さよなら、満月

 星の静かな夜には、星の運動音と同じくらいのささやかな物語をいたしましょう。

 妖精屋の組合は星学を教える専門の大学の、裏手の路地をくねくね曲がった奥にありました。難しい決まりなどはないのですが、妖精の生命は月と星の運行にも影響されるものですから大学に教えを乞うことはありますし、妖精を都合することもございます。

 星の大学ですから観測のために真夜中まで学生たちがたむろしています。星が見えづらくなりますから地上の明かりはひっそりと控えめで、分厚い黒布が営業中の食堂や貸本屋や望遠鏡の微細な調整をするレンズ屋などの窓や入口に垂らされておりました。

 営業中を示すのはそれぞれの店先に掲げられた飾り看板です。それらがくるくると風も無いのに回っていれば中に人がいるという目印なのでした。

 星学の町はいつも静かな夜のとばりの底にあります。時々は酔っ払った学生の歌う調子外れの歌や食堂のさざめきが風にのって流れて参りますが、この夜は普段よりにぎやかでした。今夜は満月でしたから、星は見えづらいのです――学生たちにも教授陣も、一区切りとなる夜でした。

 組合事務所では一人の男が書類の整理をしておりました。くすんだ赤毛の中年男です。男の走らせるペンの音はカリカリと紙をひっかいて、足元で寝ている黄色い犬がたまに大きなあくびをいたします。つまり普段通りの夜でした。

 組合の妖精屋たちははいろいろな場所へ行って好きなように商売をしています。彼らは基本的に自由なのです。組合も細かな命令はいたしません。値段の統一だとか仕様の画一だといったことは妖精を扱う以上、もとより無理なことでもありました。

 けれど組合は事実として存在します。彼らは自由で独立した商売人たちですが、時々は旅の途中で見つけた妖魔や妖精の巣のありかを教えてきたり、自分の手元にない妖精の卵を買取りたいと打診してきたりいたします。組合はそれらを仲介なかだちしたり、該当の地域にいるらしい妖精屋には連絡を取ってやったり、大型の商売がありそうな買主を紹介したり、――組合の役割は広くてやわらかなもうなのでした。

 クゥア……と犬がまた欠伸をしました。目の焦点がぼんやりとしていることと脂が抜けてパサパサした体毛で、老犬であることは一目で分かりました。

 男が立ち上がり、犬を簡単に撫でてやってから書簡受けに溜まっていた手紙を取り出します。依頼なども舞い込んできますから、これは毎日の仕事でした。カサカサと紙を広げる音がしばらく静寂しじまに響きます。

 今すぐの返事でなくて良いものを仕分け、男は最後に残った小さな包みの差出人の名に首をかしげました。

 宛名は組合の妖精屋ですが、組合所属の妖精屋に来ているものは誰でも開けてよいのが決まりです。男はためらいなく包みをほどきました。

 中は手紙と、そして星図と運行の予測図でした。よくよく日付を見ればどうやら二年先の予測書です。運行の予測は星学博士たちの手業でしたし、学生はその手伝いをいたします。星学を修める教授たちと若者たちの町で、これらは至極あたりまえの品々でした。

 ただし、二年後は多少先ともいえました。年間予測は大学も出しておりますが、非常にざっくりとした枠組みの告知程度のものです。ほんの少し星々の衝突が早かったりするだけでも、響き合った星の光はお互いに干渉し、先行きを大きく変えてしまいます。先の予測はとても難しいものですし、一年先の予測でも大変緻密な計算と非常に大胆な判断の両方が要求されるのです。

 男はついていた手紙の方へ目をやりました。

『親愛なる師、偉大な竜使い様』

 そう宛名書き出されている手紙に男は唇をゆるめて笑いました。妖精を連れて流れている妖精屋は沢山おりますが、竜を連れている者はただ一人でした。まだ若い――竜の寿命からいえば子供と呼んでもいいような幼年の黒竜は、確かにたいへん珍しいものでありました。

『僕のことを覚えていて下さっていればいいなと思いながら手紙を書いています。既にお聞き及びとは思いますが、結論から申し上げますと僕はどうにか目的を果たすことができました。イェル殿の働きと師のお口添えがありましてのこと、何とお礼を申し上げてよいか分かりませんが深く深く感謝しております。本当にありがとうございます――』

 男がふうんとうなずいたとき、足元の犬がくしゅんと鼻を鳴らしました。男は手紙を机の上に置き、犬の側に寄り添って背を撫でてやります。

 手紙をよこした学生のことを男はようやく思い出しました。確か去年の夏、ここから遥か遠いエルラクの、さらに奥の村へ今すぐ行きたいと駆け込んできた癖毛の学生がいたのです。

 学生の名前は思い出せません。あまり交流のない異国の言葉はすんなり覚えるには難しすぎるのです。けれど駆け込んできたときの青ざめきった血の気の薄い頬と、話す言葉が時折癇性に震えて聞き取りづらかったことは記憶の底から甦って参りました。

 男はほんのりと笑いました。感情が乱れきったあまりに支離滅裂だった学生のあの夏の夜を思い出すにつけ、手紙の落ち着いた文体は安堵を連れてくるものでありました。



 流星が夜空をよぎって消えました。ヤルツは角度計を覗き込みながら三十二度、と言いました。

 後ろではヤルツのつぶやきを書き留めるリダが、聞き逃さないように全身で構えているのが気配で分かります。

「三十二、……四十一、四十五、……」

 ヤルツの言葉とリダのペンの音だけが、静かに夜に沈みます。しばらく二人はそれを続け、角度が百八十へ届いたところでようやく止めました。リダから書き留めた紙束を受け取って、ヤルツは鞄にしまい込みます。これは明日の昼にでも明るい場所で中身を確認し、大学へ送らねばならないものでした。

