神はズボンが濡れても気づかない

深月りお

誰が為の

 私も彼も、きっと気が違っているのだ。どちらが先に狂い始めたのかは分からない。しかし、少なくとも私は、彼に憧れという感情を抱いたその日から、徐々に狂っていったのだった。もしかしたら私が勝手に思っているだけで彼はおかしくなんてないのかもしれないし、反対に彼の気の狂いに惑わされて私は自分自身がぐちゃぐちゃになっているような錯覚に襲われているのかもしれない。

 多くの人は、自分が異端であることを認めたがらない。万が一異端なものであると気が付いてしまったら、マジョリティになろうと、しなくてもいい努力をする。

 しかし私は、彼を道連れにして大きな声で私達は狂っているのだと叫ぶ。私達は頭のネジを何本か無くしてしまっているのです、と。そんなことを言う理由は単純で、憧れの彼とお揃いのものが欲しかったからだった。二人まとめて異端者だと思われて、勝手にコンビとして括ってもらえることがありがたかった。彼と対等になんてなれる筈がないのに、あんた達変わってるねぇとケラケラ笑ってもらえている時だけはそんな気持ちになれるのだ。

 先程私は彼に憧れという感情を抱いたその日から徐々に狂っていったと述べたが、実は、何故彼にこんなにも執着するようになったのかはもうすっかり忘れてしまった。ただ何となく、中学で同じ美術部に入って、そこで後ろ向きで何でも悲観的に捉えてしまう私にやけに冷たく何かを言ってくれたことは記憶している。果たしてそれはどんな言葉だっただろうか。アンタはそんなことをするのが楽しいのか? とか、そんな感じの言葉だったような気がする。彼に聞いてみても覚えていないと言うし、きっとどうでもいいような、何となく出た言葉だったのだろう。それでも彼の言葉は、私の心を深く抉って血を噴き出させた。

 その日から私は、彼を神だと思うようになった。

「そういうこと言う割にはさ、薫ってあいつに逆らうよね」

「え、そう?」

「うん。神様大好き! って言いながらあいつにめちゃめちゃ文句言うじゃん。何、仲悪いの?」

 学校へ向かう途中、ポニーテールの後れ毛を左手で弄びながら、亜梨が気だるげにそう言った。心底興味がなさそうだ。

「何かこう……あれなんだよ、同じ宗教の中でもいくつかの宗派に分かれてるよっていうのを勝手に一人でやってるっていうか」

「全然わからん」

「私の信仰する神様は、私の期待している人格の神様であってほしいって感じ? 聖典の解釈とか時代の移り変わりとかで色々あって神の捉えた方が変わって宗教戦争が起こったりするでしょ、そんな感じで私は神様の解釈違いに色々悩まされてるの」

「薫の場合は戦う相手が他の信者じゃなくて神様本人だけどね」

 亜梨はそう笑うと、橙色のリップを塗り直して「可愛い?」と尋ねてきた。今日は隣のクラスの女子から奪った彼氏との初デートらしく、やけに張り切っている。オレンジ系のアイシャドウとリップは実際気味が悪いくらいに似合っていたので、お世辞でなく「可愛いよ」と言った。

「まじ? ありがと。もうちょいで高三になるしさ、薫も彼氏とか作ったら? 最後の学校祭くらい彼氏と回りたくない?」

「いや、別に。生徒会の仕事忙しいし、どうせ屋台とか見て回れないよ」

「うわぁ……それあれだよ、絶対将来社畜になるやつ」

 亜梨は嫌な顔をしながらリップを上着のポケットにしまって、その代わりに手鏡を取り出した。どこが崩れているのか全く分からない前髪をちまちまと直して、「今日の私、私史上一番可愛い!」と満足気に笑う。

「それ毎日言ってるね」

「当たり前でしょ。毎日可愛くなれるよう頑張ってるんだから、昨日の私より今日の私の方が可愛いに決まってるじゃん? 薫もよくわかんない努力してるんだから昨日より素敵だよ、きっと」

