さらしものに花束を

💐

　雨の音がうるさい。……そろそろあの人がやってくる時間だ。僕は机の上にある小さな鏡を見て前髪を整える。ナルシストではないが、なんとなく。

　ピンポーン

　チャイムが鳴った。こんな雨の日でも来てくれるのか。

「おじゃまします」

　あの独特な柔らかい綺麗な声。初めて聞いた時は女性かと思った。

「小川原先生、雨の中今日もありがとうございます」

「いえ。隆二くんはお食事はされましたか」

「さっき部屋の前行ったらお膳が置いてあって……半分は食べていたわ」

「よかった、今日は食べれたんだ。じゃあお部屋に入らせてもらいます」

　という会話が下から聞こえてきた。僕の家庭教師が今日も来た。小川原先生。見た目は髪の毛の短い女性、と言ったところだろか。本当は男性。先生自身も男だと言ってた。笑いながら。そんなこと言わなくてもいいのに。

　一年前に母さんが知り合いの紹介で見つけてきた。高校入学の数か月後にクラスに馴染めず不登校になった僕に勉強を教えに週三回平日の夜7時に来る。約2時間。それよりもオーバーすることもある。それは気にしない。先生との2時間は長いようで短い。

　来る前に僕は夕ご飯を済ませなくてはいけないがたまに喉が通らず残すこともある。三食三回部屋の前に食事を母さんが置いて行く。

　先生は40才前。独身で小柄。指は細くて綺麗。爪までしっかり整えている。口調は穏やかでわかりやすく勉強を教えてくれる。他にも仕事をしていてその帰りに僕の家に家庭教師としてやってくるのだ。

　本当に声が心地よい。学校にいるキンキンとヒステリックに叫ぶ奴やボソボソとつまらないことを言う奴らは本当にうざかった。それも不登校の一つの原因になった。奴らの声を聞かなくなったら体調は少し良くなった気がするがまだ本調子じゃない。まだ耳の中でまとわりついているかのようだ。

　他になにが原因なんだろう。高校受験に失敗して中学の仲良かった友人達とは違う高校に入ることになり馴染めなかったとか、親や中学の担任が僕の希望とは違った、彼らの高望みした進学校に進むレールを勝手に敷いて進ませたとか、たくさんありすぎて解決しないだろう。とかってに自分の中で分析するけど答えは出ない。

　母さんが言うには先生は過去にどこどこの有名な国立大学を卒業して、某有名化粧ブランドのカウンターで働いていたとかなんたらかんたら。

　彼の口から直接聞きたいけど、なかなか話が脱線せず僕の中では妄想が膨らむばかりである。

「隆二、先生来たわよ」

　僕は鍵を開けた。そして机に向かって椅子で待つ。その行動を知っている先生はノックの後、少し待ってから入ってくれる。

「失礼します」

　その声をまずは僕は聞きたいんだ。

　こだわりではないのだが、なんとなくその通りにしたい。

「こんばんは、隆二くん」

　優しく後ろから声をかけてくれるその声が好きだ。体の芯からなんとも言えない電気が走る。僕はその快楽を自分の中に閉じ込めバレないように平然を装う。こんなこと家族や先生にばれたらなんて思われるのだろう。

「こんばんは」

「先週はごめんなさいね、急に来れなくなって」

「いえ」

　休むことのなかった先生は珍しく先週は急遽休んだ。体調悪かったのか、理由はわからない。とてつもなくその週は退屈であった。なかなか勉強が進まなかったけど彼を困らせてはいけないと思って必死に自習したノートを見せた。

　先生はウンウン、とうなずきノートをめくって読んでいた。その姿を横から見るのも好きだ。横顔が素敵で、しかも綺麗に刈り剃られたうなじともみあげが美しい。芸術品を眺めているかのようだ。ずっと綺麗に整えられている。マメな人なのか？

「先々週分のところは、ここね」

　彼はとてもいい匂いがする。お父さんと年齢も変わらないのに肌も綺麗で。

「どうしたの？　あ、これ違う。こういうミスは多いのよね」

　どの表情も見惚れてしまう。仕草はまるで女性のようだ。でも薄ら髭の跡と喉仏を見ると彼が男性だということを思い出す。でも彼が男であろうが女であろうが関係ない。

　僕は意を決した。先週来なかった罰だ、と心の中で僕の口から質問してみた。

「先生はなんで家庭教師をしてるんですか」

　勉強を始めようとした先生は少し驚いたような顔をしていた。僕から質問することなんて滅多にないのに、勉強のことでもっていう顔。しばらく間が開く。ンーと考えて答えてくれた。微笑んで。その表情もたまらない。