「先輩、熱いから気をつけてください」

 リダが小さな湯沸かしでフワ茶を淹れて、折りたたみ出来るカンタ編みのコップで差し出しました。ヤルツはうんと受け取って星を見上げます。観測は正確に全てを書き留めることから始まる根気の要る作業ですが、一仕事終えたあとの弛緩はこの夜の紺闇のようなやわらかさでした。

 隣に座ったリダが同じように星を見上げます。ヤルツもじっと空を見ています。研修期に入った天文学生にとって、休憩も仕事も、全ては星の下でした。

「今夜は少なかったですね」

 リダがしみじみとつぶやきました。この日の流星は全部で二十二でした。これは緯度と季節でおおまか決まる平均よりも六、少ない数字でした。

 これが何を意味するかを天文学生は考えます。けれど計算を繰り返して結論を出すのは教授の仕事です。つまるところ、自分が観測して送った数字を教授がどのような式でどのように処理するかを知るのもまた勉学でした。

「そうですね。少ない――少なすぎるということはないんでしょうが……」

 返答しながらヤルツは爪を噛みました。昔から、没頭しているときはその癖が出るのです。

 これ以上はまともな会話にならないことをリダはとうに理解しておりました。カンタ編みのコップを両手で包み、ふうふうと吹き冷ましながら茶を楽しむことにいたします。この癖毛の先輩はいじわるでも馬鹿でもないのはいいけど、ちょっとなんでも夢中になりすぎるわ――などと考えながら茶を啜っていると、ヤルツが突然「わっ」と叫んで飛び上がりました。どうやらぼんやりしている間に茶を落としたようでした。

 ヤルツが慌てて天文学生の紺のコートを脱いで、膝のあたりをぱんぱん叩きます。リダは自分の鞄から急いで端布を取り出して、ヤルツの鞄に飛んだ茶を拭きました。中には書き留めた今週分の観測の記録が入っています。明後日にはどこかの小さな村にでも到着するでしょうから、そこから大学に送付するはずのものでした。

「先輩、書類、全部出しちゃいますね」

 ひと声かけてリダはヤルツの鞄をひっくり返しました。

 記録、手帳、地図、筆記具、角度計、星図、星見尺。天文学生特有の持ち物がどぼん! とこぼれ、それらを手早く確認してリダは濡れていないところへ並べました。とにかく記録が濡れて読めなくなってしまうのだけはいけません。

 なくし物が出ないようにひとつずつ並べていると、手紙がひとつありました。宛名書きには不思議なことが書いてあります――『親愛なる師、偉大な竜使い様』。

 リダは星明かりの下で目をぱちくりしました。竜を知らないわけではありませんが、竜を使う人間というのは想像がとてもしづらかったのです。

「ああ、それは去年世話になった方なんです」

 ヤルツの声がしてリダは振り向きました。個人の内心を覗いてしまったような居心地の悪さにリダは「あの……ごめんなさい」そんなことを小さく言いました。

 ヤルツは優しく笑ったようでした。月がないこの夜に明かりは星のものだけで、表情はとても見えづらいものでした。

「いいんです。誰かに知られて困るという話じゃない。世話になった方にお礼が言いたくて、観測しながら書いていただけですよ」

 そっとヤルツがリダの手から手紙を抜き取り、自分でも良く見えないのでしょう星明かりにすかすように手紙を空へかかげました。水滴がないのを確認し、懐にしまいます。

 リダはもう一度ごめんなさいと言いました。ヤルツが何かに夢中になると他のことが何も入らなくなるのは知っていたはずなのに、熱々の茶は渡すべきでは無かったと思います。

 しゅんとうなだれたリダの頭を、ヤルツがぽんぽんと軽く叩きました。

「僕のほうこそ気を遣わせてすみません。山の夜は冷えますし、熱いお茶はとてもおいしい。君は何も気にしなくていいんですよ――ほら、これも無事でした。明後日には山向こうの町へ到着するはずですから出してしまいますね」

 さきほどの手紙をひらりと振って、ヤルツはそれを懐へ入れました。

 野宿のときはいつも出来るだけ平らな所を選び、獣や妖魔の目を逃れるための糸式術で結界枠を書いてその内側で横になります。一度は目を閉じたリダは、ほどなく目を開けました。何となく寝付けなかったのです。

 目を開けるとヤルツはリダと同じように寝袋で転がったまま、ぼんやりと星を見ていました。優秀な天文学生はいつでも星のことを考えているのだとリダは思います。なら私は優秀な天文学生じゃないんだわ、と考えてみて、顔をぎゅっと渋く歪めます。

 リダはどうして天文学生になろうと思ったのかもよく思い出せませんでした。ただ気付いたら膨大な計算の中におり、流されるままヤルツと共に観測の旅に出てきた――それだけでした。

 この旅は好きだからいいんだけど……

 リダは何のためなのかも分からないため息をそっとこぼしました。

「……眠れませんか?」

 小さな声がしました。ヤルツがまっすぐにリダを見て、優しく笑いました。急にどぎまぎしてリダは「いえ、あの」と何かの言い訳を探し、何となく手紙のことを口にしました。

「竜使いってどうやってなるのかなって思って……」

 口にしてからあまりに幼稚な質問だった気がしてリダはぱっと赤面しました。この頬に集まった血熱がヤルツに見えてしまわないかが、ひどく気になりました。

 ヤルツはリダを笑いませんでした。この学生は何事も真面目で真正面でした。

「竜使いと書きはしましたが、本業は妖精屋なんですよ。妖精の卵を商っているのを見たことはあるでしょう?」

 あります、とリダは素直な返事をしました。

 妖精は卵から生まれてくるのを知らない者はいませんが卵の大きさや色柄と、生まれてくる妖精の種類は全くばらばらで、かえしてみるまでは分からないものでした。

 それにどうやってか予測をつけ、売っているのが妖精屋です。小さな村では滅多に見ないものですが、賑やかな街や大きな城市の片隅には彼らがひっそりと店棚を開いているのでした。