「そう?」

 努力、努力か。少し考えてみたけれど、私は大した努力はしていないように思えた。もうすぐ受験生になるというのに生徒会の活動に全精力を注いでいて勉強もしていないし、亜梨のように可愛くなろうとも思っていない。

「……何か、私努力してるって感じしないや。性格には難あるけどやっぱ亜梨って凄いんだね」

「うわっ、失礼! ていうかさ、薫で努力してないって言うなら誰が努力してるの? あいつがやたら薫に懐いてるのはあんたの努力の結晶じゃない?」

「あいつ、とは」

「西山だよ、西山伊吹。あんたの神様」

「あー? いや、あの人が私に懐いてるって言うより私があの人に懐いてるっていうか」

 よく「西山と仲良いよね」と言われるが、私が勝手に彼の言葉に救われて勝手に彼を崇拝して、勝手に後ろをついて回っているだけだ。きっと彼は、お前薫のことめっちゃ好きだよね、などと言われた日には誤解させるんじゃねぇと私を殴りに飛んでくる。

「いやいや、あんなクレイジーな奴、よっぽど懐いてなきゃ制御できないって。今のところあいつに文句言えて、しかも納得されられるの多分薫だけっしょ」

「うん、まあ。神様には私の望む姿でいてほしいから、割とムキになって反論することはある」

 亜梨は「やっぱり薫凄いわ」とゲラゲラ笑ってから、私の鼻を伸び切った爪でつついた。

「まじで面白いよあんた。そもそも西山とかいうヤバい奴を信仰してる時点で百点満点なんだよなぁ。ねえ、あいつのどこがいいの」

「んー、あの人の言葉に救われたってのが一番だけど…………やっぱりあれかな、あの人、自分のスボンが濡れてても気付かないんだよ」

「…………へぇ?」

 亜梨の口元が弧を描く。彼女は、訳の分からない、理屈っぽいようで実際は中身なんてないぺらぺらの話をする私が好きなのだ。彼女も私と同じように少し変わった感性を持っている。

「亜梨もわかってると思うけど、あの人本当にポジティブでさ。それだけで私からしたら十分凄いんだけどね? 伊吹の凄いところはその精神がこう……肉体的にも? 出てきちゃってるところなんだよね」

「ほう」

「あの人、下を向いて歩けないの。足下に物があっても、今日みたいに道が凍ってつるつるでも、馬鹿みたいに前を向いて歩くんだよ。だから雨の日とか雪の日とか、ズボンがべちゃべちゃになっても全然気づかない。裾濡れちゃうから捲ろうとかそういう考えにならないわけ。そういうところが何か、素敵だなって」

「それは――恋だな?」

「全然話理解してないよねあんた」

「寧ろ何で理解できると思ったの?」

 そう言いながらも亜梨は心底楽しそうで、ここ最近で一番可愛らしい笑みを浮かべた。「別に薫が普通の女の子みたいに恋してるとは思ってないけどね?」と悪い顔で言って、そして途端に興味をなくしたようで急に彼氏に電話をかけ始める。

「ねえ今何処にいる? 私もう校門前にいるけど――ん、裏門にいる? おっけ、すぐ行くね」

 彼女はすぐに電話を切って「じゃ、行くね。生徒会頑張れ」と私の額に拳をぶつけて去っていった。なんて奴だと思うけれど、私の感性もおかしくなってしまっているので、私は何よりも彼女の自由奔放なところが好きだ。

 私は少しだけ彼女の後ろ姿を目で追って、それから学校へ行こうとのんびり歩きだした。折角の春休みなのに新入生歓迎会の準備に追われていて、結局毎日学校に行っている。そのことは即ち毎日神に会えるということなので嬉しくはあるのだが、流石に疲れる。毎日神の相手をするのは。

 一番端の扉から校内へ入って適当に上履きを履き、生徒会室のある二階へ向かう。どうやら伊吹は既に学校に来ているようだ。

 嗚呼面倒だなぁ、と思いながらやけに長い廊下を歩いてふと顔を上げると――何故か生徒会室の前で立ち尽くしている男子生徒の姿があった。西山伊吹だ。扉の向こうをじっと見つめて、何かを考えているようだった。嫌な予感がする。

