第5話

 家に戻れば彼女がいるかもしれない。そう思うと自然と足取りは軽くなり、どんどん歩くペースは速くなった。最後の方はほとんど走るぐらいの速度になっていた。

 自分の家が見えた時、僕の心は踊った。家の電気がついている。彼女が帰ってきているに違いない。僕は扉までダッシュし、体当たりするように扉を開けた。


「「うわぁぁぁぁああああ!!」」


 僕と、部屋の中にいた人物の驚きの声が重なる。

 そこにいたのは彼女ではなく、薄汚い初老の男だった。


「空き巣……ですか」

「そうなんですよ。鍵がかかってなかったので、空き家かと思いまして……」


 男はやせ細っていて、今にも倒れそうな様子だった。身体は異臭にまみれていて、しばらく風呂に入っていないように見えた。


「もう金目のものなんて意味が無いのに、どうして泥棒なんてしたんですか?」

「簡単ですよ。食べるものがなかったんです」


 初老の男はあっけらかんと言った。もしかしたらもう何度もこういう場面に出くわしているのかもしれない。


「食べ物って……その辺にあるじゃないですか。コンビニとかで……」

「コンビニの食糧なんてとっくになくなりましたよ。私達みたいに家を持っていない人間が備蓄できる食糧には限界があります。滅亡まで生き残るためには、やっぱり食べなければならない。どうしても誰かから盗まなければならないのです」

「……それで空き巣になった……と?」


 目の前の男に少し同情してしまった。確かにとって安定して住むところがない浮浪者にとって、こんな状況での食料の確保は非常に困難に思えた。武力があれば強盗もできるだろうが、このやせ細った初老の男が殴り合いで住処を得て、維持することなど不可能に違いない。空き巣を働いてしまうのも道理だろう。


 しかし、男は首を横に振った


「いえ、空き巣自体は十数年前から……別に隕石の衝突とか地球の滅亡とかの話が出る前から私はホームレスでしたから……」

「え、そうだったんですか……」

「ええ、自分の会社が倒産してから、ずっとホームレスです。時々当面の活動資金を確保するために空き巣には何度か……」

「な、なるほど……」


 僕が面食らっていると、男は申し訳なさそうに言った。


「あの、空き巣に入って図々しいお話だとは思うのですが……何か食事を恵んでいただけませんか?」

「……ああ、もう、いいですよ」


 僕は面倒くさくなって、そう言い放った。



「美味しい……本当に生き返りましたよ……」

「それはどうも。食べたら出て行ってくださいね」


 僕が渡した硬いパンを、男はみっともないくらいガツガツと食べ、満足そうに腹をさすっていた。また狙われても面倒なので、何日分かの食料と水も渡しておいた。


「ああ、世紀末でもこんなに優しい方がいらっしゃるんですね……本当にありがとうございます。なにかお礼を……」

「いや、本当に結構なので、早く出て行ってください」


 男の髭には食べかすが付いていて、身体からはひどい臭いがしていた。早いところ僕の家から出て行って欲しいというのが正直なところだ。


「……わかりました。それでは……」


 男がそっと扉を開けて外に出ようとしたところ、僕は彼女のことを思い出して呼び止めた。


「あ、ちょっと待ってください。あなた、何時くらいからこの部屋にいましたか?」

「え……あなたが帰ってくる、十数分前だと思います」

「あの、その時にこの部屋に彼女……女の人がいませんでしたか?」

「……いませんでしたよ」

「そう……ですか」


 一瞬浮かんだ期待がすぐに潰えて、僕は意気消沈した。そんな僕の様子を気遣ってか、男はおずおずと僕に話しかけてきた。


「あの……その方はあなたの恋人……ですか?」

「まあ、そんなところです」

「姿を消してしまったんですか?」

「ええ。今日一日中この街を探して回ったんですがね、どこにもいませんでした」


 疲労交じりの僕の声を聞いて、男は僕の顔をのぞき込んできた。その目はどこか不気味で、僕を貫通してもっと遠くを見ているような表情だった。


「あなた……随分苦しそうですね」

「そうですか? まあ、今日は歩き回ったので疲れましたが……」

「いえ、あなたは『幸せ』に毒されています。このままでは苦しみながら地球の終わりの迎えることになるでしょう」


 男の声にどんどんハリが出てきた。どこかの教祖のような、禍々しい説得力が声に現れ始めた。もしかすると、この男はホームレスになる前はその手の職業についていたのかもしれない。


