分からない私は立ちすくんだ。犬の着ぐるみは私を通り越し、長谷川さんの手を引いて校舎に戻っていった。

「なに今の?」

「犬の着ぐるみよ。」

真紀がクレープを持って現れた。

「クレープって流行ってないけど、定番で美味しいのよね。」

私に一つ渡し、ベンチに座って食べ始めた。私も黙って隣に座った。

「寒いけどいい天気ね。」

「うん。」

「早く食べちゃって。中にアイス入ってるから。」

「うん。」

「よく頑張ったね。」

真紀は、いつもの調子でクレープを食べながら言った。

「うん。」

「加瀬君のビラ配り最悪だよ。誰も受け取らない。」

「あはは。加瀬君らしい。」

「朗読劇は一時からだよね。加瀬君と見に行くから。」

「お母さんも見に来るって言ってた・・恥ずかしい。」

「いいじゃない、娘が頑張ってるんだから。こんなに頑張ってる娘は早々いないよ。」

「ありがとう。」

「もう気にしちゃだめよ。ここから先はあっちの問題なんだから。」

「うん。」

「じゃ私、当番あるから教室に戻るね。」

真紀は早々に食べ終わり、手を振って教室に戻っていった。私は黙々とクレープを食べ、ビラ配りに戻った。

加瀬君はビラ配りが本当に下手だった。渡すタイミングがおかしい。

「ごめん、お待たせ。」

「遅いぞ玉木、ダラダラ食べてんじゃないぞ!」

「うるさいな・・何で知ってんの?」

「俺は何も知らない。」

「うそ、だって真紀が加瀬君のビラ配り最悪だって言ってたもん。」

「ビラ配ったことない奴に言われたくないんだよ。玉木、早く配らなきゃ昼飯食べる時間ないぞ。」

「そうだった。」

気合の入った加瀬君より、私の方がビラを早く配り終わった。当番の終わった真紀も合流し、ビラを必死に配る加瀬君を見守った。

寒い中、一人汗をかいた加瀬君と一緒に店を回った。校舎に入っても大勢の人で廊下が埋め尽くされていた。流れに任せて歩くと、長谷川さんを連れ出した犬の着ぐるみがいた。

その着ぐるみには、多くの女子が群がっていた。

「誰か分かる?」

真紀が耳打ちしてきた。

「・・・吉田君でしょ?」

「本当に柚子の事好きなんだね。」

「うん。」

真紀は驚いて私を見た。そして優しく笑った。

「吉田君と付き合うの?」

「うん。吉田君を利用してる嫌な奴なのに、吉田君はそれでもいいと言ってくれたの。」

「柚子はそれでいいの?」

「最低な奴だと思ってる?」

「ううん、柚子が決めたことなら応援する。」

「ありがとう。」

犬の着ぐるみが私たちに気づき手を振った。私が小さく微笑むと、着ぐるみの頭を取った吉田君が大きな声で叫んだ。

「柚子先輩!」

満面の笑みで、大きく私に手を振ってきた。

「愛されてますね。」

加瀬君が冷やかしを入れた。

「うるさいな。」

「これで、吉田君と柚子が付き合ってる噂が事実だったこと、すぐに広まるだろうね。」

真紀の言葉が私を刺した。私が選んだ答えなのに航多に知られたくない私がいる。最低だな私。そう思いながら吉田君に手を振り返した。

開演の二十分前になっても鑑賞席は半分も埋まってなかった。人が多いのも緊張するけど少ないのも寂しかった。

「完全に吉田の落ち度だな。」

部長が声をかけてきた。

「吉田君何かやったんですか?」

「あぁ、玉木と付き合ってることオープンにしたから、吉田狙いの女子が来ないじゃないか。」

「部長、実力勝負で行くのかと思ってましたよ。」

「なんだよその冷たい目は。」

「いえ別に。あっ女子来ましたよ。」

部長が笑顔で顔を上げたが、すぐに目を伏せた。

「どうしたんですか?」

「俺の彼女だ。」

「えぇ、嘘でしょ!彼女可愛すぎじゃないですか!」

「俺にもったいないって言いたいのか?そうだな、もったいなかったのかもな。」

部長を見つけ、小さく手を振る彼女を見ながらぽつりと言った。

「とにかく朗読劇が俺の最後の集大成だ。頑張るぞ。」

無理やり気合をいれた部長に声をどう掛けたらいいか分からなかった。部長と入れ替わりで吉田君が私の隣でスタンバイした。

「吉田君のせいでお客が少ないって部長が怒ってた。」

「なんですか、それ。」

「この位の人数の方が緊張しないで済みそう。」

「頑張りましょうね。」

「うん。」

「終わったら打ち上げ忘れないでくださいよ。」

「分かってる。」

部長の合図とともに、吉田君とステージに立った。一礼をし椅子に座った。座るとお客の視線が集中するのを肌で感じた。

「柚子先輩、行きますよ。」

小さな声で吉田君が合図をした。私は真正面にある貼り紙を見ながら読み上げた。

「君の名を呼ぶときは、いつも甘い匂いがする。」

大丈夫。声は出ている。吉田君は小さくうなづき読み上げた。一つ一つの言葉が色々な思いに紐づいていく。慣れてくると、母の顔や真紀たちの顔も分かった。そして戸口に寄りかかり耳を傾けている航多の姿があった。私だけじゃなかった。私に何かあると、いつも見届けてくれる航多の姿を思い出した。そうやって二人で思いやりを持ってここまで来たんだ。どこで掛け違えたんだろう。私が航多を好きになったから?航多が長谷川さんと出会ったから?こんなにあっけなく終わりが来るなんて思ってもなかった。私は最後の言葉を読み上げた。

「散らない花は美しくない。」

立ち上がって、吉田君と一礼した。顔を上げるともう航多の姿はなかった。拍手の中、吉田君は握手を求めてきた。

「部長、号泣してますよ。」

「本当に?」

「ほらそこ。」

観覧席で号泣している部長にハンカチを渡す彼女が見えた。

「僕、途中から笑うのを堪えてました。」

「あれは拷問だね。」

いつもの調子で答えた。航多に気を取られていたことを吉田君に知られたくなかった。

「次は、ダンスだね。頑張らなきゃ。」

「そうだぞ玉木、頑張るぞ。」

「加瀬先輩、いい感じに柚子先輩と話してるのに入ってこないでくださいよ。だからビラ配るタイミングがおかしいんですよ。」

「なんだよ、見てたのかよ。」

「どうやっても目に入りますよ。」

「うるさいな。そうそう、お前の朗読に黒田はウルウル来てたぜ。」

「うるさいのは加瀬君だよ。だからビラ配りがおかしいのよ。」

「なんだよ、みんなで。」

オロオロする加瀬君がおかしくて、声を上げて笑った。その時肩を叩かれ振り向くと母の姿があった。

「良かったわよ。母さん、本読みたくなっちゃった。」

「僕で良ければ、本のタイトル教えましょうか?」

吉田君から声をかけられ母は嬉しそうだった。

吉田君に母を任せ、会場の片づけを始めた。椅子を持ち上げると目の前に、部長の彼女が立っていた。

「少し、お話いいですか?」

「私ですか?」

「はい。」

「分かりました。」

部長を見ると、まだ泣いていて部員に熱く想いを語っていた。

「部長はほっといていいんですか?」

「いいんです。語りだしたら止まらないから。」

「そうですね。」

私たちは窓際のテーブルに着いた。

「話ってなんですか?」

「彰・・・部長から昨日別れたいと連絡あって、理由を聞いても的を得なくて。好きな人でもできたのかなと思って今日来てみたんだけど。」

「そうだったんですか。」

「最初はあなたかなと思ったけど違ったみたいで。」

「はい、絶対に違います。」

「でも、彰と仲がいいので、もしかしたら何か聞いてるんじゃないかと思って。」

「部長は終わりが来ることを考えてました。」

「終わり?」

「受験が終わって、生活や住む場所が変わる事で人生について考えたらしいです。」

「彰らしい。何事も大げさで。」

「私もそう思います。でもいつか終わりが来る事を知っていると先に気づけることがあると思います。」

「先の事ばかり気にしても・・今の気持ちはどうなるの?」

「今の気持ちですか?」

「そう。だって先の事考えたって途中で変わるかもしれないし。だって私たちは今の気持ちしか分からないんだから。」

そうだ、私は自分の気持ちを知っている。航多から抜け出せない自分を。

「ごめんなさい!大丈夫?何か変なこと言った?」

その言葉で私は涙をこぼしていることに気づいた。

「いえ、朗読劇の言葉よりも感動しました。」

「そう、ありがとう。恋って難しいよね。自分が相手を想う分、自分の事を想って欲しいけど、相手が自分をどう想ってるかなんて量ること出来ないもんね。」

「はい。」

「だから私は、自分がどう想うかで決めようと思う。彰とは別れない。」

部長の彼女は立ち上がった。

「あんな純粋で優しい男そうそういない。」

「そうですね。」

彼女は会釈して、部長の元へ向かった。自分に正直になればなるほど心がえぐられる程苦しくなる。苦しみから逃れたくて別れを選んだのか、先を見据えての決断だったのか分からない。ただ現実として、航多と私は昔のようには戻れない。