「生きていくためよ」

　働かないとお金は稼げない。そういうことか。単純な回答に先生も人間なんだな、中学生ながらそう思った。

「自分の好きなことでは稼げない、って中学生の君に言うと夢を無くしてしまうわね。ごめんなさい」

　僕は首を横に振った。それはわかってる。父さんも夜遅くまで働いてて日を跨いで帰ってくる。家のローンもまだあるらしいし、僕が引きこもっているから世話をするために母さんが家にいて働かない分、苦労かけているのはわかっている。

　兄ちゃんも小さい頃からやっていた野球を去年の怪我でリタイヤせざる終えなくなって。親が勧められるがまま、元々頭が良かった兄ちゃんに指導者になるべく教師の道を目指すよう促していたが部屋で毎晩すすり泣いている。

「大学を卒業して好きなことをしたいために就職した会社、途中までうまくいったけどダメになってしまった」

「化粧品屋さんで働いててんだよね？　そこで何をしていたんですか」

「あら、知ってたんだね。話が早いわ。あのね……美容部員、お化粧品を売っていたの」

　男の人なのに化粧品を売っていたんだ。いや、先生なら違和感がない気もしないが。

　もっと聞きたかったが先生は次の教科書を出した。上手にかわした感じもしなくもない。もっと聞きたい。もっと勉強以外のことを話したい。

「隆二くんは何かやりたいことはある？」

「まだわからないよ」

　その通りだ。全くなにも先が見えない。ただ今は生きているだけだ。先生に会えることを生きがいに。というのは大袈裟すぎるかもしれないけど。

「でも隆二くん、星に興味あるんじゃない？あの天体望遠鏡、本も星にまつわるものばかり」

　先生、さりげなく僕の部屋を見ていたのか。僕から話したことはない。たしかに天体望遠鏡やら本やら置いてあるけどそれを聞いてくることはなかった。

　それに星にのめり込んでいたのは高校に入る前だ。僕はもっと星のことを勉強できて、有名な天体部もある高校に行きたかったけど閉ざされてしまった。ああ、それが一番大きいかもしれない。僕の不登校の理由は。

「星が好きならプラネタリウムのある博物館で働くとか、学校の理科の先生でもいい。どんな勉強して、どの学校に行って。でも好きな星のこと以外も勉強しなくてはいけない」

　星は好きだけどそこからどうすればいいのか、たしかに悩んでいた。とにかく星が好き。星に関わってたらなんでもいいやって。でもそれらを親や先生が閉ざした。

「あの、先生は化粧品屋さんはなぜ辞めたんですか」

　先生は動きを止めた。あまり聞くものではなかったかな。でも綺麗な桃色の唇は静かに動いた。綺麗にカールした睫毛のあるまぶたも何回か動いた。

「いろいろあってね。でも生きていくには仕事をしなくてはいけない。色々勤めたけど続かなくて。昼は接客業、夜は家庭教師をしてなんとか生活をしている」　

　接客業。化粧品売り場でなくても人と接している仕事についているのか。あ、家庭教師もそうだ。僕には接客業なんて無理だ。先生のような優しそうな人なら誰もが心を開きそうな気もする。でも僕はそれでも心は開けていないかもしれない。

「40前だけどなんとがやっている。まだあなたは14歳。人生これからだよ」

「だめだよ、こんなカタツムリみたいな人間は誰も相手してくれない」

「カタツムリ、上手い表現ね。でもカタツムリは引きこもってばかりじゃないわよ。少しずつ少しずつ前進してる」

　正直いうと高校前からもあまり人に馴染めなくて数人の親しい大人しいグループにただ固まっていただけだった。

　そしてカタツムリ、と言われたことがあって。強情なクラスメイトの女子と取り巻きたちに大声でそう罵られた。そしたら教室で聞いていたクラスメイトたちも真似してそういうようになった。とても辛かった。それ以来女子と関わることは避けた。クラスメイトも嫌になった。次第に周りとと少しずつ離れて小さなコミュニティの中に閉じこもっていた。　