「竜だって妖精です。彼らの最上位種ではありますが……」

 ヤルツが何か思い出したらしく、鳩のようにひっそり笑いました。

「君が眠れないのなら、偉大なる竜使いとその従者の竜の話をしましょう。思い出の地にここは近い。僕にも少しばかり思い出話があるんです」

 ヤルツの個人的な話は初めてのことでした。リダは「はい!」と勢い良く返事をし、ほんの少しだけ、ヤルツの近くへにじり寄りました。



 ヤルツは辺境国と言われるいくつかの小さな国が寄り集まっている地域の出身でした。険しい山々の岩肌にへばりつくように村があり、みな山羊や羊や牛を飼っていて、それらから生み出される肉や加工食品や羊毛で生計を整えるような場所です。

 子供のころは犬と共に羊を操り、少年時代は星を眺めながら山羊に埋もれて眠りました。動物たちのあたたかな身体とやさしい匂いはいつもヤルツの側にありました。

 星学に初めて触れたのは、十三を迎えた頃でした。そろそろ覚えたほうがいいだろうという話になって、自分で作った山羊乳の塩チーズと丁寧に洗って梳いた羊毛を背負い、ヤルツは街へ下りました。組合や取引の市場に一通り挨拶し、父親と村への帰途へつこうとしていたときに天文学生に声をかけられたのです。

 学生は星の観測をするためにもう少し高度のある場所へ行きたいと言い、そちらの村へ一緒に連れて行ってほしいと頼み込みました。

 村はあまりに小さくて宿などもなかったのですが、ヤルツの父親は自分の家に泊めてやることにしました。その代わりヤルツに星字せいじの読み方を教えてやってほしい、というのが条件でした。

 というのは、天体の運行予測書は星字で書かれているのです。星字は星や月の動きを分かりやすくするために作られた一種の記号と記号の組み合わせによって表現される記述語ですが、これが読めますと天候の予測がしやすかったり、天体の異常に気づきやすくなったりします。

 自然と共に生きている山の者たちは自然を読み解く力を経験と先人の教えで培いつちかますが、星字が読めるようになれば運行予測書からもっと先――一年先や数年先までを見通して備えが出来るだろうとヤルツの父親は考えたようでした。

 星の観測ですから天文学生は真夜中に起きては山をゆっくり登り、紺の闇が淡い黎明に変わるころに下りてきます。それから昼頃までは眠っていて、起きて食事をして観測記録を整理してから仮眠をとって、また夜更けに山を登るという生活でした。

 ヤルツに星字を教えながら、学生は星の読み方や妖精という不思議な生き物たちや宇宙や森羅万象の話をしました。それらは見たこともないおとぎ話のような物語で、ヤルツはあっという間に夢中になりました。

 昼も夜も天文学生にひっついているヤルツに父親は渋い顔をしていましたが、星字を教えてやってくれと頼んだのは自分でしたから、強く言えないでおりました。

 学生は一夏を村で過ごし、冬になる前に村から町へ下りてゆきました。最後の夜の観察に同行して今まで教えてもらった星の運行や星図との照らし合わせをヤルツが披露すると学生は大変良く出来たと喜び、ヤルツに小さな星見尺をくれました。

 角度の合わせ方や目盛りの読み方を教えながら、学生は山の斜面の草褥に腰掛けてヤルツの村をじっと見下ろしました。

「どうしたの、先生」

 ヤルツが怪訝な声を出すと、学生は難しげなため息をついて言いました。

「これは当たるかもしれないし外れるかもしれない、ちょっと自信が無い話なんだが」

 学生がまっすぐに天頂の赤い星を指差します。

「あの星はね、もうすぐ死ぬはずなんだ」

「星が? 死ぬの?」

 ヤルツがびっくりして聞き返しますと、学生はそうだねと少し笑ってヤルツのふわふわした癖毛を撫でました。

「星だって生き物だ。この世の全てはいのちなんだよ。いのちだから死ぬことだってある」

 全てはいのちだという言葉はヤルツの胸に、星の光よりもまっすぐに入ってきました。いのち、と繰り返したヤルツに学生はそうだと微笑んで続けました。

「一つの星が死ぬときに、まわりの星にかけらがぶつかったり強い風を作ったりして、星の運行や配置が乱れることがあるんだ。星の雫の祭のときにはもっと沢山動くから却って干渉し合って影響が少ないのだけど――」

 学生は赤い星を見上げ、それから村を見下ろしました。村はひっそりと深夜の中に埋もれ、静かに眠っていました。

「この村は山の谷だよね。平らな場所があのあたりしかなかったからだろうけど……あの赤い星の角度が二十五度に来たら星の終わりだ。数日中に爆発してまわりの星にぶつかって、かけらは雫になって降ってきて、それから引力がこのあたりの山々を引っこ抜こうとして大きな地震がくる……かも、しれない」

 学生は僅かに声をひそめました。

「山が揺れれば溜まっている雪が落ちてきて、すさまじい水になる。あの村の辺りは山々の隙間にある陥没した谷だから、水が大量に流れてきたら村の辺りに溜まってしまう……かも」

 自信はないのけどねと学生はくり返し、それから首をひねりました。

「でも、用心しておくほうがいい。忘れてはいけないよ。二十五度だ」

 ヤルツは少し置いてうなずきました。まさかと冗談めかして笑い飛ばしてしまうには、学生の声も表情も真剣だったからです。

 学生が帰ったあともヤルツは彼が置いていってくれた星図や書き置きをみながら一人で勉強を続けました。赤い星が死ぬとき、という言葉はいつも胸の何処かに刺さったままでした。