「お母さん帰られましたよ。」

吉田君の言葉で現実に引き戻される。

「そう、ありがとう。」

「あの人、部長の彼女ですか?」

「うん、美人過ぎるけど本当だった。」

「本当に・・大丈夫ですか?」

「何が?」

「泣いてたみたいだから。」

「大丈夫よ。吉田君は私に気を遣いすぎだよ。」

「好きな人に気を遣うのは当然ですよ。」

直球の言葉に恥ずかしくなり、下を向いた。

「私も、これから吉田君を気遣えるよう努力する。」

「はい、お願いします。」

「玉木、受付準備があるからそろそろ行こう。吉田、悪いが玉木を借りるぞ。」

「どうぞ、柚子先輩またあとで。」

私は、吉田君と別れ加瀬君と図書室を出た。朝の喧騒からは少し落ち着いた雰囲気になったが、まだまだ騒がしかった。

「あっという間に終わりそうだな。」

「本当に。」

「吉田は良い奴だよ。」

「うん。」

「これでいいのか?」

「分かんない。」

「俺も何が正しいか分からない。だけど玉木は一歩自分で進んだから偉いと言う事だけは言える。」

「何その上から目線。」

「俺は言えなかったから。」

加瀬君の声が心細く聞こえたが、加瀬君を見ないようにした。加瀬君は絶対見られたくないはずだから。

「俺は勇気がない。踏み出す勇気も嫌われる勇気も。」

「なんで最初から嫌われると思ってるの?」

「俺は、女の子を好きになれない。」

驚いて加瀬君を見上げた。加瀬君は悲しそうに笑った。私は加瀬君の手を取った。

「辛かったね。」

「今まで誰にも言えなかった。」

「一人で淋しくなかった。」

「淋しかった。一人でいた方が気軽だし楽だけど、誰かに話を聞いてもらいたかった。」

加瀬君が私の手を強く握った。

「玉木に会えて良かった。」

「私も加瀬君に会えて良かった。」

「よし!受付頑張りますか。」

「うん、終わったら打ち上げね。」

この開放的で、人に無関心の喧騒の中だから、加瀬君はさらっと告白できたのだろう。そして加瀬君が今まで言えなかった秘密を打ち明ける相手に選ばれて嬉しくなった。いつか加瀬君の気持ちが届きますようにと心から思った。

ダンス参加者は思いのほか多く受付作業の追われた。一息ついた時には、既に三十分経過していた。あと三十分で開票だ。慌てて開票準備を進めると、受付ですみませんと声が聞こえた。受付に行くと長谷川さんが立っていた。長谷川さんの顔はあの時よりスッキリしていた。長谷川さんは申込書を私に手渡した。

「受付お願いします。」

申込書を見ると航多の名前もあった。私は無言で番号札を渡した。

「航多にもう一度想いを伝えてくる。それと、さっきはごめんなさい。」

長谷川さんはやっぱり正しくて強い人だ。私は何も言えず長谷川さんが去る姿のを見送った。長谷川さんほどの正しさも強さも持ち合わせていない私が出来る精一杯の行動だった。

「大丈夫ですか?」

開票作業の準備に戻った私に吉田君が声をかけた。

「うん。」

「岡田先輩が長谷川先輩と別れても、僕は遠慮しませんから。」

今までの吉田君から想像もできない強い口調は、身体の隅々に響き身を硬くさせた。航多への想いすら抱いてはいけないと私にくぎを刺すのに十分な言葉だった。

「うん。」

「良かった。柚子先輩に分かってもらえて。」

「玉木、受付閉めるから集計しようぜ。」

「うん。」

吉田君のそばを離れ受付に向かった。ほっと溜息をつき、身体を伸ばした。

「そんな開票準備大変だった?運動不足じゃないのか。」

加瀬君が笑った。

「うるさいな、これから集計を考えると気が重いのよ。」

「まぁそうだな。」

加瀬君と半分に分けて集計を始めた。電卓の音だけがカタカタと響いた。

「玉木、大丈夫?」

「何が?」

「さっき、長谷川来てたじゃん。」

「うん、ダンスに出るんだって。」

「そうなのか?ダンスに出てるカップルに番号札つけてるかチェックしたけど、長谷川達いなかったぞ。」

胸が熱くなり、吐息が出た。

「航多。」

我に返り慌てて口をつぐんだ。もう私が口にしてはいけない言葉なのに。

「岡田はずるいな。」

加瀬君がつぶやいた。私は聞こえないふりをして電卓を叩いた。

「ずっと玉木を離さないつもりなんだな。」

私は、電卓を叩く手を止めた。昔の私なら迷わず航多の元にいく。航多もきっと私を受け止めてくれるはず。だけど、私たちの間には避けて通れない人達がいる。

「私には関係ない話だから。」

「そうだよな。玉木の言う通りだ。」

加瀬君は集計作業に戻った。集計が終わると次は開票作業に追われた。淡々と作業をこなしていくと、気持ちも落ち着き余計な事を考えずに済んだ。無事にベストカップルも決まった時は、安堵し拍手が自然と起こった。

「ダンス委員引き受けて良かった。俺は今、達成感を感じてる。」

加瀬君はなぜか涙ぐんでいた。

「引き受けたんじゃなくて押し付けられたんだけどね。」

「物は言いようだよ。」

「そうだね。楽しかった。ダンス委員は今日で解散だけど明日からも学校来てくれる?」

「おう、必ずいく。」

「良かった。」

「玉木も毎日来いよ。何があっても。俺と黒田が待ってるからさ。」

「うん。」

今度は私が涙ぐんだ。

片付けも終わり、加瀬君と帰り支度をしていると吉田君が声をかけてきた。

「柚子先輩帰りましょう。」

「吉田、悪い。今日は黒田と俺と玉木で約束があるから、先に帰ってくれないか。」

驚いた私をよそに、加瀬君はそのまま話を進めた。

「黒田が行きたいところがあるらしくってさ。」

「分かりました。それは仕方がないですね。柚子先輩、明日の朝迎えに行きます。」

私は、曖昧な笑顔を浮かべ吉田君に手を振って別れた。吉田君から十分離れたところで加瀬君に聞いた。

「今日打ち上げするの?真紀はダンス始まる前に帰ったと思うんだけど。」

「そうだよ。」

「どうしたの?」

「気づいてる?吉田が声をかけてきた時、異常に緊張してた。何かあったのか。」

「吉田君も気づいたかな。」

私は不安になって加瀬君に詰め寄った。

「どうしたの玉木?吉田から何か言われたのか?」

「ううん、吉田君にはいつも助けてもらってる。」

「今までは吉田と自然な感じがして、いいなと思っていたけど、玉木・・吉田を恐れてないか?」

「吉田君は、航多から振られたとき私を救ってくれた。こんな私でもいいと受け止めてくれた。それに・・・」

「それが付き合う理由になるのか?」

加瀬君の質問に答えられなかった。

「そんなんじゃ吉田も可哀想だろ。」

「吉田君を好きになるよう努力する。」

「それって努力で何とかなるもんなのか?」

「うるさい!私にはそれしかないから。」

加瀬君は、それ以上何も言わず家まで送ってくれた。

それからの日々は穏やかだった。毎朝、吉田君と一緒に学校に行き、教室では真紀と加瀬君とたわいのない話をして過ごした。文化祭が終わったあとの図書室は受験生で埋め尽くされ部活動は受験が終わるまで休止となった。私には都合がよかった。授業が終わるとすぐに吉田君と学校を飛び出した。そうやって過ごすうちに、吉田君が隣にいる事実を自然と受け入れられるようになり、航多を恋しく思う時間も減っていった。もう大丈夫。そう思えるほど気持ちも安定した。冬休みは真紀と加瀬君と会い、時々吉田君と二人で出かけた。それなりに楽しく冬休みを過ごし、最後の学期を迎えた。久しぶりの学校に皆浮足立っていたが、先生の一言で静まり返った。その言葉は私を不安にさせるのに十分だった。それから何も耳に入らず、何も考えられなかった。

「柚子、吉田君が呼んでるよ。」

真紀が遠慮がちに声をかけた。私は顔をあげ、真紀をじっと見た。

「吉田君が呼んでる。先に帰ってと言ってこようか?」

「ううん、大丈夫。自分で言える。」

私は立ち上がって、吉田君の元に行った。

「柚子先輩帰りましょう。」

「ごめん、先に帰ってて。」

「どうしたんですか?」

「真紀と約束があって。」

「僕の方が先に約束してましたよ。」

「ごめん。」

「そう言うなよ。」

黒木君が帰りがてら話に加わった。

「長谷川さんが入院したから、黒田と見舞いに行くんだろ?今度俺も誘ってよ。」

黒木君は私の肩を叩き帰っていった。残された私は、慌てて吉田君にいい訳をした。

「違うの。お見舞いに行くんじゃなくて・・」

「柚子先輩、大丈夫ですよ。僕も一緒に行きますから。」

吉田君は有無を言わせなかった。私は何も言えず黙っていた。

「吉田君、今日は私と柚子で行くから。」

「僕も一緒じゃダメですか?」

「長谷川さんがどういう状況か分からないから、今日のところは女子で行く。長谷川さんから許可が下りたら、その時は吉田君も誘う。」

「分かりました。柚子先輩、また明日。」

「うん、またね。」

吉田君が去っていくと、私は気が抜けため息が出た。

「大丈夫?」

「うん。」

「余裕がない吉田君初めてみた。絶対に柚子を離したくないんだね。」

「うん。」

吉田君が大事に想ってくれているのは分かる。二人でいても楽しい。ただ、吉田君が私を求めるたび、身体のどこかがひやりと冷たくなる。吉田君はそれを気づいているのだろうか。気づいてもきっと吉田君は知らないふりをする。私もそうやってここまで来た。

「とりあえず、長谷川さんのお見舞い行こうか。」

「行かなきゃダメかな。」

「なんか行く話になっちゃったし。柚子は気になるでしょ?」

「気になるけどさ・・・」

「まだ岡田君のこと諦めきれない?」

「そんなことない。」

「だったら行ってみない?もう一歩進んでみようよ。」

「分かった。」

こうすることで吉田君に安心をあげられる。

そう思えると行く価値があるような気がした。真紀がいて良かった。病院の匂いは冷たく気持ちが沈む。真紀が受付で部屋番号を聞いてる間、ロビーに入る光の先を眺めた。大きな天窓はピカピカに磨き上げられ、まるで外へ続いているようだった。

「柚子、分かったよ。行こう。」

「うん。」

部屋の前で深呼吸しようと立ち止ると、すでに真紀がノックをしていた。中から声がして、ドアを開けすたすたと入っていった。ついてくしかない私は真紀にぴったり引っ付いた。