　その中でも何か自分とは違う空気があって居づらいと思えて嫌だった。もう何もかもが嫌でしょうがなかった。

　でも一人星を眺めたり、図鑑を見ていたりする時はとても幸せだった。星は夜にしか見えない。だから日中は外に出なくていいんだ。夜になったら家から眺めればいいのだ。星のことだけ考えていたい。

「実は自分も引きこもりじゃないけど……殻に閉じこもっていた。あら、僕もカタツムリ、だ。そもそも男が美容部員だなんて、まず変だと思わない？」

　僕は頷いた。申し訳ないけど。でも先生なら綺麗だし……。

「私、実は同性愛者なんだ」

「えっ」

　同性愛者という人に初めて会った。

「あ、ひかないで。あとお化粧が好き。でね、昔から親の化粧品をこっそり借りてはメイクしてたし、高校生の頃からお化粧もしていた。髪の毛は男子は伸ばせないから土日はウイッグつけて、スカート履いて。大学はそんな規則はないから髪の毛を伸ばしてスカートとかワンピースも着て、みんなそれはそれで受け入れてくれた」

　先生はそのままでも女性だと言えるのではないか、髪の毛を長くすれば。僕はどきっとした。

「でも就活では男は髪を切り、耳を出す、それが決まりだった。泣きながら髪の毛を切りにいった。ウイッグがあるからいいけど、なんで……って。最初は他の人と同じようにスーツ着てネクタイ締めて順調に面接を受けた。最終面接前の三次面接で一緒のグループになったとある人にね、わたしの本性ばれてね。それまでバイヤー部門で働きたいと言ってたけど正直に美容部員になりたいって話したら、なぜ堂々とそれを言わないんだって怒られて」

　先生は採点しながら話していく。横から見ても美しい瞳は少しうるうるしてる気もしなくはない。辛いことを思い出させてしまったかな。

「そして最終面接の時に女性と同じように化粧をして新調した口紅もひいて、ウイッグもつけてヒールのある靴を履いて受けたわ。そして美容部員になりたいです、と告白した……面接官には驚かれた。だからもう無理だと諦めていたけど。なぜか通ったの。そして、美容部員にもなれた」

「すごい……」

　先生は首を横に振る。

「もうさっきも話したけどさ、やめることになるし。めでたく美容部員になってからが大変だった。男なのに、男のくせに……上司からひどい仕打ちも受けた。お客様からもひどい言葉をかけられた。おかまだの、気持ち悪いって。でもわたしはわたしを貫いた。一生懸命勉強して、お客様のことを知って、仲良くなって、指名もらって、売り上げを上げて経験を積んで……周りを味方につけて、たくさん苦労して5年目でようやくチーフになった」

「そんなに大変だったのに辞めちゃったんだね」

「カタツムリさんには言われたくないぞ、でも私もカタツムリ。同族よ」

　いきなり強い力で頭を撫でられた。意外と強い力で驚いた。

「本当、言われた通り。たしかに大変だったのにね。というかもうそこでは働けなくなっちゃった。そういうこともあるのよ、人生長いから何があってもおかしくないのよ」

　……もっと深く聞きたいけどダメかな。だって……。

「人生を絶望すること言ってごめんなさいね。でも美容部員やめたけどちゃんと昔一生懸命コツコツ勉強していたおかげでこうやって家庭教師の仕事もできた。もしかしたらあなたにこうやって会えなかったかもしれないわ」

「そうですか……勉強ならこうして家庭教師や参考書で十分です。学校には行きたくない」

「人間関係が嫌なんでしょ、学校だけでない、家の外から出たら必ず他人と会う。いくら好きな星のことでそれがきっかけで仕事ができても何かしら人と関係を持たなくてはいけない。生きていくためにも誰かと関係を持たなくてはだめなの。少しずつでいいから、無理せずにね。今はとにかく勉強、それからでもいい。少しずつ。さぁ、次やるよ……隆二くん」