 十六を過ぎると幼なじみたちが次々と所帯を持っていきましたが、ヤルツは結婚する気はありませんでした。それどころか星学をきちんと修めたいと言い出して両親と派手な喧嘩をし、結局村を飛び出したのが十七の誕生日の直前です。

 真夜中の見送りに来たのは幼なじみの少女が一人だけでした。彼女にだけは自分が村を出て行くこと、おそらく戻ってこないことを言わなくてはいけませんでした。小さく狭い社会では、生まれてしばらくすると何となく結婚相手というのが見繕われているものなのです。

 少女はほっそりした腕とやわらかな栗色の髪を持っていて、ヤルツの癖毛を『鳥の巣』とからかわないたった一人でした。

 ヤルツの頬にそっとくちづけを贈り、少女は懸命に微笑もうとしていました。

「元気でね。向こうについたら何か送って。その……髪飾りとか」

 どんなのがいいのとヤルツは聞きませんでした。どうしても髪飾りが欲しいはずはありませんでした。欲しいのは思い出のよすがで、ヤルツだって同じ気持ちだったのです。

 わかった、と簡単に返してヤルツは少女の頬に同じようなくちづけをし、村を出ました。

 それから数年はまるで流星の尾のようにあっという間に流れて消えました。学ぶことはたくさんありましたし、初めての学校も学友も学生街も飲んだ末の議論も口論も、全部が新鮮でヤルツはとにかく楽しかったのです。

 故郷への手紙は届いているのか分かりませんでした。自分は飛び出していった者ですから、もしかしたら届いているけど捨てられているかもしれません。だから手紙がひとつも戻らない寂しさをヤルツは星を追いかけて没頭することで忘れようとしましたし、それは大まか成功していたのでした。

 ……ふと見上げた空に、赤い星が輝いているのを見つけるまでは。

 まわりの空気がキンと凍りつき、心臓がギュッと縮みあがりました。

 震える手でヤルツは角度計を取り出しました。あの日の天文学生の言葉がまるきりのでたらめや冗談などではないことを、もう十分にヤルツは理解していたのでした。

 角度計を覗き込みます。角度は五十四度です。けれど故郷の村とカント城市では緯度にかなりの差があって、差分修正はしなくてはいけません。

 星見尺の目盛りをせわしく動かし、ヤルツは故郷の村で見上げるときの角度を計算します。

 ――二十四度。ヤルツは呼吸をとめました。手から星見尺が転げ落ちます。

 慌ててそれを拾い上げてもう一度丁寧に計算し直しますが、結果は変わりませんでした。

 ヤルツが駆け込んだのは大学でした。事情を説明して教授会でも計算と予測を取ってもらいましたが結果はやはり同じです。

 星の終わり。いのちが消えるときには山が揺れて雪が落ち、水が流れる――

 ヤルツは必死でした。故郷の村は追われたわけではありません。ただやりたいことがあるからと飛び出してきただけなのです。家族のことも心配でしたしそれに何より――……

 カント城市からエルラクは、と表現できるほど遠くでした。街から街へつないでいく伝書鳥も早馬も、どんなに早くても一月ひとつきはかかります。あとは妖精同士の伝信や魔法使いの遠隔移動なのですが、妖精同士の通信は議会の承認がおりませんでした。エルラクとカント城市はあまりに遠い場所にあり、利害関係がまったく無いのに金をくれ妖精を貸せというのは道理がない、と一蹴されてしまったのです。

 大学の教授たちも学生たちも応援してくれましたが、運動が実って予算がおりたとしても来年だと言われたら、他の手段を探すしかありません。

 魔法使いも当たってみましたが、とにかく高額でした。魔法使いたちにも独特の組合がありますが大変な距離の移動ですから一度では済まない、数度重ねないと渡りきらない、と言われると納得するしかありませんでした。

 ヤルツが最後に駆け込んだのは、妖精屋の組合でした。

 夜の遅い学生街にあわせ、組合も遅くまで誰かがいるようでした。入口の飾り看板がくるくると音も無く回っています。黒い幕をくぐって中に入ると中年男が二人、難しい顔で書類の整理をしているところでした。

「やあ学生さん。ここは店では無くて組合だが、妖精屋に何かご用かね?」

 片方が愛想良く笑い、もう片方も同じような表情でヤルツを見ます。

 赤い星のこと、角度があと一度の傾き――おそらくは六日程度しか猶予がないこと、そして議会からは断られたことを勢い込んで話しますと、男たちは顔を見合わせました。

「落ち着きな、学生さん。今日は幸いにしてここに妖精屋がいる。妖精のご入用ならこいつが聞くぜ。なぁ、ヴァル?」

 最初に話しかけてきた男がもう片方を顎で示しました。その男が妖精屋なのでしょう。

「流星よりも早く飛ぶ鳥か、遠くの片割れへ同じ言葉を伝える伝鳥を都合して欲しいのです」

 ヤルツの言葉に妖精屋のほうが眉根をよせて、あのな、と優しく言いました。

「遠くの相手と鳥を通じて言葉を交わすってのは出来なくはないんだがね、同じ巣で同じ種類の妖精鳥をうまく育ててやらんといけないし、それに一羽ずつを持っていないとどうしようもない。お前さんの話が緊急なのは分かったが、だとしたら到底間に合わない」

 ヤルツはでも、と食い下がります。赤い星は望遠鏡で眺めますと表面にかすかなさざなみが見えるようになっていました。それは星のいのちの最後の輝きでした。

「なら、天馬をお借りできないですか。十日間ほどで大丈夫ですから……」

「なるほど天馬か。だがな、天馬というのは一日乗ったら二日は休ませてやらないと動けない。休み無しに飛び続ければ、そりゃ距離だけの話なら五日ほどであっちに到着するんだろうが、そもそも着く前に死んぢまう。んなこたァ絶対にだめだ、分かるだろう学生さん?」