「来てくれたんだ。」

弱弱しい声に驚き、真紀の肩越しから長谷川さんを見た。あの時と同じように長谷川さんは透明に近かい存在だった。私は声が出ず、黙って長谷川さんを見続けた。

「柚子ちゃん・・久しぶり。」


「うん。」

「ジュース飼ってくる。」

真紀がすぐに病室を出て行った。止める暇もなく私と長谷川さんの二人っきりになった。

「会いたかった。」

長谷川さんは、小さくもはっきりした声で言った。私は勧められるままベッドの近くの椅子に座った。

「再発しちゃった。」

何も言えず、長谷川さんの言葉の続きを待った。

「また長く入院することになりそうなの。それで、柚子ちゃんにお願いがあって。」

航多が頭をよぎり、長谷川さんから目をそらした。

「入院中って一日がすごく長くて。そんな時間に本が読みたいと考えてるの。柚子ちゃんのおすすめの本を貸してもらえないかな?」

「・・私のお勧めでいいの?」

「うん。日頃本を全然読まないから教えてもらえると嬉しい。」

「分かった、明日持ってくるね。」

「ありがとう。」

長谷川さんは、はじける笑顔で答えた。長谷川さんが弱っている姿を見て同情して返事をしてしまったのかは分からない。だけど、どうしても長谷川さんを一人にしたくなかった。

真紀も加わり、たわいにない話をして病院を後にした。

「長谷川さんとゆっくり話せた?」

「やっぱり、わざといなくなったんだ。」

「まあね、どうだった?」

「明日も行く約束しちゃった。」

「そっか、明日は吉田君と行く?」

「ううん、長谷川さんと二人で会う。」

「そうなんだ。」

真紀と別れ、家に帰る。長谷川さんを考えると自然と航多を思い出す。航多と長谷川さんを避け続けてここまで来た。知らないふりをして薄氷の上を歩き続けた。そうでもしないと断ち切れなかった。私はまた、あの息苦しい水槽に戻るのか。でも苦しくも素直な気持ちでいられたあの頃が羨ましい。

「柚子先輩。」

吉田君の声に大きく反応してしまい鞄を落とした。吉田君は駆け寄って鞄を拾ってくれた。

「大丈夫ですか?」

「うん、びっくりした。」

「長谷川先輩どうでしたか?」

「うん・・・元気じゃなかった。」

「そうですか。何かあったんですか?」

吉田君の探るようなまなざしに耐えられず下を向いた。

「次から僕も行きます。」

「だめ。」

声の強さに吉田君が驚いた。

「きっと長谷川さん、今の姿見せたくないと思う。」

「そんなに悪いんですか?」

「よく分からないけど、透明に近づいている気がする。」

吉田君はそれ以上何も言わず、家まで送ってくれた。夕食後、部屋に戻り本を選ぶ。自分の想いが伝わるようで恥ずかしく、中途半端な本を選んだ。その本を眺めていると、長谷川さんの想いに応えていない気がした。長谷川さんは私に頼んだ。きっと意味はあるはず。そう思い一番好きな本たちを鞄に入れた。そしてカーテン越しに航多の部屋を見つめる。もうずっとこのカーテンは開けていない。長谷川さんは以前と変わりすぎている。航多は長谷川さんと会ってどう思ったんだろう。

「大丈夫かな。」

長谷川さんでなく航多への言葉が自然に出た。吉田君となんとなく楽しくしていた靄のかかった世界が少しずつ広がりを見せている気がした。

「おはようございます。」

吉田君が毎朝迎えに来るのが当たり前となり、母も迎える準備万端だ。

「吉田君、おはよう。中で待って、寒いから。」

「ありがとうございます。」

吉田君は玄関に入り、手袋を外した。私はすぐに玄関に行き靴を履いた。

「今日は準備早いですね。」

「いつも通りよ。」

外に出ると思いのほか寒く手をこすった。

「手袋忘れちゃった。」

「じゃ、僕の使います?」

「ううん、吉田君も寒いから大丈夫。」

「こうします?」

吉田君は私の手を取りポケットに手を入れた。私は抵抗することなく、そのまま学校へ向かった。

「今日は素直ですね。」

「そうかな。」

「今日は僕の家に来ませんか?」

「ごめん、今日は長谷川さんに本を持っていく約束したの。」

「そうですか。」

「ごめんね、明日だったらいけると思う。」

「じゃ、明日にしましょう。」

「また後で。」

吉田君は、校門に着く前にポケットの中の手をギュッと握って先に教室へ向かった。上手く吉田君をかわせたことにホッとし、ゆっくりと教室に向かった。自分の教室を通り過ぎる前に航多の教室を覗いた。航多は窓の外を眺めていた。その姿は寂しそうで愛しかった。目をそらし、自分の教室に入った。航多に大丈夫と声をかけたい。寂しいなら隣にいてあげたい。まだこんなにも航多への想いにあふれている。航多に会いたい。長谷川さんがいないなか、身勝手な気持ちが暴走する。鞄を開けると、長谷川さんに渡す本が目についた。本を見ると長谷川さんの顔を思い出した。透明に近くて消えてしまいそうな長谷川さんを。今日も長谷川さんに会うことを思い出し、航多へ気持ちが向かないよう何も考えないようにした。

「本当に一人で行くのかよ。」

加瀬君は不服そうな顔をした。

「黒田と昨日行ったからもういいじゃないか。」

「約束しちゃったの。」

「俺も行くよ。」

「ううん、長谷川さんは私が一人で来ることを望んでいる気がする。」

「何を考えてるんだよ。玉木が吹っ切ったんだろう?また蒸し返すのか?」

「長谷川さんをほっとけない。」

「・・・そんなに悪いのか?」

「私も行ってあげた方がいいと思う。」

真紀も話に加わった。私たちは長谷川さんが変わってしまったことを加瀬君に話した。加瀬君は口を閉ざしたままだった。

「遅くなるからもう行くね。」

私が鞄を持って立ち上がった。

「気を付けて。」

真紀が手を振って見送った。

「長谷川に関わるな。」

加瀬君が低い声で言った。

「何でよ。」

「何でもだよ。」

「理由になってない。」

「玉木、お前ずっと苦しむことになるぞ。」

「長谷川さんに本を渡すだけだもの。大丈夫よ。」

「長谷川がいなくなってもか?」

「いなくなる?どういう意味?」

「例えばの話だよ。」

「大げさだよ、約束しているからもう行くね。」

私は教室を出た。見ないようにしていたグランドに目を向ける。航多の走る姿を見つけほっとする。私が必死で蓋をした気持ちはあっけなく開いた。

「柚子先輩。」

吉田君の大きな声がグランドに響いた。慌てて校舎を見ると教室の窓から手を振っている吉田君が見えた。慌てて手を振り返した。吉田君に不安を与えてはいけない。すぐにこの場所から離れるべきだと分かっている。だけど、もう一度グランドに航多の姿を探す。航多は私を見つめていた。目があった瞬間、航多から目を離すことはできなかった。ただ航多は違った。前を向きいつもの練習に戻った。航多は昔のように笑ってくれると都合のいい願いは消え去った。私は足早に病院に向かった。長谷川さんは私を見るなり嬉しそうに手を振った。私は鞄から二冊の本を出した。

「気に入ってくれるといいんだけど。」

「ありがとう柚子ちゃん。」

「長谷川さん、他に必要なものはある?」

「ううん、毎日が長くて時間を持て余していたから本を貸してくれるだけで充分よ。」

「わかった、じゃまた来るね。」

「いつ来てくれる?」

長谷川さんの必死さに驚いた。

「私でいいの?」

「柚子ちゃんがいいの。柚子ちゃんとは色々あったけど本音で話せるのは柚子ちゃんだけだった。」

「あんなに友達がいるのに?」

「私さ、長谷川花音を作り上げて演じてるだけなの。その方がクラスに馴染むし、敵はいないし。」

「そうだったんだ。」

「柚子ちゃんが羨ましかった。」

「本音で付き合わないから入院しても誰も来ないし。」

「黒木君は来たいと言ってたよ。」

「あはは、何で黒木君なのよ。でも誰も来なくてよかった。こんな姿誰にも見られたくない。」

「長谷川さんは綺麗だよ。」

「何言ってんの。」

「長谷川さんは綺麗で正しいよ。私は長谷川さんが羨ましかった。」

「・・・それは航多が隣にいたから。」

航多の名前に、私は言葉が出なかった。

「文化祭の後、航多に告白したけど断られたの。それから会えなくて、ここまで来ちゃった。」

「いいの?」

「うん、私入院が長引きそうだし、航多を待たせるわけ行かないから。」

「航多はそんなこと気にしないよ。」

「柚子ちゃんはどうなの?」

「えっ、どうって?」

「吉田君と付き合ってるんでしょ?」

「うん。」

「吉田君が好きなの?」

「吉田君といると落ち着くし楽しい。」

「そんなこと聞いてない。」

「吉田君は私を大事にしてくれる。」

「航多だって柚子ちゃんを大事に想ってるよ。」

「航多の話はもうしないで。」

私はそのまま病室を出た。やみくもに歩き中庭のようなところに飛び出した。冷たい風に驚き空を見上げた。どんよりとした雲から雪が降ってきそうだった。近くにあったベンチに腰を下ろした。長谷川さんは私にどうしろと言うのだろうか。真意が読めなかった。一つ分かったのは、長谷川さんは今も航多が好きだ。ここから離れられない長谷川さんは、航多が来ない限り、航多に会えない。可哀想だと思う反面、心のどこかで喜んでいる自分がいる。

「最低だな私。」

長谷川さんと話すと自分の醜さがはっきりとわかる。もう会いたくない。これで終わりにしようと心に誓った。

自宅前に吉田君が立っているのが見えた。私は走って吉田君に駆け寄った。

「どうしたの?」

「遅かったですね。何してたんですか?」

「お見舞いって言ったじゃない。」

「本当ですか?」

「なんで嘘つかなきゃなんないの。」

「柚子先輩はいつになったら僕だけを見てくれますか?」

「私たち付き合ってるじゃない。」

「最初のうちは柚子先輩の気持ちが僕になくても、付き合っていると岡田先輩に知らしめればそれで良かった。だけど柚子先輩と二人で過ごすうちに、僕だけを見てて欲しいと思うようになりました。」