　僕は頷いた。

「そうだ、これをあげる」

　と先生が首からネックレスを外して僕に渡してくれた。

「私を押してくれた人がくれたやつなの」

「なぜ僕に」

「これはお守りになった。わたしにとっていつでもお守りになった。でももう、わたしには必要ないわ。隆二くんにあげる」

　それについていた金貨がとても綺麗だ。でも少し赤黒く汚れてる。

「今度は隆二くんを守ってあげてね……なんちゃって」

　って金貨に話しかけている。そんな大切なものをなんで僕に。

「これだけは言いたい。私はありのままで生きた、でもそう上手くいかないのが人生よ」

　先生の目はすごく真剣な目をしていたがすぐに微笑んだ。

「さぁ、まずは基礎からね」

　今日は少し長めに授業をしてくれた。……こんなに先生は自分の過去を晒け出してくれたのに僕は晒け出すことはできなかった。

　僕も同性愛者だということを。そして先生が好きだということを。でもいいや。言わなくても。

　その時だった。僕の右手に温かいものが触れた。ふと見ると先生の白い手。ぎゅっと優しく握られた。

　まさか、見抜かれていたのだろうか。いや、わからない。

　それから数週間後。

「隆二、ちょっといいかしら」

　今日は先生の来る日じゃない。ご飯の時間でもない。

「隆二に話を聞きたいっていう人がいるの」

　誰なんだろう。僕はそっと開けたら見知らぬ大きな男の人がいてびっくりして慌てて閉じた。心臓がバクついた。息が上がる。何故だか。家の外から出たら必ずしも他人と会う……あの時の先生の話を思い出した。僕は勇気を持ってもう一度ドアを開けた。

「隆二くん、驚かせてごめんね。警察だ。この写真の男を知っているか」

　大きな男性と、隣にいた母さんくらいの女性は警察の人だった。

「知ってるかい」

　さっきから見ている男性の写真は確かに知っている。……先生、小川原先生だ。まさか僕のところに警察が来るとは思わなかった。

「ニュースでも知ってるよね？　名古屋で起きた連続殺人事件の容疑者なんだが……」

「勉強以外で何かお話ししていなかったかな？　詳しく教えてくれる？」

　後ろの方で母さんがソワソワしていた。　　

　……そういえば僕にくれたネックレスについていた赤黒い……あれは……。

「僕に勉強を教えてくれた、それだけです」

「本当にそれだけ？」

「はい、先生のおかげで今度の連休明けに学校に行くことにしました……いい先生でした」

「もっと詳しく聞いていいかな」

「いい先生、それだけです」

　僕はドアを閉めて鍵をかけた。どんどんドアを叩く音。うるさい、やめろ。

　先生は人を殺した。しかも何人も。あの白い手で。そして人を殺した手で僕の手を握ったのか。あの時の感触が今でも僕の手に残っている。僕はその右手を頰に当てる。あの体温とは違うけど。

　先生とあの日話してから僕はまず部屋から出た。家族と話をすることから始めたんだ。母さん父さん、兄ちゃん。

　休みの日に家族で久しぶりに外に出た。僕の好きなプラネタリウムを見に行った。そしたらクラスメイトに出くわした。

　なんでこないんだよ、みんな心配してるよ。なんて言われて僕は戸惑ったが帰ったらそのクラスメイトからメールがきていて話をした。長い時間。今度二人で会おうと話してくれた。そして夜だったから父さんがついてきてくれて、そのクラスメイトが何人か他の子を連れてきて話すことになった。

　いきなり多くてびっくりしたけどポッケに忍ばせていた金貨を握りしめて話をしてみた。そしたらそれがお守りになったのか、とても盛り上がった。隣にいた父さんもほっとしたようだ。そして連休明けに学校に戻ろう、と決心がついた。

　僕は寝るときには引き出しの中に入れていた金貨のネックレスを見た。これをもらってから部屋の外に出る勇気をもらえた。本当にお守りだったんだ。しかしその前に事件が起きた。