「……え、何してるの伊吹」

「考えてる」

「何を」

「部屋の中を見ろ」

 彼はそう言って、心底不快そうな顔をしながら無理矢理私を扉の前に立たせる。

「えっ、何……っていや、本当に何これ?」

「俺にもさっぱりわからない」

 扉の窓から生徒会室を除くと、そこには大量の発砲スチロールの箱が積まれていた。大小様々な大きさの箱が不安定に置かれている。確かに全く意味はわからないが、部屋に入れないほど大量にあるわけでもないし、どちらかと言うと彼がここで立ち尽くしていた理由の方がわからない。

「俺がどうして困ってるのかわかってないだろ」

「うん」

「あれ見て。わかりやすいところは――一番手前の発砲スチロールかな。何が描いてある?」

 彼が手前にあった大きな発砲スチロールの箱を指差す。私の視力はそこまで良くないので文字は読めなかったが、かろうじてそこに描かれている絵のモチーフは理解することが出来た。そして、それと同時に今すぐ帰りたくなった。

「……魚」

「そうだ、魚だな。ではあんたにも嗅いでもらおうか、オープン!」

「あっちょっと」

 清々しい表情の伊吹が、逃げないよう私の肩をしっかりと抑えながら盛大に生徒会室の扉を開ける。バタン、と木製の扉が大きな音を立てて少し跳ね返った。

 部屋の中は暖房が入っていたらしく、やけに生ぬるい空気が私の頬を通り過ぎる。そしてそれと同時にやって来る、生魚の臭い。

「……っ、くっっさ!」

 臭いなんてものじゃない。思わず嘔吐きそうになって、必死に唾を飲み込んだ。何だこれは。人間が嗅いでいい臭いではない。スーパーで少し吸い込んだだけで顔を顰めてしまう臭いが、明確な悪意を持って私の鼻を襲う。

「俺が考え込んでいた理由わかっただろ? この凄まじい香りをどうしようかなぁって思ってた。昨日先生が何か取りに行ってたじゃん、それがこれっぽい。どうする?」

「……発砲スチロール洗うしかないじゃん。漂白剤か何か使うといいんだっけ」

「ははっ、酷い顔。まあそうだな、洗うしかないだろうな。問題は今日生徒会のシフトが入っているのが俺ら二人しかいないってことだ」

「最高に最悪だね」

 塾にも通っておらず比較的暇な私たち二人は毎日のように学校に来ているが、運動部に所属していたり厳しい塾に通ったりしている他のメンバーは、週に二、三回程度しか参加することができない。

「そもそも何でこんなに発砲スチロールがあるの」

「俺は知らないぞ。会長に聞けば?」

 会長の所属しているバスケットボール部は今日、練習試合があるらしい。来れないことがわかっているのなら、せめて副会長の伊吹くらいには事情を説明してくれたっていいじゃないか。そう文句を言いそうになって止めた。伊吹は零しても何も改善することのない愚痴を異常に嫌う。

「どこでやる? やっぱトイレ?」

「凄まじい臭いの二乗はしんどくないか? 床にビニールシート敷いて廊下の水飲み場でやろうぜ」

「水飲み場が生臭くなったら私だったら発狂するけど」

「春休みだし大丈夫だろ。誰も使わない」

 伊吹は鼻をつまみながら生徒会室の中へ入っていくと、一番奥のデスクの横から青色のビニールシートを引っ張り出してきた。

「伊吹、そこの引き出しにゴミ拾いするとき用に買ったゴム手袋入ってなかったっけ」

「ん、そういえばそうだったな……っと、あった。漂白剤はあったっけか」

「流石にここにはないんじゃないかな。家庭科室にはありそうだけど」

「じゃあ取ってきて」

「OK。先生に許可取ってくるね」

「え、許可とかいらないだろそんなの」

「いやいるでしょ。私伊吹みたいにメンタル強くないから怒られたくないよ」

 伊吹にとってのルールは彼自身で、自分が正しいと信じて疑わない。そこが腹立たしくもあるけど少し羨ましいとも思ってしまう。まあ、伊吹が一部の人に異様に嫌われているのはこういうところが原因なのだけれど。