吉田君は私を抱きしめた。

「誰にも渡さない。僕のものだ。」

生意気で余裕のある吉田君はここにいなかった。この手を振り払えるほどの強さも、吉田君に面と向かって話す勇気も持ち合わせてなかった。

「分かってる。」

「本当ですか?」

「うん、もう長谷川さんのところへは行かない。」

「ありがとう。」

「もう心配しないで。」

吉田君はゆっくりと手をほどいた。その顔はいつもの吉田君だった。

「じゃ明日の朝迎えに来ます。」

「うん、待ってる。」

吉田君の背中を見送った。裏切るつもりはない。長谷川さんにはもう会わない。航多の事も考えない。吉田君を好きになる。そう自分に言い聞かせた。

次の日も変わらず吉田君は待っていてくれた。

昨日の事はなかったように話をした。

「今日は僕の家来れますか?」

「うん、大丈夫。」

「放課後迎えに行きますね。」

「待ってるね。」

いつものように吉田君と別れ、教室に向かった。

「加瀬君、おはよう。」

「おはよう、長谷川どうだった?」

「うん、約束していた本を渡してきた。もう私の役目は終わり。」

「もう行かないのか?」

「うん。」

「そうか。」

「気になるの?」

「あぁ。」

加瀬君の即答に驚いた。

「加瀬君もお見舞いに行きたいの?」

「俺は行かない。」

「なんで?昨日から変だよ?」

「こんな事聞くのは良くないと思うけど、岡田は長谷川と会ってるのか?」

「ううん、別れたままだって。」

「そうか。」

「なんでそんなに長谷川さんを気にするの?」

「クラスメイトだろ?当然だ。」

「何を隠してるの?」

加瀬君はあいまいに返事をして教室から出て行った。

「柚子先輩。」

吉田君が昼休みの教室に顔を出した。

「どうしたの?」

「今日の約束キャンセルしていいですか?友達が振られて付き合うことになって。」

「いいよ、励ましてあげて。」

「じゃ、明日の朝に。」

「うん、待ってるね。」

丁度よかった。確かめたいことがある。

「加瀬君、放課後付き合って。」

「長谷川のところだったら行かないぞ。」

「うん、私も行かない。」

「俺は用事がある。」

「じゃ終わるまで待ってる。」

「なに?喧嘩?」

真紀が心配顔で近寄ってきた。

「喧嘩なんかしてない。」

「いや、これは喧嘩よ。加瀬君何を隠してるの?このままじゃ気持ち悪いじゃない。」

「なに?隠し事?私たちに言えない事なの?」

真紀も加勢してくれた。加瀬君はため息をついて首を縦に振った。

「今日うちに来いよ。それから話す。」

「分かった。」

加瀬君の家に着くまで、加瀬君は一言も話さなかった。その沈黙が事の重大さを感じさせる。真紀も途中から加瀬君の重い雰囲気にのまれ一言も話さなくなった。加瀬君は家に着くと温かいココアを淹れてくれた。

「美味しい。加瀬君はお茶を淹れるの上手いね。」

「ありがとう。」

間が持たず、耐え切れなくなり加瀬君に切り出した。

「長谷川さんが何だって言うの?」

「長谷川さんがどうしたの?」

真紀も加瀬君に突っかかった。

「直接聞いたわけじゃない。」

加瀬君は重い口を開いた。

「前に長谷川が入院してた話を覚えてるか?」

「うん、長谷川さんからも長い入院だったことを聞いてる。」

「その時の病名は知ってるか?」

「ううん。」

「白血病だったんだよ。長谷川に話しかけられた時うっすらとしか覚えてなかったから卒業アルバムで確認したんだよ。長谷川・・・集合写真にも写ってなかった。気になって同じ中学の奴に聞いたんだ。あの時、助かったのは奇跡だと・・・再発したのか分からない。」

明日死ぬかもしれないと教えてくれた話は本当だった。本音で私に話してたんだ。それなのに自分に耳が痛い話を勝手に終わらせて。

「どうしよう・・・」

涙があふれた。鼻の奥がツンと痛み嗚咽がもれた。

「大丈夫?」

真紀がティッシュ箱ごとくれた。私は多めに取り顔に当てた。

「傷つけると思って言いたくなかった。」

加瀬君が肩に触れた。私は答える代わりにうなずいた。私が泣き止むまで真紀はずっと背中をなでてくれた。

洗面所を借りて顔を洗う。泣きはらした目は醜く、私そのものだった。

「新しいの淹れたぞ。」

コーヒーのいい匂いがした。加瀬君は牛乳を多めに入れて出してくれた。

「私、明日長谷川さんのところに行こうと思う。このまま終わりたくない。」

加瀬君と真紀は私のつたない話を聞いてくれた。

「長谷川さんの正しさが怖かった。長谷川さんは本音で私と話していただけなのに、都合が悪い話に蓋をして長谷川さんを遠ざけた。これ以上醜い私になりたくなかった。」

「なんで醜いんだよ。俺は玉木に会えて良かったぞ。」

「私も。醜いならとっくに友達辞めてるわよ。」

「俺たちに出来ることあったら何でも言ってくれよ。」

大事な友達の言葉は、何よりも温かい。また本を持って長谷川さんに会いに行こう。もう逃げたりしない。

「ありがとう。」

私は笑顔でお礼を言った。

加瀬君の家を出てすぐに携帯を取り出し、吉田君にメッセージを送った。すぐに返信があり、一九時に駅で待ち合わせた。早めに駅に着き吉田君を待った。私は吉田君を待ってることは一度もないことに気づいた。遠くから吉田君が走ってきた。

「お待たせしてすみません。」

「ううん、友達大丈夫だった?」

「はい、すっかり。カラオケで盛り上がってます。」

「まだ一緒だったの?ごめんね。」

「俺一人位抜けたってわかりませんよ。」

吉田君が自然と私の肩に手を回した。

「寒いからどっか入って話しません?」

「出来たら誰にも聞かれたくないんだけど。」

「そうですか、だったらすぐそこの公園に行きましょう。」

二人で公園に行きベンチに座った。心臓の音が吉田君に聞こえてしまうんじゃないかと思った。吉田君を見ると前を向いたまま穏やかな顔をしていた。

「吉田君、私・・・」

「僕は別れませんよ。」

「えっ・・いや・」

「絶対に柚子先輩を放しません。僕の悪い所全部直しますから。」

「吉田君に悪い所なんて一つもないよ。欠点だらけなのは私だもん。それに別れてと言いたいわけじゃないの。」

「・・・違うんですか?」

「別れたかったの?」

「だって柚子先輩が僕を待ってまで話をしたいなんて言うから。」

「私・・これからも長谷川さんに一人で会い行こうと思うの。出来たら毎日。」

「毎日って・行って何をするんですか?」

「本を選んで欲しいと言われてるから、私が選んだ本を持って行ってあげる。」

「そんなに本が読めますか?」

「あとは話をする。」

「話?長谷川先輩とそこまで仲が良かったと思いませんが。」

「私たちは似てるから。長谷川さんもそう思ってくれてると思う。」

「僕は反対です。」

「長谷川さんが私と話をしたいと言ってくれたの。出来る限りの期待にこたえたい。」

「やっとここまで来ることが出来たのに・・どうしてまた岡田先輩の元に返さなきゃならないんですか?」

「航多は関係ない。」

「関係あります。柚子先輩が長谷川先輩と似てると思うのは、二人の間に岡田先輩がいるからですよ。」

「・・・航多は私の一部だもの。」

吉田君は、傷ついた顔をしたが話を止めなかった。

「長谷川さんは、それも含めて私に会いたいと思う。」

「僕が嫌だと言ってるのに?」

「ごめんなさい。でも私は、もう逃げるつもりはない。」

吉田君は大きくため息をついた。

「ずるいですね。僕から離れることが出来ないと思ったうえでの話ですね。」

「うん、自分でもずるいと思う。だから吉田君が決めて。」

「・・・・別れないでって何で言ってくれないんですか?」

吉田君は下を向いた。

「僕にすがってもくれない。僕だけが馬鹿みたいだ。」

「吉田君・・・」

吉田君の頬に触れようと手を伸ばしたが、吉田君が払いのけた。吉田君からの拒絶に驚き、胸が苦しくなった。今まで手を伸ばせば確実に受け入れてくれる温かさを私が壊したのだ。

吉田君は、そのまま背を向け歩いて行った。何と声をかけていいのか、私が声をかけていいのか分からず吉田君の背中を見続けた。

次の日から吉田君は迎えに来なくなった。学校まで一人で歩く。こんな長い道のりだったかと驚く。吉田君を傷つけてまで長谷川さんのところへ行くべきなのかと考えずにいられない。だけど長谷川さんのためだけじゃない。自分もどこかで区切りをつけたいと感じている。学校に着き、荷物を置き図書室へ向かった。長谷川さんはどんな本が読みたいだろうか。書架棚を回って本を探す。