　テレビニュースではどこもかしこも連続殺人事件の犯人逮捕のニュースばかり。

　いつものあの微笑みではなかった。でも憂わし気な顔は美しかった。

　男の人を次々と殺した、理由は自分が男とバレて避けられたから、別れを告げられたから……しかも三年前には交際相手の男性を自殺に見せかけて殺したことも発覚したらしい。

　そんなことをするわけがない、でもあの時頭を撫でられた時に力が強かった。

　急遽家庭教師を休んだ日、先生はどうやら人を殺したようだ。自室のクローゼットに二人の遺体があったそうだ。自分よりも大きい男性をどのようにして。

　数日前、とある呉服屋の主人が川辺で死んでいたことがきっかけで事件が発覚したそうだ。

　また先生は昼、接客業で働いていると言っていたがそれは風俗であった。男性向けの。それもまた世間の人たちはいろんな推測をした。面白おかしく伝わる材料にもなった。

　知りたくもないのに僕が耳も目も塞いでも情報が入ってくる。僕の知らない先生のことが。

　ねぇ、なんで人を殺したその手で僕の手を握ったのですか。先生。

　警察が帰った後に居間に降りると父さんたちが僕を心配そうにみていた。

　新聞や雑誌、ずっと置いてある。そこには先生の起こした事件や過去のことがいろいろ書いてあった。

「殺人鬼がこの家に出入りしていたなんて怖いな。よかったな、隆二……お前に何もなくて」

　父さんは週刊誌を見ている。

「普段は女装が趣味で殺された男たちは彼を女だと思って付き合っていたそうだ。殺された奴らもなぁ、わからなかったのかよって感じだよ。でもたしかに男の人のわりには綺麗な人だと思ったけどね」

　と兄ちゃんはスマートフォンで先生のことを書いている掲示板をみている。

「普段は風俗もしていたって……男性相手に。よかったわ、何もなくて。隆二に」

　母さんはずっとワイドショーばかり見てる。

　……先生、どうしちゃったんだよ。そんなことする人に見えなかったよ。

『私はありのままで生きた、でもそう上手くいかないのが人生よ』

　その先生の言葉が思い出される。僕はテレビを消して、新聞や週刊誌を破り、兄ちゃんのスマートフォンを床に叩きつけた。何か割れた音がした。しまった、とは思ったけども。

「何をするんだ、隆二！」

　僕は階段を駆け上がり自室に閉じこもった。

　やりすぎたかもしれないけど僕のなんとも言えない感情を、どう吐き出せばいいかわからなかった。

　僕は翌朝、家族に謝った。取り乱してしまったと。兄ちゃんのスマートフォンは丈夫だったのかケースの破損だけだったそうだ。

　あの優しかった先生、過去のことを少し話してくれたけど、これ以上知らなくてもいいかもしれない。僕は先生のニュースを遮断した。家族も自然とそうしてくれた。

　そして連休明けに学校に行くと事前に会ってたクラスメイトたちが僕のところに来てくれた。抱きしめてくれる人もいた。

「お前男だろ、気持ち悪い」

　と笑うやつもいたが、そう言ったクラスメイトに僕が抱きつくとみんな笑って抱き合った。

　それを見てクラスメイトの女子たちが

「きっしょ」

　と陰口叩くが、彼女たちの話題はワイドショーで毎日のように報じられている美しすぎる殺人鬼と讃えられていた先生の話題で持ちきりであった。中性的で綺麗な顔や過去の写真がネットで流れ、それを見た人たちが男女問わず崇拝していてネットでファンクラブがあるというのも聞こえてきた。くだらない。

　男子たちは興味がない。ただただ笑ってくだらないことを話してサッカーして。

　勉強も毎日して。踏み出せなかった外の世界。それを押してくれた先生が……なんで。

　でも時が過ぎると共に事件も風化され、他のスキャンダルやニュース、政治、災害に上塗りされて一部女性との中には先生の信者はいたものの、話題はほぼ無くなっていた。

　僕もあの手の感触、忘れつつあった。

　◆◆◆

　そしてあれからどれだけ時が過ぎたのだろう。今日、ニュースで先生が死刑執行されたと報じられた。

　ネットでは彼の死を嘆くものもいた。今の彼の姿を見たいと傍聴席求めて長蛇の列ができていたこともあった。歳を重ねても美しい姿であった先生。

　僕はあれから一生懸命勉強をし進学、　して天体研究などをしていたが、大学在学中に趣味として書いていた小説を出版社に何度か送り、その中の一つが書籍化したことをきっかけに児童文学の小説家になったのだ。人生何が起きるかわからない。　