 不満気な表情をしている彼を後目に、私は職員室へ向かった。ノックをして立て付けの悪い扉を開き、「失礼します」と小声で言って辺りを見渡す。すっかり忘れていたが、今日は日曜日だった。職員室にはほぼ教師の姿はなく、生徒会担当の教師は一人もいなかった。

「あー……」

 面倒くさい、という気持ちが許可を取らなくては、という気持ちを段々と食い殺していく。正直大人と話すのは苦手だから、あまり関わりのない教師とは話したくない。

「……もういっか」

 事後報告で良いだろう、とぼんやり考える。露骨に伊吹の影響を受けているな、と思って笑ってしまった。学校の備品を勝手に使うなんて小心者だった今までの私は絶対にしなかったのに、伊吹が言うならまあいいだろうと考えてしまう辺り本当に変わってしまったのだと思う。それが良い変化なのか悪い変化なのか私にはわかり兼ねるが、少なくとも生きやすくなったことだけは確かだ。

 私は誰にも気付かれないよう静かに職員室の扉を閉めて、職員室の隣にある家庭科室へ入った。家庭科室の窓際には大きな洗濯機が置いてあって、その辺りには大量の洗剤が置かれている。その近くの棚に積まれていたビブスやら何やらを掻き分けて漂白剤を探してみたのだが、これが中々見つからない。ここには無いのだろうかと思って散らかしたまま隣の家庭科準備室を覗いてみると、中の棚に詰め替え用の漂白剤らしき物が見えた。

 ドアノブを捻ってみると、その扉は情けない音を立てて開いた。包丁など危ないものが置かれているので普段は施錠されているようなのだが、何故今日に限って鍵があいているのだろう。好都合ではあるのだが。

「ちょっとお借りします……」

 私はすっかり埃を被っていた漂白剤の袋を数個手に取って、すぐに部屋を出た。やはり準備室にいるところを見つかって怒られるのは怖い。結局、未だに私は小心者だ。散らかしたビブスもなるべく来たときと同じ状態になるように片付けておいた。

 暫くして廊下に出ると、少し遠くでガサガサとビニールシートを広げる音がした。廊下の角を曲がると、水飲み場付近の床が一面蒼色になっているのが見えた。仕事が早い。

「お、漂白剤あったのか。サンキュ」

 顔を上げた伊吹は大して感謝もしていなさそうな表情でそう言う。

「うん。生徒会の先生いないっぽかったから事後報告ね」

「これ使い果たしたら生徒会予算から引かれるのか」

「そうじゃない?」

「うわー、嫌だな……。ただでさえカツカツなのに用途もわからない発泡スチロールに無駄なお金使いたくないよな。なるべく節約しよう」

 伊吹はそう呟くと、徐に着ていたウインドブレーカーを脱いで、そして何故か私に着せた。一瞬思考がフリーズする。

「……は?」

「いや、は? って何だよ」

「えっ何私がおかしいの? 何これ、ウインドブレーカー」

「ああ、あんたの服に魚の臭い付いたら嫌だろうなって思って」

「はあー…………ほんとに? 伊吹、そういうとこだよ。本当に良くない。神って感じ」

「褒められてんのか貶されてんのかわからないなそれ」

 好かれたくてやっている訳でもなく、私の機嫌取りをしようとしている訳でもない。ただ単純に、彼は私の服に魚の臭いがついてしまうのではないか、と思っただけなのだろう。きっと彼は生臭い上着を着て帰ることになったって何も感じない。だから彼の脳は私にウインドブレーカーを着せることを選んだ。キザだと思われるだろうか、とか急にやると気持ち悪いんじゃないか、とかそういう不安は彼にはない。