 妖精屋がしみじみとした声を出し、ヤルツは首を振りました。

「お願いします、どうか、どうか助けてください」

 深く腰を折りますと、組合の男のほうがニヤっと笑い、妖精屋と共に不思議な手業をいたしました。それは妖精屋が時々使う、手話の一種でした。何かの数字をすさまじい勢いで叩いているのは分かるのですが、それがどんな意味なのかはよくわかりません。

 けれどそれが一段落ついた頃、妖精屋が奥の部屋に向かって

「おい、イェル!」

と怒鳴りました。

 ほんの少しの時間を置いてのっそりと出て来たのは体格のいい黒銀混じりの狼でした。返事のつもりなのか大きな口をかぱりと開けて、これみよがしに欠伸をいたします。

「さっきから実に騒々しいですね。私は慣れない労働で疲れ果てているんですから少しは休ませていただかないと困るんですが」

 どこからか若い男の声がしました。ヤルツがぎょっと狼を見ると、狼はふンッと鼻を鳴らして顔をそらし、妖精屋の足元にうずくまりました。

「イェル、この学生さんを北西のエルラクって国の、更に北の村まで送ってやんな。お前なら三日で北の果てまで飛べるだろ」

 妖精屋の言葉にイェルと呼ばれた狼はピクピクと耳を動かして、鼻面を自分の肩に埋めるように丸くなりました。気に入らないという仕草なのでしょう。イェル、と妖精屋が低い声を出します。イェルはようやく顔を上げ、不満たらたらという声で答えました。

「私に荷運び驢馬ろばの真似をしろと? 正気を疑いますね、我が主テア・ミスト

「ああそうかい、俺はお前がこさえた借金で正気を失いそうなんだぜ、知ってるか?」

 狼が喉の奥でくぐもった呻きをもらし、プイと横を向きました。これはどうやら妖精屋が遙かに有利な勝負のようでした。

 妖精屋が苦笑をし、新しい紙片に数字を書き入れました。これが請求額でした。魔法使いの組合で伝えられた金額よりもほんの僅かに安いだけで、ヤルツはごくりと息を飲みました。それは到底払える金額ではありませんでした。

 ヤルツが青ざめきって黙り込んだのを、二人の男は朗らかに笑いました。揶揄の気配はまるでなく、どこかゆるやかな許容の空気さえありました。組合の男がヤルツを手招きし、紙片の金額にサッと二本の線を引いて最初の額の四分の一ほどの数字を書き直します。

「エルラクにも妖精屋はいるといえばいるんだがやりとりが面倒でね、なにせ遠いもんだから。事務所の開設の話は何年も前からあるんだが、それにはまず書類の取扱の覚え書きだとか組合の魔法封だとかの道具を送ってやらなくちゃいけないし、事務員だって要る。準備はこれからなんだが、まず伝鳥を連れて行ってくれんかね。その報酬をさっぴいて、請求額は更におおまけにまけてその額だ――どうだい」

「ほ、本当ですか、あの、ぜひ!」

 ヤルツは請求書の紙片を掴みました。それは知人という知人に金策を頼んで回れば何とかなる額でした。大学でも赤い星のことは話題になっていますから、講義が終わって片付けをするヤルツの席にクシャクシャの食堂切符(一食おごってやるからそっちへ回せという程度の意味かと思われました)や、いくばくかの銅貨を置いていく学生もおりました。

「いつまでに?」

 支払いの期限を確認すると、男たちはさっと顔を見合わせてさきほどまでひっくり返していた書類の中から何かの請求書を確認し「とりあえず半額、月末までに」妖精屋が言いました。

「わかりました、それで結構です」

 いいながらヤルツは素早く請求書に引き受けの署名を書き、二人の男に促されるままパンと手を打ちました。取引が成立したときのまじないのようなものだと組合の男が笑い、ヤルツはようやく、ほんの少しだけ笑いました。

「――ちょっと待ってください、我が主テア・ミスト

 床に伏せた黒銀狼だけが不機嫌でした。しきりと「天馬なんかと一緒にしないでいただけませんか」と文句を言っておりますが、妖精屋が狼に

「畑の土をほっくり返す仕事がそんなに好きだとは思わなかったぜ」

と言いますとなんとも言えない唸り声を上げてまた丸くなりました。

「……だって、私は焼き払うつもりなんてこれっぽっちもなかったんです。本当ですよ、星の海と生命の源に誓って真実、本当に。ただその、ちょっと加減が、……それに先に私に飛びかかってきたのはあので、私は力の差というか序列といいますか、それを教えて差し上げようと思ったんです。竜っていうのはそんなものだし、私がまだまだ若くて覚えることが多いってことはあなたもご存知でしょうし、……――」

 イェルの声は次第に細くなり、決まり悪そうに消えてゆきました。妖精屋が自棄ぎみの朗らかさで笑いながら狼の頭をぐりぐりとこねまわします。

「ああそうだな、だからあちらも減額には応じてくれただろうが。それにこの北行きの金を補填したら土いじりの分の借金は終わりだ。カントを出てやっと商売に行ける」

 イェルからの返事はため息でした。ヤルツは狼の側にかがみ込み、そっとなめらかな毛皮を撫でました。言葉を話すということは本物の狼ではなくて妖精なのでしょうが、その身体は驚くほどひんやりとしておりました。

「すみません、どうぞよろしくお願いします。あなたにはつまらない仕事だろうけど、僕には大事なことなんです」

 ……狼はフンと鼻をひとつ鳴らしたきり、目を閉じてうたたねのふりを始めました。

 翌日の夜、指定されたカント城市の郊外へ支度を終えてヤルツが到着すると、既に妖精屋は彼を待っておりました。側には昨夜いなかった銀髪の若い男が不機嫌そうに突っ立っています。

