第4話
公園を出て、僕は自分の家へととぼとぼと歩いていた。結局彼女に関して何の手がかりも得られず、意気消沈していた。あたりはすっかり暗くなっていて、雨はもうやんでいた。コンビニから借りてきた傘と、自分の足を引きずりながら歩く帰路は陰鬱だった。
そう言えば、彼女はいつも傘をなくしていた。ビニール傘を持たせると、百発百中で忘れてきた。
「だってあの傘ってなんか私のものって感じがしないんだもん」
「まあコンビニの傘って全部同じ形だし、みんなも同じもの持ってるから自分のものって感じがしないのは分かるけどさ……」
「だからなくしてもあんまり心痛まないっていうか……だから忘れないようにしようって意識が持てないんだよね」
「じゃあちょっと高いけどちゃんとした傘買えば?」
「え、そんなの買ったら無くした時へこむじゃん」
そんなことを得意げに彼女は言った。そんなことまで覚えているのに、彼女の名前も容姿もどうしても思い出せない。
「あ、さっきの奴!」
大きな声が背中から聞こえてきた。どこかで聞いたような声だ。何事かと振り返ると先ほど、若い女と公園でセックスをしていた男だった。
「ああ、あなたか……」
「おい、流してんじゃねえぞ。ちょっとこっち来い」
そう言うと男は乱暴に僕の上着の襟首をひっつかみ引っ張った。そして僕を植え込みの方に向かって放り投げた。僕は態勢を崩して、名前も知らない緑色の植物が生えた植え込みに突っ込んだ。
「痛いな……僕に何か用?」
男はしゃがみ込んで僕の髪の毛をつかんだ。
「さっきお前、あの女と喋ったよな? 何を話した?」
その表情は、僕を威嚇しようとする一方で、女が話した内容について本気で不安に思っている様子が見て取れた。よく見るとこの男もあの女に負けないくらいに端正な顔立ちをしていた。
「ああ、ちょっとね。彼女の話を少し聞いたよ」
「……俺のこと、何か言ってたか?」
「そうだな。君とのセックスは最高だった、そう言ってたよ」
客観的に評価しても、丸見えのウソだったと思うが、僕がそう言うと男は少しだけ安心したように表情が若干緩んだ。男は僕の髪の毛から手を離した。
「……そうか、そりゃそうだよな。俺はいろんな女と寝てきたからな」
「若いのに経験豊富なんだね」
「まあな。でもあんなにいい女は初めてだった。巨乳だったし、なのに全然太ってねえ。顔も滅茶苦茶かわいくて、完璧だったぜ」
男はどこか得意げな様子だった。
「君、あの子にクスリ、売ったのかい?」
「……そんなことあの女が言ったのか?」
「まあ、そうだよ」
「……ちっ。余計なことを……」
男は露骨に不機嫌になった。どうも喜怒哀楽がはっきり出るタイプの人間のようだ。なんだか少し可愛らしく思えてしまった。
「……そうだよ。あの粉をアイツに売ったのは俺だよ。あいつの身体と交換でな」
「どうしてそんなことしてるんだい?」
「あ? なんでそんなこと……」
男は面倒くさそうに僕の方を見たが、「ま、いいか」とだけ言って話し始めた。
「俺はさ、もともとチンピラでさ。ヤクザの下についてヤクの売買とかやってたわけよ。下っ端も下っ端。あほみたいな雑用とかしょーもない仕事ばっかりやらされて、ミスればどつかれる、そんな日々を送ってた」
でも、と男は言葉を切った。顔がまた少しだけ得意げになる。自分の武勇伝を語るときの中学生みたいにも見えた。
「地球が終わるってニュースが流れた瞬間、俺はピーンと来た。金とか組織とかそういうもんが全部ぶっ壊れる。そしたら皆がすがるもんは何か……お前に分かるか?」
「……見当もつかないな」
僕の返事を聞いて、男は嬉しそうに続けた。
「快感だよ。結局、自分の人生が終わるって思った時、人間は気持ちいいことがしたいに決まってる。そう気づいた俺は自分が扱っていた大量のシャブを全部組織から持ち逃げしたんだ。ヤクザのアホどももすぐにシャブの重要性に気づいたみたいだけど、上下関係とか組織の中身とかはぐっちゃぐちゃになってたからな。俺を追ってこれる奴はいなかったわけよ」