 嗚呼、気持ち悪い。常に正しいか正しくないかで処理してしまう彼はどこか人間離れしているような気がして、不気味で仕方ない。

 私は頬が緩みそうになるのを必死に抑えた。私は、こういう、気持ち悪いくらいに真っ直ぐな神を愛しているのだ。

「とっとと発泡スチロール取りに行こうぜ」

「うん。ついでにスポンジと霧吹きも持ってきたいな。あったっけ」

「学校祭の掃除のときに買った気がする。……いや、あんた会計長なんだから覚えていろよ」

「学校祭とか忙しすぎて死にそうだった記憶しかない」

 私と伊吹は生徒会室から発泡スチロールをのんびり運んで、ビニールシートの上に置けるだけ置いた。それでも生徒会室には半分以上残っている。

 そして、あまりにも生臭くて廊下の窓という窓を全て開け放ったが、結局何も緩和されなかった。ただ寒くなっただけだ。窓の外はまだ所々白くて、とても春とは呼べないような寒さだった。

「やっぱまだ寒いね。ウインドブレーカー、本当に借りちゃって大丈夫?」

「おう。そんなこと気にすんな」

「あー、うんそうか、ありがとう。でも寒いことに変わりはないだろうし早く終わらせちゃおう」

 何だか申し訳ないので、私はそう言ってから適当に霧吹きの中に水道水と漂白剤を入れ始めた。伊吹は何故か、笑うのを堪えているような、怒っているような、訳の分からない表情をしてただ私の横に突っ立っていた。気味が悪い。それと何よりも早く終わらせたいので手を貸してほしい。

「……ねえ、手伝ってよ。何してるの」

「あ、おう、うん。……あんたはそれでいいよ」

「何の話」

「何かあんた、丸くなったなぁって。中学の時とかさ、ありがとうも言えないようなひねくれた奴だったじゃん。何かこそばゆい感じ」

「え、嘘。そんなんだった?」

 確かに、中学の頃――伊吹と出会うまで――は少しやさぐれていたような気もするが、そこまで酷い人間だっただろうか。荒んではいたけれど、割とまともだったと記憶している。勝手に美化してしまっているのか。

「覚えてないのか? 自分以外ゴミ人間! みたいな態度取ってただろ。それがここまで丸くなるんだもんなぁ。何の力かは知らんがすげぇなって思った」

「……あんたのおかげだよ」

「ははっ、いっつも言ってるなそれ。俺何もしてねぇじゃん」

 伊吹は爽やかに笑いながら霧吹きを受け取り、発泡スチロールの蓋を開けて「うわっ」と情けない声を上げた。数秒考え込んだ後、思い切り眉間に皺を寄せて発泡スチロールに霧吹きの中身をかけ始める。

 手持ち無沙汰になってしまった私は、特に理由もなく伊吹の横にしゃがみ込んだ。

「やっぱ近くで嗅ぐと凄いね、これ」

「だったら何でわざわざ近付いてくるんだよ」

「お役御免になっちゃったからせめて同じ苦しみを味わってあげようと思って」

「何じゃそりゃ。本当にあんたそんな奴だったか」

 彼は「俺の知ってる薫と違う」と言って、私に霧吹きの中身をかけようとした。

「うわっ、やめてよびっくりした」

「やらねぇよ。っていうか、怒れよ」

「ええ……何それ怖い。そういう趣味?」

「違う。あんたこういうときキレ散らかしてただろ。やっぱ守沢の影響か?」

「亜梨? いや、多分違うと思うよ。寧ろ私が丸くなったから亜梨みたいなちゃらんぽらんって感じの人と仲良くなれるようになったんだと思うけど……」

 そう言ってから、そういう訳でもないか、と思った。丸くなったから亜梨と親友になれたのではなく、ネガティブで頭の固い自分が嫌でどうにか変わろうとして、自分と正反対で自由奔放な亜梨と仲良くしようとしたのだ。そう思うようになったきっかけは間違いなく伊吹だし、いつだって私を導いてくれたのは彼だった。