「おう、玉木。元気か?」

「部長、久しぶりですね。おはようございます。」

「部活動できなくて悪かったな。」

「別にいいですよ。」

「もう少し残念がれよ。吉田とはうまくやってんのか?」

「まぁ、それなりに。部長はあれからどうしたんですか?」

「・・・現状維持だな。」

「やっぱり、そうじゃないかと思いました。」

「なんだよ、そういや文化祭の時、彼女と何を話してたんだ?」

「気づいてたんですか?」

「まあな。」

「内緒です。」

「なんだよ、教えてくれよ。俺は全然彼女の考えてることが分からないんだよ。」

「本人に聞いてみたらいいじゃないですか。」

「そうなんだけど・・・本当に聞きたい事は、なんで本人に聞けないんだろうな。」

「・・・分かります。自分の事となると勇気出ないですよね。」

「周りの人間から見ると簡単で単純なことなのにな・・・」

「そうですね。」

チャイムが鳴り、慌てて二人で図書室を出た。

私は、部長の背中に大きな声で呼びかけた。

「部長!先を見通すより今の気持ちを大事にするって言ってました。」

「なに?」

「部長が好きなんですって。」

「大声で言うなよ、恥ずかしい。」

「受験頑張ってください。」

「ありがとう。」

部長は恥ずかしいせいか、こちらを見ず手を振った。

帰り支度をしていると加瀬君が声をかけてきた。

「今から長谷川のところに行くのか?」

「うん。」

「そうか。」

「私、これからずっと一人で長谷川さんに会いに行こうと思う。だから真紀と二人で帰ってくれる?」

「吉田は大丈夫なのか?」

「・・・分からない。すごく傷つけた。」

「今日一度も顔を出さなかったな。玉木はそれでいいのか?」

「ここで吉田君に取り繕ったって、またほころびが出る。それに私は甘えすぎてた。自分が傷つかないように吉田君を利用してた。」

「吉田はそれでも玉木の隣にいたかったんだよ。」

「吉田君は、私が隣にいないほうが幸せなんじゃないかな。」

「吉田の幸せは吉田が決めるんだ。玉木じゃない。」

加瀬君の口調が強い。私たちの雰囲気を察して、真紀が近づいてきた。

「どうしたの?」

「何でもない。」

加瀬君は荷物を持って教室を出た。

「加瀬君と喧嘩したの?」

真紀が心配そうに聞く。

「ううん、そんなんじゃない。」

「気になるから追っかけるわ。じゃあね。」

真紀が荷物を持ち、加瀬君を追った。私も教室を出た。病院までバスを使っていく。バスには、ほとんど人がおらず日当たりのいい席に座った。バスの中からだと寒さから遠のき、眠くなった。眠気防止に窓の外を眺める。裸の木々は頼りなく今にも眠りにつこうとしている。その寂しさに長谷川さんの姿が重なった。長谷川さんはこのまま透明になるのかもしれない。不謹慎にもそんなことを考えた自分を恥じた。病院の停留所でバスを降り正面玄関まで歩く途中で、ジャージ姿の航多を見た。慌てて木陰に隠れた。航多は入院棟を見上げ微動だにしなかった。五分ほど経つと、そのまま走り去った。私は両手で自分の身体を抱きしめた。そうでもしないと航多に触れてしまいそうだった。私は航多に触れる権利はない。そう言い聞かせて、気持ちを落ち着かせた。重い足取りで病室に向かう。ドアをノックすることに勇気がでず、ためらっていると先にドアが開いた。

「柚子ちゃん、来てくれたんだ。」

長谷川さんは、晴れやかな顔で迎えてくれた。「うん、そろそろ本読み終わったんじゃないかと思って・・」

「ありがとう。ありがとう。」

長谷川さんは私に抱き着いた。長谷川さんから少し消毒の匂いがした。

「長谷川さん、大丈夫?」

私が口を開くと慌てて離れた。長谷川さんの目には涙が光っていた。

「もう来てくれないと思ってたから嬉しくて・・つい。ごめんね。」

「ううん、あの・・・あの時は勝手に帰ってごめんね。」

「ううん、こうしてまた来てくれた。ありがとう。」

長谷川さんは泣いてしまったことが恥ずかしかったようで話を変えた。

「今日天気もいいから、ジュースを買って中庭で飲まない?」

「いいよ。」

長谷川さんと並んで廊下を歩く。学校では出来なかったことだった。温かいミルクティーを長谷川さんが買ってくれ二人でベンチに座った。

「天気いいけど風が冷たいね。」

「今が一番寒い時じゃない?」

「本ありがとう、全部読んだ?」

「面白かった?」

「うん。」

「どんなものが読みたいかリクエストしてくれれば借りてくるよ。」

「私・・柚子ちゃんが好きな本が読みたい。」

「心の内を知られるようで恥ずかしいな。」

「そうだよね。借りた本を読んでると、柚子ちゃんらしいって思っちゃったもん。じゃ私も長谷川花音を演じずに素直な気持ちで柚子ちゃんと話す。」

「長谷川さん・・・・」

「だって私にはあまり時間がないから。」

さりげない長谷川さんの言葉を危うく素通りするところだった。黙り込んだ私を見て、長谷川さんは苦笑いをした。

「柚子ちゃん、私再発しちゃってね・・・こうやって面と向かって話せるのもあとわずかなの。前と同じように無菌室に入らなきゃいけないから。」

口が開いたままの私に、長谷川さんはとびっきりの笑顔を向けた。

「航多なんか知らなきゃよかった。知らなきゃ、こんなに生きたいと思うことなかったのに・・・」

「・・・・航多に会いたい?」

「分からない・・・・会ってもどうしていいか分からない。」

笑顔で泣く長谷川さんをどうしていいか分からず抱きしめた。長谷川さんの肩は薄くて大事に抱きしめないと粉々になってしまいそうだった。

「私最低なの。柚子ちゃんを利用してる。柚子ちゃんと話せば航多を感じることができるの。だって航多の中に、いつも柚子ちゃんがいるから。」

この人は私と一緒だ。一番大事に想う人には何も言えず、周りに寄りかかって何とか自分を保ってる。私と同じように弱くて泣き虫だ。

「私も同じ。吉田君を利用して忘れようとした。」

「航多は何を考えてるんだろう。私にはもう聞く勇気がない。」

鼻をかみながら長谷川さんは言った。私は、さっき航多に会ったことを伝えるべきだと思ったが言えなかった。

「柚子ちゃんは航多が好き?」

「うん、忘れられない。」

長谷川さんに嘘をつくのはやめよう。たとえ長谷川さんが傷ついたとしても。

「私も航多が好き。」

「うん、知ってるよ。」

「航多を誰にも渡したくない。」

「私も。」

「やっぱり私たち似てるわね。」

「本当に。」

二人でクスクスと笑いあった。

「花音ちゃん、風邪ひくから、そろそろ中に入って。」

看護師さんに声をかけられ中に戻った。

「じゃ私部屋に戻るね。」

長谷川さんは看護師さんと一緒に病室へ戻っていった。今まで透明に近いと思った長谷川さんだったが航多への想いが小さな灯りになって長谷川さんを照らしてくれてる気がした。長谷川さんにも私にも航多が必要だ。家に荷物を置き着替えてすぐ航多の家に行った。航多はまだ帰っておらず部屋で待たせてもらうことにした。久しぶりに航多の部屋に入ると懐かしい匂いに気持ちが和らいだ。昔から変わらない場所、その感覚が私に勇気をくれる。今日は航多と話ができる。絶対に泣いたりしない。そう思えた。航多が階段を駆け上がる音が聞こえドアが開いた。航多を真正面から見るが久しぶりで、じっと顔を見つめた。

「柚子・・・どうした?何か用か?」

「うん・・・航多元気だった?」

「あぁ。」

航多はそのまま床に腰を下ろした。

「寒くないか?」

「少し寒い。」

航多はすぐに暖房をつけてくれた。

「航多・・」

「何?」

「私・・・・航多が好き。」

航多が驚いて目を見開いた。

「航多は何を考えてるの?」

「俺は・・・誰の事も好きなっちゃいけない。」

「なんで?」

「みんな傷つけた。」

「またそうやって私たちを傷つけるの?その半端な優しさが一番傷つくの。傷つけるら立ち上がれないくらい傷つけてよ。」

私は、後ろから航多を抱きしめた。

「私を選んでくれるなら、もう絶対に航多から離れない。私を選ばないんだったらこの手を振り払ってよ。」

航多は私の手に自分の手を重ねた。

「俺が振りほどけるわけないじゃないか。昔から柚子がいなきゃ何も乗り越えられなかった。今もそう・・・・」

「長谷川さんに会いに行ったら?今日だって病院に来てたじゃない。」

「怖いんだ。柚子に会えない悲しさを花音にぶつけた。こんな俺に会う資格なんかない。」

「長谷川さんは航多の事が好きだよ。私だってこんなこと言いたくない。だけど、長谷川さんはもう、ここにきて直接言うことができない。」

「柚子・・・俺のそばにいてくれるか。」

「うん。ずっとそばにいる。」

航多は私の手をほどき、真正面から私を抱きしめた。

「好きだ。」

航多は私の顔を手で覆い、そっと口づけをした。私は抗うこともせず目を閉じた。そのまま終わりが来て私が透明になればいいと思った。次の日から航多と登校した。吉田君から乗り換えたと一時期学校中の噂になったが、吉田君がフリーになったことで女子からのやっかみが減り思いのほか平穏だった。航多とは少し離れたが、今までの時間の長さからか波長がぴたりと合いお互い心地よく過ごせるることに時間はかからなかった。加瀬君はあれから口をきいてくれず、お昼のお弁当は真紀と二人で食べる毎日になった。真紀は何も聞かなかった。真紀の優しさに甘え、私も何も言わず過ごした。そして放課後になると、航多は部活に行き、私は長谷川さんのお見舞いに行った。長谷川さんの病室からバス停が見えるらしく、バスが到着すると、少し窓を開けて手を振ってくれた。病室に入ると、まず本をもらって、感想を言う。そして学校の話をした。案外、長谷川さんは毒舌で、長谷川さんに憧れている黒木君をメッタ切りにした。そして長谷川さんの夕食前に別れ、病院のロビーで座り本を読んだ。病院は静かで心地よく本を読んでいると時間を忘れられた。そして、肩を優しく触れられ、顔を上げると航多が笑顔で私を見た。

「今日の長谷川さん調子よさそうだったね。」

「あぁ。」

私は本を閉じ、航多と一緒に家に帰った。そうやって毎日を平穏に繰り返した。

バレンタインが近づいたころ長谷川さんは、とてもそわそわしていた。

「今日はどうしたの?せわしないけど・・」

「だってもうすぐバレンタインでしょ。柚子ちゃん航多に手作りするの?」

「しないよ!普通に買ってあげるよ。」

「そうなんだ。」

「長谷川さんは何かしたいことあるの?」

「うん、時間もたくさんあるから、航多に手作りしたくて。」

「いいんじゃない。」

「実は今マフラー編んでるの?」

「すごい!」

長谷川さんは照れながら見せてくれた。濃紺のシンプルなマフラーだが、編み方を工夫しており手が込んでいた。

「航多に似合いそう。」

「私もそう思った。」

「自画自賛なの?」

「航多に内緒ね。」

「もちろん。」

毎日会う長谷川さんはとても元気に見える。純粋に嬉しく思った。長谷川さんと別れロビーで本を読んでいると声をかけられた。以前、長谷川さんに声をかけた看護師さんだった。