「さすが天文学生は時間に正確だな」

 妖精屋が軽口をたたき、ヤルツはぺこりと会釈しました。まだ一銅貨も支払っていないのに飛んでくれるというのは特別なことでありました。

 渡された鳥かごはただの金属の箱のようでした。

「ぶつかった拍子だとか落としただとかで中の鳥が怪我したり気を飛ばしてしまったりしないような仕掛け箱だ。扱いに特に注意はいらないが、忘れずに渡してくれ」

 行き先の住所と現地で待っているという担当者の名を書いた紙片を渡しながら妖精屋が言って、若者を振り返りました。

 物語から抜け出てきたようなうつくしい若者でした。銀色の髪はさらさらと肩をすべり落ち、瞳は宵闇を固めたような深い青です。若者はぶすくれたまま妖精屋の視線にうなずきました。

 若者の姿がくるりと反転し、一瞬ひどく何かがねじれたような闇がまたたいて、次の瞬間ヤルツの前には堂々とした黒い竜がおりました。翼は強く大きく、胴はしっかりと引き締まり、固い鱗は星の明かりにきらめきます。

「私は驢馬でも天馬でもないってことと、私の爪や口はいつでもあなたを引き裂いて荒野に放り出すことが出来るってこと、忘れないよう願いますよ、天文学生どの」

 竜は不機嫌でした。妖精屋が宥めるようにその首をぺちぺちと叩き、ヤルツは緊張でかちこちに固まりました。竜は妖精たちの上位種で、その中でもいろいろな序列があると聞いています。

 いまヤルツの目の前で渋々と地に伏せて背に乗るように首でしぐさする竜は、間違い無くこの世界に数頭いるかどうかの傑物でした。竜ももちろん途方がないのですが、それを軽々しく飼い犬のように扱う妖精屋にも驚愕したのです

 呆気にとられているヤルツに妖精屋が苦笑して、背に乗るように促します。簡単に目的を復唱しましたら、竜は大きく翼をひろげて数度羽ばたきました。

 妖精屋が素早く後ろへ飛び退いて離れます。巻き起こった風が下からごおっと吹き付けて、ヤルツは慌てて竜の首根にしがみつきました。

 ふ……ッと上へ引っ張られるような感覚がして、次に僅かに沈みました。恐る恐る目を開けますと、そこはもう夜の真ん中でありました。真正面には星があり、真上にも真横にも星ばかりがありました。

 星の海を飛ぶ竜の背は決して快適な旅ではありませんでしたが、今まで見上げていたうつくしい天体の中を滑空していく経験は、どんな言葉にも出来ませんでした。



 イェルは天空を夜に飛び、昼は地上で眠りました。ヤルツは昼間も飛べないのか聞いてみたのですが、イェルの返答は小馬鹿にしたような薄笑いでした。

「太陽が出ている時間は灼かれて暑いし眩しくて方角がよくわからないんですよ。夜ならば涼しいし星明かりで先が見やすいし、それに何より夜に飛ぶ方がきれいじゃありませんか。月があれば月もいいですし、月が無ければ地上の明かりもそれなりに」

 そんなことも分からないのかといった口調です。空を飛ぶなどヤルツに限らずほとんどの人間は一生経験しませんから、空から見下ろす地上の光などと言われてもピンとこないのでした。

 それでもイェルは妖精屋に言われたことを破ろうとはしません。どうやってこの強大な若い竜を手に入れたのだろうとヤルツは思いましたが、イェルに聞いても答えてもらえないことは何となく察しておりました。

 けれど素晴らしいのはイェルの飛行の速度でした。

 数度の羽ばたきであっという間に星の高さまで跳ね上がりますと、あとは風を切り星の隙間を縫って飛んでいきます。耳元を背後へ流れていく空気の音や目にあたる圧が強すぎて、間近での星の観察や星図との照らし合わせなどもまったくできません。……それに地上の明かりとやらも見る余裕がないのが残念で、二日目の昼過ぎに目覚めたあとでヤルツは農家から防塵用の眼鏡を買いました。穀物をする農家には脱穀作業のために大抵これがあるのです。

 防塵眼鏡と分けて貰った濁酒を手に集落から戻ってきたヤルツに、イェルはしゃっくりを飲み込んだような妙な顔をして、声を上げて笑いました。

「面白い方ですね。私は主人以外の人間を背に乗せるなんてこの先絶対にお断りですが、唯一の例外があなただったことはまぁまぁましな事態だったと思うことにします」

「そういって貰えて僕も嬉しいですよ、イェル殿。そうそう、自家仕込みですからあまり濃度はないでしょうが濁酒もいただけたのでどうぞ」

 瓶を渡しますとイェルは満足そうにうなずきました。

 竜種ですから大酒飲みのはずですが、短い旅程のせいなのか妖精屋が言っていた『借金』のせいなのか、イェルには余分な金は渡されていないのでした。

 一本をぐびりと一息に飲み干して、イェルは「なるほど薄いですね」と苦笑しました。それから飛ぶ前の腹ごしらえを始めたヤルツの前に座りってしばらくその様子をながめていたのですが、やがて飽きてきたのでしょう。

「あなたは故郷を出てきた人間なのに、そんなに生まれた場所というのが大事なんです? 人間の大半は生まれた場所を遠く離れたがりませんし、だから出ていく者というのは大きな街が大好きか、故郷が大嫌いかのどちらかだと思っていたんですがね」

 そんなことを聞きました。

 大事ですよ、とヤルツはすぐに答えました。

「自分の真横にいる人が大事なのと同じように、遠くにあっても優しく想いを寄せることはできるんですよ。離れているからなおさら大切なのです。だって、自分が思い出そうとしなければ思い出さないでしょう? 人間にはそういうものが必要なんだと僕は思っています」