「まあ人間って半年あれば変われるからな」

 そうだ、この言葉だ。人間は半年で変われる。半年間、嫌だと思っても嫌な顔をするな。嫌いだと思っても悪口を言うな。楽しくなくても楽しいと言え。そうすれば半年後、あんたは絶対に素敵な人間になれる。半年表を取り繕い続ければ、自分の考え方は自然とそれに付いてくる。嫌なことを嫌と言っても、不快なことを我慢しなくてもきちんと信頼される人間になれる。

 彼は、どうしても変わりたいと嘆く私にそう言った。変わりたいと思うきっかけになった彼の言葉はもう覚えていないけれど、その後に彼が言った綺麗事じみた言葉は、今でもはっきりと覚えている。

 しかしそれを言った本人は全くそのことを覚えていないようで、どうして私が彼を神と呼ぶほど尊敬しているのかちっとも分かっていないらしい。

 神からのお告げを聞いた私は、彼が言うように、どうにもならない愚痴を言うことをやめ、なるべく笑顔でいるようにして、今までは苦手で避けてきたタイプの同級生とも積極的に話すようにした。我ながら健気である。その苦手なタイプの同級生の一人が亜梨だった。初めはやはり我儘で自分の好きなように行動する彼女は苦手だったのだが、本当に半年もすれば彼女を心の底から愛せるようになった。神は偉大だ。

「前々から疑問に思ってたんだけど、俺あんたに何かしたっけ。何でそんなに慕ってくれてんのか全然見当つかないんだけど」

「覚えてないなら俺慕われてるんだーってただふんぞり返ってるだけでいいよ。今更説明するの恥ずかしいし」

 私が半ば吐き捨てるようにそう言うと、伊吹は更に深く眉間に皺を寄せ、不貞腐れたような表情で仕事を再開した。偶に彼が幼稚園児のように見えることがある。感情豊かで自分の気持ちに真っ直ぐに生きている彼は、鬱陶しいと思うことはあれど人間らしくて愛おしい。

 霧吹きが一つしかないので私はその作業を手伝うことが出来ず、とりあえず残りの発泡スチロールを持ってこようと足でビニールシートの上の発泡スチロールを寄せ、生徒会室へ向かった。それでもすぐに仕事はなくなってしまうだろうからついでに提出しなければならない書類か何かを持って行こう、と部屋の机の中を漁る。

「うわぁ……」

 案の定、机の中からは依頼された覚えもない書類が大量に湧き出てきた。新入生歓迎会の会計なんて初耳だ。発泡スチロールについて何か書いてあるかと思いざっと目を通してみたが、そんな記述は一つも見つからない。先生がスーパーかどこかへ行って貰ってきたものなのだろうか。

 流石に、何も言われていない書類に手をつける勇気は私には無い。伊吹にはあるのだろうけど。

 程よい暇つぶしになる仕事はないだろうかと私が更に引き出しを漁っていると、ふと一枚の紙が目にとまった。何故大量の書類の中からその書類を選んだのかはわからない。けれども手書きで書かれ所々破れているその紙は、私に見つけてくれと哀願しているようだった。

「あー……懐かしいなこれ」

 洒落た字体で「生徒会だより」と書いてあるその紙は、新生徒会役員からの挨拶が書かれているものだった。普段の生徒会だよりはパソコンで作成するが、何故か伝統として生徒会役員が代わったときだけはわざわざ手書きで書いて発行するのだ。

 私と伊吹が生徒会役員になったのは一年の後期だった。三年生が引退するため何人か新しい役員を立てなければならなかったのだが立候補者が見つからず、先生が私達に役員になってくれと頼んだのだ。中学の頃も生徒会を経験していた私達は、渋々それを許可した。

 初めは心底嫌だったが、私は単純で、結局伊吹がいるからそこそこ楽しく活動できた。

 中学を卒業するときにもう彼に依存するのはやめようと思っていたのだが、結局ずるずると依存したままここまで来てしまった。あと半年。あと半年で、本当に彼から卒業しなければならない。