「花音ちゃんに会いに来たの。」

「はい、さっき別れました。」

「花音ちゃん、あなたが来るようになってから状態も安定してるのよ。」

「そうですか。良かった。」

丁度正面玄関から航多の入ってくる姿が見えた。航多は私に声をかけず長谷川さんの病室に向かった。看護師さんは、航多に気づき苦笑いをした。

「何かありましたか?」

「ううん、きっと今の人、花音ちゃんの彼氏よね。」

「はい、そうです。」

「花音ちゃん、彼氏が帰った後、いつも泣くんだよね。」

「えっ・・どうして。」

「今のは内緒ね。」

看護師さんはそのまま行ってしまった。長谷川さんにとって良いことをしていると思い込んで、結局長谷川さんを傷つけていたのかもしれない。いてもたってもいられず病院を出た。私は偽善者なのかもしれない。そう思うと長谷川さんに隠れて航多と会うのが怖くなり、そのまま家に帰った。

「柚子、入るぞ。」

航多が私の部屋のドアを開けた。

「なんで先に帰ったんだ。連絡もないから心配しただろう。」

「やっぱりさ・・・航多一人で長谷川さんのところに行った方がいいと思う。」

「急にどうした?なんかあったか?」

「私と航多が長谷川さんに隠れて会ってることを知ったら嫌だと思うし。」

「俺は柚子がいないと病院に行けない。俺には柚子が必要だ。」

航多が後ろから私を抱きしめた。懐かしい匂いに頭がくらくらする。でも私のものじゃない。目をギュッと閉じ、航多の手を抱きしめた。

「そうね、明日からも一緒に病院に行こう。」

航多が安堵したのが分かった。私は航多に笑顔を向ける。航多の顔を手で覆う。

「いつも隣にいる。大丈夫よ。」

航多はかがんで私にキスをした。私は笑顔ですべてを受け入れた。

バレンタイン当日の学校は文化祭に似た喧噪だった。学校では休み時間ごとに盛り上がりを見せ、昼休み休憩に入った。私はチョコを持って加瀬君の元に向かった。

加瀬君は私を見ると避けるように教室を出たが、真紀に捕まり教室に戻ってきた。

「今日くらい、柚子と話してよ。お願い。」

真紀のお願いには弱いらしく、加瀬君がうなだれた。

「加瀬君、友達になってくれてありがとう。」

加瀬君にチョコレートを差し出した。一瞬間があり、加瀬君はため息をつき受け取ってくれた。

「ありがとう。」

「ううん、こっちこそありがとう。」

「玉木が嫌な奴だったら良かったのに。そしたら俺・・・」

「やだ、泣いてるの?」

真紀の大声に、加瀬君は慌てて打ち消した。

「な訳ないだろう。玉木ごめん。俺‥お前に八つ当たりしてたんだ。」

「そうなの?」

「玉木は手を出せば助けてくれる奴がいるのにさ・・・それなのに裏切るなんて。」

「本当に最低だよね・・・」

「柚子なりに理由があるんでしょう?」

今まで一度も聞かなかった真紀が助け船を出してくれた。

「終わったら必ず話すから。待ってて欲しい。」

私の決意を二人は理解してくれた。加瀬君が味方でいてくれるありがたさが身に染みた。

放課後はいつも通り、長谷川さんの元へ行くため一人でバス停に向かった。バス停には、吉田君とその隣に小さく可愛らしい女の子が立っていた。私は目を伏せて後ろに並んだ。その小さく可愛らしい女の子は、綿あめみたいに甘く軽い言葉で吉田君と喋っていた。吉田君たちが後部座席に座ったので、つかさず一番前に座った。たまに聞こえる吉田君の相槌が懐かしく聞き入ってしまった。吉田君たちは先にバスを降りた。ドアの閉まった瞬間で安堵でため息が出た。何気なくサイドミラーで後方を見ると吉田君がじっと私を見ていた。私も振り返り吉田君を見つめた。

「吉田君、今までありがとう。」

ぽつりとつぶやいて、私は前を向いた。

病室を開けると、長谷川さんがいなかった。不安が襲い、慌てて病室を出てナースステーションに行った。長谷川さんの仲のいい看護師さんが来て私の手を握った。私が落ち着くまで何も言わず、ずっと隣にいてくれた。そこで私は、長谷川さんが無菌室に移動したことを知った。時間がないと言った長谷川さんの言葉を何度も頭の中で反芻した。面会を希望したが叶わなかった。長谷川さんが拒否したのだ。帰ることも出来ず、ロビーに行った。天窓から差し込む光を見て、長谷川さんとの違いを知った。私は、あの光が柔らかくて暖かくても外の寒さを知っている。長谷川さんは、透明な天井を見上げて想像することしかできない。私が長谷川さんに何かをしてあげられる時間はどのくらい残されてるんだろうか。長谷川さんが求めてるのは私ではないことくらいよく分かってる。だけど長谷川さんに会って話すのは私であることは確かだ。私は立ち上がり、もう一度ナースステーションに行った。看護師さんが困惑している様子は分かったが引き下がる気はなかった。少しだけならと看護師さんが無菌室に案内してくれた。ガラス越しから長谷川さんを見ると、長谷川さんは窓に目を向けたまま、私を見ようともしなかった。私はすぐ近くの受話器を取ったが長谷川さんは取らなかった。私はガラスを叩いた。大きな音に看護師さんが慌てて私を制止するが、それでもガラスを叩いた。長谷川さんが振り向いた。私はガラス越しに叫んだ。

「なによ、弱虫。」

声は届かないが、私の口の動きで長谷川さんは勘づき受話器を取った。

「うるさい。」

「長谷川さんが私と話をしたいと言ったんじゃない。」

「ほっといて。」

「いまさら何よ。私の事利用したくせに。」

「だったら何よ。」

「私が航多を呼ぶことを期待してたんでしょ?」

「そうよ、柚子ちゃんと話せば、航多と柚子ちゃんがくっつくことはないと思ったわ。私の計算違いだったみたいだけど。」

「どういう意味?」

「私に隠れて付き合ってるんでしょ!」

「付き合ってるのは、長谷川さんでしょ?私は、あなたの身代わりだもん。・・私は長谷川さんになりたい。長谷川さんは航多の中で永遠に愛されるじゃない。」

「私は柚子ちゃんになりたい。航多に触れて欲しいし、私も触れたい。航多の匂いの中で眠りたい・・・明日死んでもいいから航多に触れたい。」

涙で長谷川さんの顔が見えなかった。私はそのまま外に担ぎ出された。そのまま無菌病棟の扉が重い音を上げながら静かにしまった。私はただ床に座り込んで泣いた。

「柚子。」

航多が私の脇を抱え椅子に座らせた。

「どうした?花音そんなに悪いのか?」

「喧嘩したの。」

「大丈夫か?」

「私ひどいこと言った。」

「うん。俺も花音に会ってくる。」

「航多、行かないでって言ったらどうする。」

航多は困った顔をしたが、私の目を見て言った。

「花音に会ってくる。」

それが航多の答えだった。私が長谷川さんにかなう事は永遠にないことを知った。私は航多の一部だ。そして航多も私の一部だ。お互いを取り込んで離れられずにいるだけだ。好きと依存の違いに先に気づいたのは航多だった。

「私もう待たないよ。」

航多が振り返った。

「今までごめん、俺が弱いから巻き込んで。」

「ううん、私が航多の隣にいたかっただけ。」

「これからも隣にいてくれるか?」

「うん。だけどもう、長谷川さんの代わりはしない。」

「分かった。今までありがとう」

「先に帰るね。」

私は立ち上がった。思いのほか足が軽かった。そのまま振り向かず歩き続けた。航多の視線を感じたが、私はもうふりむかない。


それからの長谷川さんの付き合いは、お互いの力が抜けて和やかだった。一人で行くと決めたお見舞いも、時には加瀬君や真紀を誘って出かけた。加瀬君は最初はおっかなびっくりだったが、本来の長谷川さんを知ると、きのいいクラスメイトとして接した。無菌室では本を貸してあげられず、もっぱら私が読んだ本の感想を言うことが多かった。そして、私が今まで内に秘めて言えなかったことを長谷川さんに告白した。

「私ね、長谷川さんが初めて航多に会った日の事知ってるんだ。」

「本当?ずいぶん前だよ。」

「中学の時の陸上大会。」

「・・・見られてたのね。」

「だって航多をずっと見てたからね。」

「学校に復学したすぐの陸上大会の見学を楽しみにしてたの。あの雰囲気は学生って感じするでしょう。見るもの全てが楽しくてキョロキョロしてたら、航多と目が合って離せなくなった。」

「知ってる。航多もそうだったから。」

「私、あの時柚子ちゃんにも気づいてた。」

「そうなの?」

「だって航多の目が私からそれたのは柚子ちゃんが航多に声をかけたからだから。航多の大事な人だと一目でわかった。」

「私が大事?」

「そうだよ、大事にされてたじゃない。」

「うん、そうだった。」

「高校に入って、航多に会えて驚いた。運命だと思った。」

「うん。」

「でも隣に柚子ちゃんがいた。」

「うん。疎ましかったでしょう。」

「うん、だけど今は柚子ちゃんがいて良かったと思ってる。航多をもっと好きになれたのは柚子ちゃんのおかげだから。ありがとう。」

「私は、長谷川さんと会って良かったのか正直分からない。だけど今は航多といても苦しくない。」

「柚子ちゃん、正直すぎない?」

「ごめん。」

「私、ここを出られるように頑張る。何年かかるか分からないけど。」

「うん。」

「必ず航多の隣に並んでみせる。」

「うん。」

無菌室を出てロビーを通る。今日も天窓から光が差し込む。もし長谷川さんが外の冷たさを知りたかったら私が窓を壊してあげよう。正面玄関を見ると丁度、航多が中に入ってきた所だった。