「……それで、売人になった、と?」
「そうそう。そうやって女を抱きまくったんだ。びっくりするぜ、自分が今まで絶対に手が届かないと思ってた美人が喜んで俺のチンコ咥えるんだ。そんで俺の上であほみたいに腰を振るんだ。最高の気分だった」
男はケタケタと笑った。僕は黙って聞いていた。男はしばらく笑った後、大きくため息をついた。
「……でもよ。段々馬鹿馬鹿しくなっちまった。いい女とヤるってのは男にとっては人生の目標みてえなところがあんだろ? 人生の最後に他にやることっつって真っ先に思い浮かびそうなもんじゃねえか」
「……そう、かな」
「ははっ。いい子ぶんなよ。結局男なんて下半身で生きてんだろ……って言いてえとこだけど、やっぱ違えのかな」
男は地面に尻をつけて胡坐をかいた。そして、そのままゴロンとあおむけに寝転がった。
「いい女と沢山セックスできれば、なんか幸せになれるような気がしてたんだけどな。やればやるほど虚しくなっちまう。こんなもんかよってな。もしかすると、俺の目が肥えちまって、もっと美人じゃねえと物足りなくなってんのかもしれねえけどよ」
僕は黙って男の言うことを聞いていた。男はずっとしゃべり続けた。もしかしたら、自分の考えていることを誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。
「寄ってくる女もそうだよ。女ってさ、もっとわけわかんねえ生き物だと思ってた。どこかで届かねえ生き物だと思ってた。なのに、あんな粉一つで俺に大股開くんだぜ? 結局気持ちよくなりたいだけかよってさ。何かがっかりだよ。この世の謎を全部解いちまったような気分だ」
そこまで話すと、男は身体を起こして僕の顔を見ながら言った。
「なあ、そう言えば、お前『彼女』いるんだって? どんな奴なんだ? 美人なのか?」
「いや……さっきのあの子みたいに美人じゃないし、身体もセクシーじゃなかった……と思うよ」
「思うって……なんだよそれ」
「……思い出せないんだ。彼女のことが。名前も、姿も、説明できることは何一つ覚えてない」
「……記憶喪失ってやつか?」
「かもね。でも断片的に覚えてることはいくつかあるんだ」
「お、例えば?」
男は少し身を乗り出した。コミュニケーションに飢えているようにも見える。誰かと話せることがうれしいのかもしれない。
「そうだな……リスみたいに口に沢山物を入れて食べる所とか、美味しい食べ物だと逆にもったいなさそうにチマチマ食べることとか、お腹が減るとちょっとだけ不機嫌になることだったり、寝相はめちゃくちゃ悪い癖に寝起きの笑顔は穏やかだったり……」
思い出せる彼女の特徴とか経験を挙げていく。男はふんふんと頷いていたが、いつの間にか頷くのをやめていた。
「やめだ。やめてくれ。おっさんの惚気話なんて聞いてられねえ」
「いや、彼女のことを聞いたのは君の方で……」
「それってよ。お前にしか分からない彼女の特徴だろ? そんなもん俺に言われてもどうしようもねえことくらい分かるだろ」
そう言うと男は右手を僕の前でしっしと振った。
「とっとと家帰れ。明日になったら戻ってくるかもしれねえだろ」
男はそのまま僕の前から立ち去っていった。
身体についた汚れをパタパタと叩いて落としてから、僕は家路に向かった。男の言葉のおかげで先ほどよりも少しだけ前向きになれた。家に帰れば彼女が帰って来ているかもしれない。そう考えれば足取りは少しだけ軽かった。
それにしても、あの男はこの後どうやって生きていくのだろう。今、この世界で一番需要のあるものを持っているおかげで、どんな人間も従えることができる。そのせいで世界の単純な仕組みに気づいてしまった男。
そんな男がどんなシュウマツを送るのか。僕には分かるはずもなかった。
僕はとにかく彼女を見つけなければならなかった。
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