 半年あれば、人間は変われる。でも逆に言えば、半年後に違う自分でいたければ、今己を変えるという決断をしなければならない。

 ――駄目だ。止めよう、こんなことを考えるのは。今するべきことではない。こうやってグダグダ悩んでいても、どうせ伊吹に怒られるだけだ。

 私は両頬をぺちぺちと叩いて、それから新入生歓迎会の会計の予算や用途が書かれた紙と発泡スチロールの箱を抱えて生徒会室を出た。

 伊吹は背筋をしゃんと伸ばしながら黙々と作業を続けていた。ふと顔を上げて「ああ、サンキュ」とやはり大して感謝していなさそうな声色で言って、そしてまた作業に戻る。私はビニールシートの端に発泡スチロールを置いてまた生徒会室に戻り、それを何回か繰り返して全ての発泡スチロールをあの狭くて臭い部屋から移動させた。

 本格的に仕事がなくなってしまったので、彼から少し離れた所で胡座をかいて持ってきた書類に目を通す。中学生のときも私は会計長を務めていて、そのときは完全にお飾りの役職名で実際はほぼ会計らしいことはしていなかったのだが、流石に高校の生徒会ではそんな風にはいかないようだ。


 どのくらい時間が経ったのだろうか。気が付けば窓の外はもう既に赤くなり始めていて、心做しか少し気温が下がったような気がする。手もすっかり冷えてしまって、中々思うように動いてくれなかった。

「うげっ、くさっ! 何やってるの」

 伊吹に声をかけようとしたところで、やたら陽気な声が廊下に響き渡った。

「えっ亜梨? どうしたの」

「何かめちゃめちゃ寒いのにめちゃめちゃ窓開いてるから何があったんたろうって気になって見に来たの。そしたら面白そうなことやってたからビックリしちゃった。何、発泡スチロールのお掃除してるの? 凄い量だね」

 バッチリ化粧をしているのに堂々と校舎に入ってきた亜梨は、鼻をつまみながら「生徒会って大変だね、こんなヤバいやつの相手しなきゃならないとか」と言って私の隣に座った。

「彼氏は?」

「今日塾あるらしいから早めに解散した。もう私ら受験生になるんだよ、ヤバくない? 夜食のせいで絶対死ぬほど太るじゃん」

「ぶれないね、勉強のこと心配しなよ」

「その辺はぶっちゃけ気にしてないんだよねぇそんな偏差値高くないとこ受けるわけだし。そう言えばガリ勉西山くんはどこ受けんの?」

「ん、急に話振ってきたな。俺はまだ決めてない」

「へぇ、意外。西山めちゃめちゃ即決しそうなのに」

「行きたい大学絶妙に偏差値足りてないんだよな」

 私と亜梨は地元の教育大学を受験するつもりなのでそこまで深刻に考えてはいないのだが、伊吹は中学生の頃からやたら偏差値の高い東京の大学を目指していた。そこそこ偏差値の高いこの高校で学年一位を取ることのできる生徒が受かるか受からないか、というレベルなのでかなりの難関大学だ。

「ふーん。残念だね薫。西山と学校離れるの」

「え、いや別に」

「強がんなって!」

 亜梨はそう言って力強く私の背中を叩くと、急にあっ! と大声を出して凄まじい勢いで立ち上がった。

「どうしたの?」

「やばい忘れてた。最近イチオシのイケメン声優が今日テレビに出るの。帰るわ」

「亜梨って声優とかに興味あるんだね」

「単純に面食いなだけ! イケメン最高」

 亜梨はスマートフォンの画面で前髪を整え、階段を駆け下りていく。ダダダダ、という大きな足音と危ないぞーという先生の気の抜けた声がした。私と伊吹は顔を見合わせて笑う。彼女は嵐のように現れて嵐のように去っていった。不思議な少女だ。

