【ショートショート】雪を溶く熱

佐藤佑樹

雪を溶く熱

 その窓からの借景は眼下に渓谷をいただき、どんな名画にも劣らぬ耽美をもたらした。春景、山谷を望み淡く萌ゆる山桜が風月に唄い、炎天、深緑の織り重なるうち天日を受け白く抜ける様はまさに奇勝。秋色、一面が真朱に染まり天までが惚けて地上に落ちる。雪景、清明に焦がれる山神が白銅色のヴェールに包まる。

 どんな俗物でさえ嘆息をもらし、どんな陰欝でさえたちまちふっと消えて散る。

 街には瀟洒な店があろう。都会には多くの職があろう。ここには偉観しかない。けれどこれだけあれば、酒が飲める。暮色蒼然と迫る時分から、彼女はいつも嗜んだ。

 山の神様に魅入られてしまったのかねぇと家族は漏らす。彼女はいつだってそこにいた。あるいはその通りかも知らんと、自身でも思う。これ以上に美麗なるものなぞ在るか知らん。

 ある雪の夜、しかしてこの日は暮うそうそからの豪雪が止まず、その窓はただのカンバスと相成った。落胆するも彼女は他を知らぬ。白地に展望を空想し、満たしたグラスに口をつける。上がれば地は季節外れの卯の花に覆われるだろう。空は泰然として在るだろう。明日に馳せども、心気に不安は見て取れない。

 しばらくそうしていると、風雪にガタゴトと揺れるサッシがピタリと止まった。全ての音声が雪の絨毯に吸われて消えた。ガラスの向こうに影が見えた。なんとなく、それはもう十数年は会っていない昔馴染みだろうと感じた。それは窓の向こうに佇み、見えるか、山谷に向かって対していた。こんな夜もあるやも知らん。この場は何よりも美しいはずだ。

 二人はそろって前だけを見た。映るかどうかは重要でない。もう網膜が覚えている。

 やがて影は薄れて散った。部屋の中に音が戻った。

 何もない部屋だ。時計とベッドと、文机。酒瓶の山と、少しの雑誌。

 胸の奥の何かに身じろぎして、初めてこの部屋で涙が出た。一粒だけ。

 焦がれる山神がヴェールに包まり、春、山谷は彼女を他所に唄い遊ぶ。夏、木々の葉は日光を世界にばら撒き、秋、彼女も知らぬ何かに、山は頬を染める。

 窓を拭う。ボトボトと降り注ぐ雪玉が、ほんの数瞬、見えた。秒針の音が響いて聞こえて、山神との別れを予感した。

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