　連載もいくつか抱えて、また部屋に篭るカタツムリ生活に戻ってしまったが出版社の人や編集の人、記者などといろんな人と外で話すこともしている。実家から離れて一人暮らしをし、たまに友達や家族と会って話すのも息抜きになっているがほとんど毎日のように家に篭っている。

　結局僕はカタツムリだ。特に恋人はいない。できたこともない。好きな人もいない。あの先生の声の柔らかさ、手の感触を知ってからはもうそれを超えるものはなくて。

　そして忘れていたはずの先生のこと。手紙を一度もらって、それから何度か面会をした。僕が小説家になったことを知ったようだ。僕への詫びと本を読んだ感想を添えて贈られた手紙。

　そして、先生は僕に半生と事件のことを話してくれた。

　それを今度まとめて僕が書籍化することになった。過去のことも、どうして犯罪をしたか、会えない時は今の気持ちなど何度も手紙を交わした。　　

　本当はこんなの書きたくなかった。

　依頼をもらったきっかけは僕が先生に家庭教師をしてもらっていたことをふと出版社の担当に言ったことだった。

　僕は断ったが、だったら違う作家に書いてもらうと言われ、それだったらと僕は書いた。書くからにはしっかりと先生のことも知らなくてはいけない。先生はあなただからこそ話せる、と言ってくれた。今思えば小説家になった僕を利用していたのか。いや、違う、違うさ。

　被害者遺族は事件が事件だけに週刊誌に追われたり、近所からの目に耐えられずに引っ越ししたり、とある被害者の妻と子供が心中をしたことも報じられた。

　何度か僕も取材で遺族に会いに行ったが追い返された。持って行ったお供えの花で叩かれた。それほど悲しくも辛い、彼らもまるで加害者のような扱いを受けたのだ。　

　中には書籍を出版するな、と抗議をした人もいた。加害者を美化するなと。僕もできれば書きたくなかった。出版社は発売を押し進めた。

　でも先生は求めた。自分の生き様を曝してでも少しでも多くの人にありのままに生きることを伝えたいと。

　書いているうちにとても体が震え、苦しく、吐き気もして叫ぶ時もあった。それは先生の感情か、被害者の感情か。なんで僕はこれを書いているんだ、混乱したこともあった。これが書きたいことだったのか。でも僕でないと書けない、そう言い聞かせて。途中で子供向けのファンタジーの連載が書けなくなり休んだこともあった。だが先生と話をしていくうちにこれは書き上げなくてはいけない、とカオスな思考の中、他の連載も再開しながら書き切った。

　時にはお前は小川原の信者になったのかとまで言われたが、確かに僕も先生の魅力に取り憑かれていたのかもしれない。被害者の男たちと同じように。あの手を握られたときからジワジワと。

　髪を短く切り揃えても、痩せ細っても先生は美しかった。

「小川原先生のおかげで学校も通って少なからず友達もできて、勉強もたくさんして新しい道を見つけることができました」

「全く星に関係しないことになっちゃったけど」

「いえ、星は趣味程度で……その知識も役立ってますし」

「そうね、子供たちが読む星座ファンタジーを書いていた作家が書く犯罪事件のノンフィクション小説……」

　僕は首を横に振った。ガラスの反射で僕の顔はやつれきっていた。こんな顔で会ってたらそんなふうに心配されるのも当たり前だろう。

「……隆二くん、もうあなたはカタツムリじゃない。一度そう言ってしまった。ごめんね」

「いえ、カタツムリですよ。でも僕は子供たちのために自分らしく生きていけるよう勇気を与えられるような作品をたくさん書いていきました。先生のおかげで今の僕がいます」

「これからも子供たちのために、いろいろ伝えてあげてね」

「はい」

「もう私は伝えられないから」

「……」

　何かを悟っていた彼の目は、痩せてくぼんでいたが、美しかった。

「ほんと、隆二くんも素敵な男性になったね」

　と最後の言葉はそれだった。今でも耳に焼き付く。僕の好きだった優しい声で。

　そしてその後の死刑執行。僕は首にかけている金貨を見た。

「先生……」

　金貨はキラッと光ったような気もしたが気のせいだ。よく見るとイニシャルが刻印されている。m.o もう一つも何か刻印されている。きっと幸せな日々を送っていたのだろう、もらったときには。

　部屋から出た。そしてそのまま花屋に向かった。先生に供える花を買いに。

　終