「航多。」

「今帰り?」

「うん、また学校に戻らなきゃ。」

「忘れ物か?」

「先輩を送る会の準備をしようと思って。」

「あのやる気のない部活でか?」

「うるさいな。じゃあね。」

「おう、またな。」

またバスに乗り学校に戻った。図書室では飾りつけの準備をしていた。部員から花を作るように言われ花を作り始めた。

「花ですか?」

「うん、手伝ってくれない?」

吉田君は私の斜め前に座り、花を作り始めた。無心で花を作り始めると机の上が花だらけになった。花を上から押さえると、柔らかいながらも押し返してくる感覚がくすぐったくて自然と笑顔になった。

「こんな花なんて作るの小学生依頼ですよ。」

「そうだね、でも案外楽しいかも。」

「そうですね・・・柚子先輩。」

私が顔を上げると、吉田君がまぶしそうに私を見た。

「綺麗になりましたね。」

まさかの言葉に驚き、何個か花を落としてしまった。恥ずかしく、すぐに否定をしようと思ったが、吉田君のまっすぐの笑顔に応えようと思った。

「ありがとう。」

吉田君に微笑んだ。

「吉田君、本当にありがとう。」

「いえ、あと少し頑張りますか。」

「うん、頑張ろう。」

明日は、図書部のお別れ会だ。

放課後になると荷物を持ち図書室へ急いだ。昨日のうちに飾りつけも終わり、あとは先輩たちを待つばかりだ。寒いばかりだと思った季節も、少しずつ春の気配を感じる。窓に佇みぼうっとしていると吉田君が近づいてきた。

「寝不足ですか?」

「ううん、外を見ると春が近づいてきたなと思って。」

「もうすぐ卒業式もありますからね。」

「そう言えば、部長の進路は?」

「実は・・・」

吉田君の暗い顔に、これ以上聞かないほうがいいと悟った。

「部長たちの入場ですよ。」

小学生に毛の生えた飾りつけだが、部長は恐ろしく感動していた。終始涙ぐむ部長をみて、やって良かったなと心から思った。部長の周りには人が絶えず、なかなか近づけなかったが、途中からなんとなくグループができ、人が離れた瞬間、部長の元に駆け寄った。

「部長、お世話になりました。」

「いや・・俺なんか頼りない部長で、皆に支えられて・・・」

部長が盛大に泣き始めたので、ティッシュ箱を渡した。

「部長・・泣きすぎですよ。そんなに泣かれると話ができないじゃないですか?」

部長は鼻をかみ深呼吸をした。

「なんだ話って?俺に告白か?」

「・・そうですね告白します。」

部長は飲んでるジュースを盛大にまき散らした。

「何やってるんですか?汚いな。」

吉田君と二人で床のジュースを片付けた。部長は微動だにせず一点を見つめていた。

「玉木・・ごめん。俺には愛する彼女がいるんだ。」

下を向き真剣に話す部長が可愛らしく、そして笑ってはいけないと思うと笑いがこみ上げてきた。最初に噴き出したのは吉田君だ。それが引き金となり、私は声を上げて笑った。空気が読めない部長だけが困惑顔で私を見ていた。

「部長・・・すみません。部長が思っている告白と違う内容です。」

「なんだよ・・・びっくりさせんなよ。そうじゃないかと思ってたけどさ。」

「部長、残念そうですね。」

吉田君が茶化し、部長の顔は真っ赤だった。

「あの・・・大事な人に話が出来ましたか?」

私が聞くと、部長は笑顔で答えてくれた。

「あぁ、俺はできたぞ。」

「どうやったら勇気が出ましたか?」

「物事には必ず終わりが来る話ってしたよな。」

「はい。」

「それが分かれば自ずとできるよ。」

「そうですか・・・・」

「不満そうだな。」

「そんなことはないですけど。」

「何かそうだな、終わりを意識することがあれば、今を大事に生きようって思えるぞ。」

「はい。」

「卒業してもちょこちょこ来るから相談に乗ってやるぞ。」

部長の進路を考えると気持ちが暗くなり返事できなかった。

「俺さ、先生になりたいんだよ。だからいい先生になるために、しっかり勉強しようと思う。」

「部長ならいい先生になれますよ。まだ受験は続きますが頑張りましょうね。」

「受験?何を言ってんだ。俺は隣駅の国立に行くぞ。」

「えぇ・・だって吉田君が・・・」

吉田君は素知らぬ顔している。

「吉田君・・・騙したわね。」

「僕は何も言っていませんよ。勝手に柚子先輩が判断しただけですよ。」

「なにそれ。むかつく。」

「玉木・・ちょっといいか?」

担任の先生が静かに私に耳打ちした。胸がざわざわした。黙って先生の後について図書室を出た。先生が私に伝えた事実は、私の時間を止めるに充分だった。

「柚子先輩、病院に行きましょう。」

吉田君が私の鞄を持って図書室から出てきた。どうしていいか分からず立ち尽くす私の手を吉田君が引っ張った。私は吉田君に導かれるまま廊下を走り学校を出た。吉田君は大通りでタクシーを捕まえ、私を押し込んだ。吉田君の一つ一つの動作がとても綺麗で、吉田君の顔をじっと見つめた。吉田君は寂しく笑った。

「終わりを意識するんです。」

意味が分からず吉田君を見続けた。

「しっかりしろ!」

吉田君が急に大声を出した。私は大きく息を吸った。ずっと息をするのを忘れていたようで冷たい空気が体の隅々まで行き届いた。

「あなたは今から行くところがある。」

私は黙ってうなづいた。そして長谷川さんの待つ病院に向かった。無菌室まで一気に駆け上がると、航多と長谷川さんの両親がベンチに座わり、母親は憔悴しきっていた。その顔は私にとって恐怖でしかなかった。勝手に足が回れ右をして、この苦く重い空間から逃げ出そうとしていた。

「柚子。」

航多が静かに声をかけた。

「花音がお前に会いたがってる。」

その声に、長谷川さんの母親が顔を上げた。私は母親の顔が見れず、下を向き目を固く閉じた。

「あなたが柚子ちゃんね。」

私の肩に置かれたての温かさに顔を上げた。怖いと思った母親の顔は、まるで全てを包み込む月のようだった。

「花音が話があるらしいの。会ってやってくれる?」

私は深呼吸をした。終わりを意識してみる。こんなに早く意識するなんて思ってもみなかった。意識すれば何が変わる?分からない。

「柚子、ここで待ってるから。」

航多が私の背中を押した。一人で歩けないと思ったが一歩前に踏み出せた。その勢いで無菌室の中に入った。激しい咳込みとたどたどしい息遣いで、長谷川さんの症状は重いことを知った。受話器を取ろうとすると、看護師さんが首を横に振った。

「今日は大丈夫だから。」

私は、看護師さんにされるがまま、長谷川さんの近くに行った。ガラス越しじゃない長谷川さんは、もう透明になるのを今か今かと待っているようだった。私は咳込む長谷川さんの手を握った。今にも壊れそうな長谷川さんの手を放すまいと両手で包み込んだ。長谷川さんは目を開け、私に微笑んだ。何か話してくれようとしているが、それはただの吐息に変わった。私は震える声で長谷川さんに話しかけた。

「今日、部活の送別会だったの。」

長谷川さんの目に輝きが戻り、しっかり私を見た。

「尊敬している部長がいてね、色々話したの。物事には必ず終わりが来るって。終わりが来ることを意識しなさいって言われたんだ。意識したら何が変わるかよく分からない・・今も分からない。ただね。」

長谷川さんが私の頬に触れた。私は泣いていた。私も長谷川さんの頬に触れた。

「私は、長谷川花音が好き。」

長谷川さんは笑顔で私にうなづいた。その後はいまだに記憶がない。いつの間にか無菌室の外に出され、航多に寄りかかるようベンチに座っていた。航多は何もしゃべらなかった。ただ私は、航多の温かさを感じながら生きていることを実感した。

その夜、長谷川さんは旅立った。

私は次の日から学校に行けなくなった。

部屋から出ず、ずっとベッドに横たわったままだった。母は何も言わず、食事を部屋の前に置いていってくれた。航多は部活の後必ず声をかけに来てくれたが、私は会いたくなかった。長谷川さんは最後に何を伝えたかったんだろうか。その想いが頭から離れずに私を外に出さない。

「私に何を伝えたかったの・・?」

問いかけてみても何も変わらず、ただ時間が流れていった。春休みに入ったのだろうか、午前中に真紀と加瀬君が訪ねてきた。真紀は部屋に入るなり、カーテンを開け、窓を開けた。加瀬君は黙ってベッドから私を引き上げ椅子に座らせた。正直うっとおしかった。放っておいて欲しいと思ったが口にするのも面倒で、憮然とした顔のまま二人を睨みつけた。

「柚子、長谷川さんに会いに行くよ。」

「行かない。」

「このままずっとこうしているのか?」

「加瀬君に関係ない。」

「本当にそう思うのか。」

私は言葉に詰まった。

「長谷川だって、お前のこんな姿望んでないぞ。」

「分かったふりにして・・・」

私は涙があふれるのも止めず加瀬君を睨みつけた。

「加瀬君が言ったんじゃない。どう思うか本人が決めるって。だったら、長谷川さんがどう思うか長谷川さんが決める事でしょ。」

「・・もう長谷川さんはいないじゃない・・」

真紀の抑揚のない言葉は、もう長谷川さんに会えないことを正確に私に知らしめた。

「友達なんかじゃなかった。なのにどうしてこんなに苦しいの。寝ても冷めても長谷川さんが頭から離れないのよ。」

真紀が私にティシュ箱を渡してくれた。

「長谷川さんなんか知らなきゃよかった。」

絞り出した言葉がそれだった。一度出てしまった言葉は取り返せない。ひどいことを言ってると分かってる。だけど長谷川さんの温かさ、優しさが今はナイフのように私を切り刻む。

