終章
男が帰った後、僕は真っ暗なリビングで、椅子に座ったまま虚空を見つめ続けていた。眠れる気配はなく、頭の中はごちゃごちゃと色々なことを考えていた。
部屋の中を見渡すと、彼女との生活の残滓をいたるところで感じた。彼女と選んだ家具、彼女と一緒にご飯を食べたテーブル、一夜を共にしたベッド……彼女が言ったことや細部の情景は思い出せるのに、肝心の彼女の名前や客観的な情報は何一つとして思い出せない。
やはり、あの男の言う通り、「彼女」は僕の妄想で、僕の求める『幸せ』の歪な偶像に過ぎないのではないか? 僕は、もうすでに気が狂ってしまったのではないか?
そんなことを考えると怖くて、目をつぶることすらできなかった。
思い返せば、今日であった人々は皆それぞれに『幸せ』を探していた。自撮りをしていた女性は雑誌に、コンビニを破壊していた男はルールを破ることに、あの美しい女は自分を抱く男や麻薬に、麻薬の密売をしていた男は美しい女に、それぞれ『幸せ』を求め、そして全員がその『幸せ』に満足できていないように見えた。僕はそんな彼らの姿を見て、心のどこかで哀れに思っていたのかもしれない。満たされないまま終わっていく彼らを、どこかで嘲っていたのかもしれない。
なぜなら、僕が求める『幸せ』は『彼女』に他ならなかった。僕の愛した『彼女』さえ見つかれば、僕は誰よりも幸せなシュウマツを迎えることができると確信していた。
でも、その『彼女』は僕の孤独と『幸せ』を求める心が生み出した幻想なのかもしれない。すべては僕の一人芝居で、僕はとうの昔に狂っている。信じたくはないが、そう考えると色々なことの辻褄が合うような気がした。
「……死にたい」
暗い部屋の中で、僕の小さなつぶやきが響いた。彼女が何か返してくれることを祈ったが、当然返事はなかった。
そして、僕は何もかもどうでもよくなって、失意のままに目を閉じた……。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「……いでででで!!」
「あ、起きた」
頬に走る鋭い痛みに、僕は目を覚ました。どうやらリビングで眠ってしまったらしい。僕の目の前には美鈴が仁王立ちしている。わざとらしく口を膨らましているが、可愛らしいエプロンをつけているせいで全く威厳がない。
「こんな日によく眠れるね。図太いっていうか、なんて言うか……」
「ご、ごめん。昨日遅くまで起きて小説書いてたから……」
「全く……しっかりしてよね。いくら日曜日だからって寝ぼけすぎ! もうちょっとでご飯できるから」
そう言って美鈴はキッチンに戻っていった。彼女は焼き立てのパンみたいな温かさがあって、料理とは別にいい匂いがした。足取りはどこか危なっかしいが、彼女の通った道には金色の帯のようなものが続いた。
「今日のメニューは新作だからね! 毒味、付き合ってよ?」
「こんな日まで新作試すのかい? 得意料理とかにした方が……」
「何言ってんの! こんな日だからこそ新しいもの作るの!」
彼女の声は透き通っていて、田舎の小川が流れるようだった。
僕はキッチンまで歩いて行って、美鈴が料理をする姿を覗きに行った。美鈴は真剣な顔でオーブントースターとにらめっこしている。料理に髪の毛が混ざらないように眺めの髪を縛っていて、手にはピンク色の鍋つかみをつけている。何もかも、見慣れたいつもの風景だった。
「……何よ。じろじろ見て」
「……なんだか怖い夢を見たんだ。細かくは覚えてないんだけど、君のことを忘れる夢だった……と思う」
「あら、それは大層怖い夢だったんでしょうねー……。ちょっと邪魔だからあっちで待っててくれる? あと五分で終わるから」
「冷たいなぁ……」
美鈴が構ってくれないので、僕はリビングに戻った。ほとんど何の意識もせずにテレビをつける。そう言えばもう番組なんてやっていないことを思い出し、すぐに消した。一応ラジオをつけてみたが、同じ内容を繰り返すだけだったのでこれもまたすぐに消した。
部屋中にいい匂いが充満していく。僕の腹の虫が限界を告げた時、美鈴が料理を持ってリビングにやってきた。
「おまたせー。多分、美味しくできたと思うよ~」
「多分って……これで美味しくなかったらどうするつもりだよ……」
「いいじゃん。それはそれで。美味しいだけが料理じゃないぞー」
そう言って美鈴は笑った。柔らかい笑顔を見ていると、僕の心まで柔らかくなるのを感じた。
「……美鈴。あのさ」
「なに? 改まって」
「『幸せ』ってさ。誰かに与えられるものじゃないよな」
「なによ急に……。まあ、そりゃそうでしょ。自分が『幸せ』って思えることは、自分で決めなきゃ意味ないと思う」
「うん。でもさ、その『幸せ』って、他の、誰か一人でも、理解したり、分かち合ったりしてくれる人がいないと『幸せ』にならないって思うんだ」
「……まあ、そう、かもね」
僕は一息置いて、自分にできる一番の笑顔を向けて美鈴に言った。
「だからさ。ほんとに、ありがとう。君と一緒に入れて、僕はとっても『幸せ』だ」
僕が美鈴の顔をしっかり見ながらそう言うと、美鈴はきょとんとした顔をして、それからぐしゃっと顔をゆがめた。ポロポロと涙がこぼれ始めた美鈴の顔は、本当に綺麗で、それを横で見ていられる僕は『幸せ』なのだと実感できた。
「……もー。そんなこと言わないでよ。泣けてくるでしょー?」
「泣いてるじゃん」
「うっさい。早く食べよ? 新作、ちょっと自信作なんだ」
「うん。いただきます……。味の感想、言った方がいい?」
「え、うーん。酷評以外で……」
「しないよ、そんなこと……あ、そう言えば小説、完成したよ」
「あ、読みたい読みたい! 食べ終わったら読ませて!」
「……間に合うかな。もしかしたら読み終わる前に……」
「あーそれは悔やんでも悔やみきれないねぇ……まあ、マッハで読むよ」
「いや、味わってくれよ……」
「感想、言った方がいい?」
「……酷評以外で」
「あはは……善処します」
「確証をくれよ……」
僕らはそれから、美鈴の作った料理に舌鼓をうち、僕の書いた小説を二人で読んで、いいところとか最後まで治らなかった書き癖とかを話し合った。僕も美鈴もずっと笑顔のままで、時には下品なくらいにげらげら笑った。そうしているうちに夜は更け、もうすぐ日付をまたぐ時間になった。
僕は時計を見て伸びをする。美鈴の方を向くと、彼女もこっちを見ていた。僕らは目を合わせてにっこりと笑った。
ああ、今日は、最高のシュウマツだ。
シュウマツの過ごし方 1103教室最後尾左端 @indo-1103
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