「……あんたは俺と離れたら寂しい?」

 発泡スチロールに漂白剤を吹きかける作業をほとんど終えたところで、少し不安げに伊吹がそう尋ねてきた。

「どうだろう。案外寂しくないかもしれない」

「え、あんた俺のことめちゃめちゃ好きなのに」

「その自信凄いね。まあ事実ではあるけどさ」

 伊吹は霧吹きの中身を流しに捨ててから、発泡スチロールに蓋をしていった。

「こんなこと訊いておいて何だけど、俺あんたのことあんまり心配してないよ」

「どういうこと?」

「俺はあんたのこと、ずっと俺と対等な奴だと思ってるから、あんたは強いって知ってるから、心配してない。もし寂しい? って訊いて寂しいって言ったら絶対にあんたは寂しがらないよって言おうと思ってた」

「何だそりゃ」

 私は控えめに笑って、開け放たれた廊下の窓を順番に閉めていった。

「あんたはずっと俺のことを神だと思ってるけど、俺は信頼できる相棒だと思ってる」

 恥ずかしげもなくこんなことを言えるのは彼くらいだろう。伊吹は笑いもせず照れもせず真っ直ぐにこちらを向いていた。

「あはっ、馬鹿だね」

「何だよ」

「さっきも言ったけど、そういうとこ。そういうとこが神様なんだよ。私はあんたと対等だなんて思ったことない」

 やはり私は、彼と並ぶことなんてできない。彼は普通の高校生で、どこにでもいる人間だって頭ではわかっているけれど、私よりずっと真っ直ぐで、馬鹿みたいにポジティブで、どこまでも眩しい彼は、私にとっては雲の向こうにいる神様だ。

「でも生徒会が終わっちゃう前には依存するの止めるから。大学が離れても、多分あんたの言う通り私は寂しくならないと思う。半年あれば人間変われるんでしょ?」

 私は、彼に憧れを抱いたその瞬間から狂っていた。彼に並びたいと思っても、彼の真似をしようと思えず、ただ彼の一歩後ろを歩いているだけ。とことんネガティブで嫌になってしまう。でも、それでいいのだと思う私もいる。

「よし、この発泡スチロールは明日片付けよう。帰ろう、伊吹」

「お、おう」

 微妙な表情をした伊吹にウインドブレーカーを返して、二人並んで校舎の外に出る。外はすっかり暗くなってしまって、春とは思えないような冷たい風が耳を、頬を、掌を冷していった。

 バス停へ向かう途中で、私はふと顔を上げた。背筋をしゃんと伸ばして私の少し前を歩く伊吹は、いつものように前を向いていて、そしていつものようにズボンの裾が雪で濡れている。

「伊吹」

「何」

「ズボン捲りな」

 そこで彼は初めて立ち止まり、「うえぇ……」と訳の分からない声を上げながらズボンの裾を捲った。

「学校出るとき上げたのにすぐ下がってくるな……どうしたらいいんだろう」

「どうもしなくていいよ」

「何でだよ」

 私は、伊吹といつか対等になれるのだろうか、と考えてみた。彼と良い友人になったり、はたまた結婚したりする未来はあるのだろうか。

 まあないだろう、と思って少し笑ってしまった。無理だ。彼はどうしようもなく神様だ。

 でもまあ、別にいいか。こんな不気味な青春も悪くない。あと半年間神から沢山のことを学んで、沢山頼って、そして彼から卒業しよう。

 だから私は、今日も彼の一歩後ろを歩くんだ。誰よりも真っ直ぐで下を向けない神のズボンが濡れていることを指摘するために、横に並ばず従者のように後ろを歩く。

「伊吹、ちょっと生臭い。それでバス乗るの大丈夫かな」

「うるせ。仕方ないだろ、不可抗力だ」

 白い吐息を追って空を見た。

 いつかはきっと、今の私にとっては大切なこの青春が幼稚で馬鹿馬鹿しく思える日が来るのだろう。でも、その日までは私は彼を神と呼ぼうと思った。

 私を変えてくれたこの男を、青春の中に閉じ込めてしまおう。

 神はズボンが濡れても気づかない。そのことがこれほど愛おしく思えるような青春を、少なくとも離別の瞬間までは大切にしよう。

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