 ふぅんとイェルがあいまいにうなずきました。竜と人の生きる理屈は全く違うものなので、この若竜がぴんとこないのは仕方のないことかもしれませんでした。

「君のご主人にはそういうことはないんですか? 情の深い方だとお見受けしたのですが」

 身近な例をあげてみると、イェルはしばらく考えて「ああ」とうなずきました。

「時々ながめていらっしゃる写影版はありますね。ただの中年女に見えましたが……会いたいかと聞いたらうんとおっしゃるので、姿をそっくりに再現して差し上げたことはあります」

「怒られませんでしたか?」

「すごい、なぜ分かったんです?」

 心底驚いたというように目をぱちぱちするイェルに、ヤルツは小さく吹きだしました。写影版というのはその瞬間の姿を小さな金属の板に焼き付けたものです。絵よりもずっと正確に姿を捕らえておくことができるのです。

 身近にはいないうえに時々眺めている、会いたい、という言葉でそれが優しい過去であることは察せられたのですが、イェルにはとんと分からない様子でした。

「――大事という気持ちは宝石みたいなものですが、宝石には二種類あるんです。とても高価だったり立派だったり珍しかったりで他人に見せて満足する石と、査定では大した値がつかなくたって誰かの思い出の形代であったりするような、記憶の中で一番綺麗に光る石です。記憶の石は他人には見せたくないものなんですよ。だからその女性の姿はご主人の前ではもう写さないほうがいいです、きっとね」

 イェルは神妙にうなずいて、「殴られましたよ」と唇を尖らせました。

「仰るとおり、とても強く怒られまして。でも、あなたの説明もよく分かりません。他人には見せない石なんて、誰にも価値が分からないじゃないですか。綺麗な石なら誰かに見せて褒めてもらったほうが嬉しいのでは?」

 イェルの問いにヤルツはしばらく考えこみましたが、結局明確な答えは自分の中にもありませんでした。胸の中にあるやさしくてやわらかい光は、そこにあるということは確かなのに、取り出して見せたり誰かと比較したりということはできないのです。

 ヤルツは素直に「どうしてでしょうね」とうなずくことにしました。

「でも、大切なものは見たり触れたりできないことが多いんです。外に出すと消えてしまうからかもしれませんね。――ほら、こんなふうに」

 ヤルツはホゥと息を吐きました。緯度が高くなってきたために、暦の上は夏なのですが実質は秋の半ばというところでした。

「一瞬見える気がするけれど消えてしまう。自分の中であたためておくだけなら失われないということはあると思います」

 イェルはじっとヤルツを見て、やがて首を振りました。

「人間というのは分かりませんね、本当に」

 半ば諦めているような言葉でした。ヤルツはうなずいて付け足しました。

「そうですね。でもあなたがわからないんではなくて、わからないんです。人間同士だってそこに違いはないんだと、僕は思います」

 イェルはゆっくり首を振りました。ヤルツは出来るだけ優しく笑ってみせました。

「わからないことは悪いことじゃないんです。わからない、を受け入れることができれば」

「まったくさっぱり分かりませんね、あなたの仰ることときたら」

 イェルが小さく笑って「さあ、飛びましょう」と言いました。旅程は残り一日というところにあって、実に順調でした。

 急いでヤルツは荷物をまとめ、竜に戻ったイェルに駆け寄りました。鱗を傷つけないようによじのぼろうとしたヤルツの身体をイェルが尻尾で軽々と持ち上げて、そうっと背に降ろしてくれました。それは初めてのことでしたからヤルツはたいへん驚き、それから一番星をみた夕暮れの時のように晴れやかに笑いました。



 リダはヤルツの背を追って丘を登っておりました。今日は運良く村に宿がありましたから普段よりずっと上等な夢が見られるはずで、だからとても楽しみでした。

 昨晩の野宿では話の途中から眠ってしまい、最後の部分は謎でした。

 竜に乗って空を飛ぶなんて本当に素敵だ、と思いますが故郷の村がどうなったのかは怖くて聞けません。

 ……けれど、赤い星はもう夜空のどこにも見当たりませんでした。

 ヤルツが頻繁に振り返ってはリダを気遣っています。宿の地階にくっついている村の居酒屋で食事を済ませたあとでヤルツが珍しく丘へ散歩に行こうと誘ってくれたので、リダは本当は宿で寝ていたかったのですが着いてきたのです。星の観測を抜きにして二人でどこかに行こうというのを断ってしまえば金輪際さそってもらえないかも、と考えたわけでした。

 カント城市からは乗り合い馬車をいくつも乗り換え、陸を半年ほど歩き、河を二ヶ月遡ってようやく辿り着いた北の小国です。見える星もいくつかは違い、角度は大幅に異なっていて観測は興味深かったのですが、ヤルツはそればかりでリダはほんの少し落胆していたのでした。

 今夜は第七夜で月はちょうど半分でした。黄色みの強い白い光はまろやかで、もうすぐ満開になる銀糸草の穂が風にさやさやと揺れています。 まるで銀の波の海を歩いているようでした。

 ヤルツが丘の頂上で立ち止まり、それから丘の遙か向こうを指差しました。日が落ちきって紫紺が僅かに稜線にかかる山脈の影が遠くに見えておりました。

「あの飛び出しているのがラーイ山です。まわりの山は去年の地揺れで崩れてしまったのであれだけが残っているんですよ」

 リダはヤルツの指す山を見ました。ラーイ山というのだけがぽんとそびえ立ち、残りは周辺に伏せるような地形に見えました。

「昔は中腹に大きな沼があったんです。底の岩盤の角度なのか、光があたると山肌に反射して映っていたんですが……残念ながらその沼も落石で埋まってしまって今はもう見えなくなりました。満月の夜にここからラーイ山を眺めると天上の月と山に映る月の二つが両方この方角に見えていて、それはそれは綺麗だったんですよ」

 遠くをみつめるヤルツの横に並び、リダはそっと先輩を眺め上げました。ヤルツは決して美男でも天才でもありません。ごく普通の青年です。けれど彼の横に立っているということだけでひどく満たされた気持ちになりました。