「だったら長谷川に言えばいいじゃないか。」

加瀬君は机をこぶしで叩いた。

「ここで幾ら言ったって何も届かないぞ。」

「じゃ、加瀬君は言えるわけ?大事な人に自分の気持ち伝えられるの?」

加瀬君は押し黙った。

「帰る。」

加瀬君は部屋から出ていき、少しして玄関の閉まる音が聞こえた。

「柚子、今の言い方あんまりじゃない?」

真紀も部屋を出ようとした。

「そうだった。先生からの伝言。学校にある長谷川さんの荷物を取りに来てほしいんだって。」

「なんで私が?」

「長谷川さんのお母さんがそうして欲しんだって。」

真紀も帰ってしまい、さっきと同じような静けさが戻った。さっきと違うのは窓から春の甘い匂いが流れ込んできた。もう春はここまで来ていた。窓の近くに立ち、目を閉じて大きく息を吸い込んだ。目を開けると、桜のつぼみを見ることができた。そして家の前には吉田君が立っていた。私は吉田君を見下ろした。吉田君も私の視線に気づき顔を上げた。

「柚子先輩、春が来てますよ。」

返事もせず、そのまま吉田君を見つめた。

「今だけ特別に僕にすがりついてもいいですよ。出てきてください。」

完全に吉田君のペースにのまれ、着替えて外に出た。

「じゃ、学校に行きましょう。」

吉田君が颯爽と歩き始めた。つられて私も吉田君の後ろを歩き始めた。

「いい天気ですね。部長は隣駅のくせに一人暮らしをするんですって。」

「そう。」

「良かった。もう声が出なくなったのかと思いました。部長との最後の話覚えてますか?」

吉田君は後ろに振り向き立ち止った。私はうなずいた。

「終わりを意識するって意味分かりました?」

私は首を振った。

「僕も考えてみました。色々なこと・・・例えば柚子先輩と僕の関係とか。そうしたらわかったことがありました。」

「答えはあったの?」

「はい、今の気持ちです。終わりがあるから今の自分や生活を大事にする。僕たちは若くて傲慢で、永遠に今のまま続くと勘違いしてしまう。だから時間を無駄に使ってしまうんです。もう今日と言う日は帰ってこないのに。」

「今の時間・・・ずっと昔に長谷川さんに聞いた気がする。あの時の長谷川さんは私に今の気持ちを伝えたかったのかな・・でも今となっては分からない。」

「こういう風に考えられませんか?長谷川先輩は何を聞きたかったのか。」

「私に聞きたいこと?」

「長谷川先輩は、柚子先輩の気持ちを聞きたかったんじゃないですか?」

あの時に私が伝えた言葉は・・まぎれもなく私の本心だ。私は下を向き目を硬く閉じた。嗚咽が漏れたが気にしなかった。私の想いは長谷川さんに届いてる。そう思えたら長谷川さんと向き合える気がした。

「吉田君・・・本当にありがとう。ここから一人で大丈夫。」

「そうですか残念。」

吉田君は大して残念がらずに言った。

「柚子先輩の周りにはいい仲間がたくさんいますね。」

「うん、もったいないくらい。」

「友達は自分を映す鏡だそうですよ。」

「ありがとう。行ってきます。」

吉田君と手を振って別れ学校に向かった。グランドを通ると航多が一人でグランドを走っていた。私は航多の走る姿が好きだ。遠い先を一点に見つめ綺麗なフォームで同じペースで走る。私は近くのベンチに座り、航多を眺めた。航多と一瞬目が合ったが、止まることはなく淡々と走り続けた。よし、一歩踏み出そう。私は立ち上がり校舎の中へと入った。

先生から受け取ったのは小さな段ボール一つだけだった。長谷川さん宅までの地図を書いてもらい外に出た。春だと思った季節には少し早く、もう薄暗くなっていた。グランドに明かりがつき、走る航多と照らした。

段ボールを抱えたまま、航多を見つめると、航多は私の元へ駆け寄ってきた。

「元気か?」

「うん。」

「花音に会いに行くのか?」

「うん。」

「俺も行くよ。」

「いや・・私一人で行く。」

「もう暗いし、一緒に行こう。」

「ううん、女同士の話もあるから。」

「分かった。ただ暗いから送っていくぞ。着替えるから待ってて。」

私は航多を待った。昔はそれが当たり前だと思っていた。それが長谷川さんに代わり、私から離れた。時間を超えてまた同じ生活に戻った気がした。ううん、あの時とは違う。私と航多は長谷川さんに出会ってしまった。生きることを苦しくさせる位大切な人に。

「じゃ、行くか。」

「もうすぐ大会でもあるの?」

「いや・・」

「なんで毎日走ってるの。」

「走ることが好きだから。」

「私も航多の走る姿が好き。」

「いつもそう言ってくれてたよな。そのおかげで今も頑張れる。」

「うん。」

長谷川さんの家は学校から近くあっという間についた。チャイムを押す手が震えているのを航多は見逃さなかった。

「明日にするか?」

「ううん、今じゃないともうこの勇気は出ない気がする。」

震える手でチャイムを押すと、長谷川さんの母親が顔を出した。スッキリした顔で、あの時の顔と全く違って見えた。

「待ってたわ。上がって・・・航多君も一緒?」

「いえ、送ってもらっただけです。」

「そう。どうぞ。」

「大丈夫か?」

「うん。」

段ボールを持っていてよかった。何か持ってないと手の震えが止まらなかった。中に入ると祭壇があり、にっこりと笑う長谷川さんの写真が飾ってあった。

「もう納骨しなきゃいけないんだけどね・・・」

長谷川さんのお母さんが写真の前に座布団を用意してくれた。段ボールを脇に置き座った。

「長谷川さん・・・」

ぽつりと呟いた言葉に、お母さんが反応した。

「この写真、航多君が撮ってくれたのよ。」

「いい写真ですね。」

「うん、とても気に入ってる。花音が一生懸命生きていた証だわ。」

「あの・・これ」

段ボールをお母さんに渡した。

「ありがとう。面倒なこと頼んでしまってごめんなさいね。」

「いえ。」

「柚子ちゃんに聞きたいことがあったの。」

「なんですか?」

「いつから花音と友達だったの?なんでも話す子だったけど柚子ちゃんの話を聞いたことがなかったの。だけどあの子が亡くなる前に会いたい人は柚子ちゃんだった。」

「・・・友達じゃなかったです・・でも今は長谷川さんを想うと苦しくて、生きていくのがしんどいです・・・」

涙で前がにじんだ。長谷川さんのお母さんは優しく背中をなでてくれた。

「会えばお互い傷つけて・・・正直長谷川さんの事が嫌いでした・・・多分長谷川さんも。」

「そう。」

「だけど長谷川さんはいつも正しかった。長谷川さんになりたいって何度も思いました。」

「うん・・・」

「長谷川さんと話をするようになったのは、長谷川さんが入院してからです・・・長谷川さんが言ったんです。私たち似てるって・・私も似てると思いました。」

「そう。」

「長谷川さんに会いたいな・・・なんでもっと時間を大事にしなかったんだろう。なんでもっと・・・」

「あなたは正直で強い人ね。」

「私が?」

「そう、花音はあなたに会えたから、航多君に会うことができたんでしょうね。」

「そんなことないです。私がいない方が、もっと楽しかったと思います。」

「そんなことないわ。だって花音はあなたが大好きだったもの。あなたに会えて生きることが楽しかったと言っていたのよ・・だからお願い・・何かの折でいいから、あの子の事思い出して欲しいの。」

「私は、永遠に長谷川さんを忘れません。」

航多に必ず長谷川さんの影が潜んでいる。今度は私が感じる番だ。もしかしたら、長谷川さんは自分の生きた証として私を選んだのかもしれない。もう一度遺影を見る。長谷川さんは、何も言わず笑ってる。

「分かってるから。」

私は立ち上がった。

「お邪魔しました。」

「今日はありがとう。」

「こちらこそ、長谷川さんと話が出来て良かったです。」

外に出ると、冬の寒さだった。冬のコートを着て来なかった事を後悔した。

「柚子。」

いつもの声の先を探す。航多が優しく微笑んでいた。私は笑顔で航多の元に駆け寄った。

「話せたか?」

「うん。」

「じゃ、帰るか?」

「寒いから手をつないでいい?」

航多が驚いて私を見た。私は航多から目を離さなかった。航多は無言で右手を出し、私の手を握り自分のポケットに入れた。

「温かい・・・」

そのまま肩を並べて歩き出した。このぬくもりは私のものじゃない。それでもいい。ただ、このまま航多と過ごせば、長谷川さんの影に怯えて暮らすことになるだろう。航多は何を考えてるんだろう。航多の横顔を見つめた。航多が私の視線に気づきほほ笑んだ。

「航多。」

「なに?」

「私たちこれからどうなるの?」

「・・・柚子はどうしたい?」

「私が先に聞いたのよ。」

「・・・・よく分からない。ただ今は・・柚子に隣にいて欲しい。」

「今は・・・なんだ。」

「これからの事はまだ分からない。また誰かを好きになるかもしれない。」

航多の発言は無責任で、いつか壊れる関係を分かってて続けようとしている。私はどうだろう。自分に問いかけると思ったより傷ついていなかった。

「私も同じ気持ちよ。」

「良かった。」

航多は私の手を強く握った。

「だけど私はもう振り向かない。」

航多は私を見つめた。

「航多をもう待たないから。」

「・・・分かった。やっぱり柚子は強いな。俺をいとも簡単に追い抜かすんだから。」

「ねぇ、コンビニ寄らない。寒いうえにお腹まで空いちゃった。」

私は航多の手を振りほどき、コンビニまで走った。

「柚子。」

航多から発する私の名前はこの世で一番美しい。


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ふりむかない 山口 ことり @kotori_y

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