「『幸せ』に毒されている……ですか」

「はい。あなたは『幸せ』を求めるあまり、気が変になっているのかもしれません。まともな判断ができなくなっているように見えます」


 その断定的な口ぶりに、僕も思わずムッとして言い返した。


「いや、この世の終わりが近づいてるのにまともでいられる人間なんているわけないじゃないですか。僕がおかしいわけじゃないですよ」


 そう言うと男は大仰に首を横に振った。


「いいえ、私が正常なので、あなたは異常だとはっきり言えます」

「はい? どうしてあなたが正常だなんて言えるんですか? 言い方は悪いですけれど、あなた、ホームレスですよね? どうしてあなたの方が正常だって断言できるんですか?」


 僕が少し語気を荒らげても、男は驚くほど鷹揚に僕の言葉を聞き流した。


「私にとって、地球最後の日とかって関係ないんですよ。毎日を生きていくのに必死ですから。週末に地球が滅ぼうが、十年後に滅ぼうが、百年後に滅ぼうが、私はともかく今日を生き延びなければならないんです。だから、何も変わりません」

「それは……」

「人生を落胆なく生きるコツは、何の期待もしないことです。何の幸せも期待しなければ、今生きることにだけ集中していれば、幸も不幸もなくなります。余計なことを考えず、食べて、寝る。そのために働く。それだけ考えていればいいんです。それなのに、人間は余計なことに手を出しすぎたのですよ。将来のこととか、自分の『幸せ』の形だとか、そういうことばっかり小難しく考えているからあなたのようにおかしくなるんです。こうして地球が終わりそうになるたびに無様にジタバタするんです」

「ふざけるな! どうして僕があなたに気狂い扱いされなければならないんだ! 何の証拠があって僕のことを異常だって……」


 僕がそこまで言うと、男はじっと僕の顔を見た。その視線の圧力に押され、僕は黙ってしまった。男の視線はより強く、そしてより虚ろになった。僕はその眼球に畏怖さえ覚えるようになり、この男がホームレスであること、僕の家に空き巣に入った小汚い男であったことも意識からとんでしまった。


 男は僕の顔を凝視した後、哀れむような表情になって、ゆっくりと話し始めた。


「では……あなたのいう『彼女』。お名前は……?」

「……あなたに関係あるんですか?」

「……覚えていないのですね? それでは容姿は? 背格好は?」

「……だから、あなたには」

「やはり覚えていないのですね……ねえ、あなた。おかしいと思いませんか? あなたの最愛の人間の名前を憶えていないなんて。客観的な情報が一つも思い出せないなんて。それなのに、細かいことばかり覚えているなんて……どう考えてもおかしい」


 図星をつかれ、僕は言葉に詰まった。でも……。


「……そんな話、あなたにはしていない」

「そんなの些細なことです。私はなんでも知っている」


 男はそう言うと何かを仰ぐように頭を天井に向けた。


「このおかしな矛盾に合理的な結論をつけるなら……これしかありません」


 ガクンッと首をもとの位置に戻して、はっきりと言った。




「『彼女』なんてもともといなかったんですよ」




 男が何を言っているか、僕には分からなかった。


「な、なにを……」

「あなたは実在しない『彼女』を頭の中で作り上げてしまったんですよ。世界の終わりが近づいて、あなたは自分の『幸せ』を求めるあまり、『幸せ』を捏造してしまったんですよ。自分がどんな風に過ごせたら幸せか、どんな女性が隣にいて欲しいか、そんな『幸せな』妄想があなたの中でどんどんリアリティを増して、最終的に現実と区別がつかなくなってしまったんですよ」

「バカなことを……じゃあ僕が覚えている彼女との思い出は……」

「夢の中ではどんなバカげた設定でも何の疑いもなく受け入れることができるでしょう? それと同じですよ。あなたはありもしない自分の『彼女』との妄想の『幸せ』な生活を、事実のように受け入れてしまっているんです。でも、妄想はどこまで行っても妄想です。『彼女』の具体的な話になると、あなたは何一つ説明できない。そりゃあそうでしょう。だって『彼女』なんていないんですから!」



「黙れ!!」



 僕は玄関に置いてあったコンビニの傘を男に投げつけた。そして体当たりをするように男を家のドアから追い出し、急いで鍵を閉めた。


 激しい動悸がする。心臓が壊れそうな勢いで動いている。男の残した言葉が頭の中をぐるぐるとめぐった。


 彼女がいない? そんな馬鹿な話があるか? これまでずっと一緒にいたはずだ。それも全部僕の妄想? 気持ちの悪い創作? そんなこと、あるはずない。


 しかし、そう思おうとすればするほど、強い疑念が僕の頭に浮かぶ。


 結局僕は「彼女」の名前すら思い出すことができていない。


 「彼女」のいないシュウマツを、僕はどうやって乗り切ればいいのだろうか。僕にはさっぱり分からなかった。

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