 ヤルツはかがんでリダの肩を掴み、山のほうを見るように促しました。リダが言われたとおりにするとヤルツの姿は見えなくなりましたが、声は優しく聞こえていました。

「よく見てください。あの山の中腹にの村はありました。思い出せますか?」

 リダは遠くでキンと澄んだ音を聞きました。

 急に胸が苦しくなって、心臓が強く打ち始めます。

「僕は赤い星の爆発には間に合いましたが、村から逃げ出した僕を信じてもらおうとするほうが大変でした。着けばみんなを救えるというのは実に傲慢な、浅い考えだったんです」

 ヤルツの声がわずかに止まり、やがて長い吐息が耳元で聞こえます。

「でも、でも、助かった人だっているんでしょう?」

 おそるおそるのリダの反論にヤルツがやわらかく笑ったのが聞こえました。

「ええ、もちろん。でも、村のちょうど半分くらいの人数です。信じてくれた人もいたし、避難して何もなかったら僕をとっちめてやろうと思った人もいました。そして助からなかった人もたくさんいました。たまたま街に降りていて僕の帰還を知らず、村へ戻る途中で土石流に呑まれてしまった可哀想な人もね」

 リダは自分が震えているのに気付きました。涙が溢れてきます。

「ヤルツ、私……」

 自分の唇がするすると動き、リダはぎゅっと目を閉じました。急激に何かの蓋が開いたように、たくさんのことが甦ってきたのです。

 ……星を見上げていれば村を出て行った恋人のことを思い出せるから、リダは星を見るのが好きでした。毎晩毎晩、恋人が今どの星を見ているのかを空想しながら眠りについていたのです。

 だから赤い星が次第に色を強くしてゆくのにリダは気付いていました。

 ……あの日の前の晩、星は実に黒々と赤かったのが思い出されてまいります。リダは恋人がきっとこの星を観察していると確信を持って、同じ星を違う場所で見上げておりました。

 同じ星を違う場所で見つめているはずの恋人は、いつか自分を迎えに来てくれるとリダは強く信じていました。そして自分が彼のためにできることは、彼を信じることと毎日を強く生きていくことです。

 だから村で羊や牛の世話をして、糸まきや洗毛もきちんとこなし、時々は街で売って金にしました。あの日も街へ降りていたのです。

 リダは確かに赤い星が四散するのを見ました。ついで地面が激しく揺れ、立っていられなくなり、リダは岩場に這いつくばりました。そのあとはとてつもなく大きな音がして、目の前が真っ暗になって、――……

 気がつくとリダは天文学生のコートを羽織り、癖毛の青年のあとを

「先輩、先輩」

と追いかけていたのです。

「僕は君に、この景色を見せてあげたいとずっと思っていました」

 ヤルツの声がやさしくささやきます。

「君に見せてあげたかった。満月の夜には月が二つになって、それはそれは綺麗だったんです。でも、もうあの山に月は写りません。……だから君は、もう行かなくては」

 どこに、とリダは聞きませんでした。ヤルツも言いません。

 けれどそれはこの世界に暮らす人も獣も虫も妖精も、全てのいのちが理解している遙かに遠い場所でした。

 リダは自分の肩をおさえるヤルツの手に自分の手を重ね、ぎゅっと握りしめました。そのとたん、涙がぼろぼろとこぼれて頬をつたい落ちました。

 ヤルツがリダの前に膝をつき、懐から小さな髪飾りを差し出します。

 リダはそれを受け取って、自分の髪に挿しました。

「――似合う?」

 リダの声は涙でがくがくと揺れていましたが、ヤルツは大真面目にうなずきました。

「とても」

 ヤルツの返答に、リダはにっこりと笑いました。表情を動かすたびに涙がふきあがっては頬を落ちるのがむず痒かったのですが、ヤルツには笑っている自分を見せたかったのです。

 リダは髪飾りに手をやって星を見上げ、それからヤルツを見つめました。

「……さようなら、リドルクァ」

 ヤルツがおごそかに言いました。

「さようなら、ヤルツェンダ」

 リダも同じようにおごそかに言い、それからもう一度星を見上げ、

「二十二度」

 つぶやいてから、消えました。



 足元で黄色い犬が再びあくびをいたしました。男は手紙から顔を上げ、犬をそっと撫でました。この犬はかつて、彼の相棒でした――随分と昔の話ではあります。

 黄色い犬を連れて妖精の鞄を持って、男はたくさんの街や村に行きました。犬はいつも彼に忠実で、表情豊かな友でした。

 別れの時間はそう遠くない時期にやってくるでしょう。自分の支えを見失ったり獲得したり、人生の転機というのは誰にでも来ることです。老犬の世話をしたいからとはいいませんでしたが、旅をやめて組合に入ったのも、そうした転機の一つでした。

 男は一緒に入っていた運行図をみやり、地図と重ね合わせて妖精の巣が出来やすいだろうところに印をうっていきます。竜とは悪食の極まりのような存在ですから、定期的に馬鹿喰らいをしなくてはならないと知っているからです。

 竜の主人である妖精屋とこまめに連絡をとっているわけではありませんでしたが、長い時間を共に過ごしてきた一種の連帯感や友情のようなものが、二人の間には確かにありました。

 だから今度事務所に顔をだしたときにでもこの地図を渡してやろうと男は思います。学生の首尾がうまくいきすぎなかったのは実に残念でしたが、それでも村の半数が生き残ったのは十分な成果のように思われました。

 男はまた事務仕事へ戻ります。犬は再びうつらうつら、何かの夢を見はじめます。表では風もないのに看板がくるくる回ります。

 静かな夜の、ささやかな物語です。

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妖精屋 石井鶫子 @toriko_syobonnovels

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