第3話

 雨がしとしとと降る中、僕は彼女を探して歩き続けた。靴の中に水が入って、靴下が濡れていく。不愉快な感覚の中、僕は彼女がいそうな場所を探して回った。


 行きつけのカフェ、本屋、映画館、レストラン、色々回ってみたが、どの店も既にほとんど廃墟となっていて、彼女どころか人っ子一人いなかった。


 靴の中に水が溜まり、ぐちゃぐちゃと嫌な音が聞こえる。冷たさに段々と指先の感覚がなくなっていく。彼女が見つからない焦りと、彼女の名前さえ思い出せない自分に苛立ちを覚え始めていた。


「靴下が濡れるとこの世のすべてがどうでもよくならない?」


 前に彼女がそんな話をしていたような気がする。


「大げさな……でも分からないでもないな」

「『完全防水!』なんて謳ってる靴の中に水が入ってくるとすっごい気持ち悪いのに、サンダルみたいな最初から濡れること前提にしてるやつだといくら濡れても何とも思わないのは何なんだろうね」

「心の準備じゃない? いつ濡れてもいいっていう準備ができてればそんなにそんなに気にならないんじゃないか? 逆に、濡れるって思ってない時ほど、濡れた時嫌な気分になるのかも」

「そっかー……よし! 私はもうずっとサンダルしか履きません! いつ濡れてもいいように!」

「……それもどうかと思うよ」


 それから、本当に彼女はサンダルばかり履いて生活するようになった。夏はもちろん、秋でも冬でもサンダルを履いていた。一度思いっきり電柱に小指をぶつけて悶絶していたこともあったが、それでもサンダルを履いていることが多かったように思う。


 こんなにどうしようもない事ばかり覚えているのに、肝心の彼女の名前が出て来ないのはどういう事だろう。僕は半分泣きそうになりながら街中を歩いた。今日みたいな日にこそ僕はサンダルを履いておくべきだった。日も暮れかけてきた。もともとグレーの空がさらにその色を暗くしていった。


 いつの間にか、公園についていた。遊具はほとんどない殺風景な公園だったが、しばらく前から手入れがされていないために雑草が茂っている。この公園には彼女ともよく来ていた。へたくそな癖に彼女はスポーツが好きで、よくこの広いだけで何もない公園でバドミントンをした。運動が終わると、よく屋根が付いているベンチで彼女が作る弁当を食べたことを覚えている。


 彼女がいるかもしれないと思ってベンチに向かった。彼女は残念ながらいなかったが、二つの人影が見えた。よく見ると、半裸の男女がまぐわっているようだった。男も女も声を抑えようとしておらず、獣のような喘ぎ声が僕の耳にも届いた。


 どう考えても僕は彼らを無視するべきだった。気づかないフリをして通り過ぎるべきだった。関わり合いになれば絶対に面倒なことになるに決まっている。


 でも、あのベンチは僕にとって、彼女との大切な思い出の一部だった。だから、あんな使われ方をされることが許せなかった。


「ちょっと! そこで何やってるんですか!!」


 僕が大きな声を出すと、二人の動きと、獣のような声が止んだ。頭に血が上った僕は、そのままベンチにずんずんと近づいた。


「何してるんですか! こんなところで!」


 僕に急に声をかけられたことで、男は驚いたようだったがすぐに正気に戻って言い返してきた。


「あ? どこで何しようとおめーには関係ねーだろうが」


 男の声は若い。よく見ると男は随分と若い。20代前半だろうか。下半身だけ裸で、局部は女の身体の中に入ったままだ。女のほうも若い。たくし上げられたTシャツの下には大きくな胸がむき出しになっており、くびれもはっきりした美しい身体をしていた。顔も美しかった。


「関係なくない。そこは彼女との思い出の場所なんだ。やるんだったら他をあたれ!」

「は? やっぱり関係ないじゃねえか! 邪魔すると……」

「……もういいよ。冷めちゃった。あんたも柔くなってるし」


 激昂する男をなだめるように女が言った。いつの間にか男の陰茎は女から抜けており、女は身体を起こしていた。


「おい! いいのかよ!」


 男は急いで自分の陰茎を近くに置いてあった自分の下着で覆いながら女に言った。女の方は身体を隠すこともなく、膝まで引き下げられていたスカートのポケットから煙草を取り出そうとしていた。


「いいよ。半裸でいがみ合っても締まらないし。それに……あんたももう勃たないでしょ」


 煙を吐きながら女は力ない笑いを浮かべた。男はぶつくさ文句を言いながら、それでも引き下がってくれた。


「お兄さん、彼女って言ったけど、その人あなたの恋人さん?」


 男がベンチの後ろでごそごそとズボンをはいている間、女が僕に話しかけてきた。


「そうだよ……というか、君も服着てくれるかな? 目のやり場に困るんだけど」

「あら、愛する彼女がいるのに誰かも知らない若い女の子の裸に欲情しちゃうわけ?」


 彼女はそう言ってちょっとだけ腕を交差させて胸を強調させた。僕は無理やり目をそらした。それでも、女のいたずらっぽい笑顔と柔らかそうな肌色のふくらみが網膜に焼き付いてしまった。


「あははっ。意地悪言ってごめんね、お兄さん。でも、男って本当に単純よね。結局女の身体が好きで、顔が好きで、セックスすることばっかり考えてるんだから」

「君の顔と身体が魅力的なのは認めるけど、でもそれだけじゃないよ」

「そうかしら。今まで生きてきて、いろんな男が私とセックスするためだけにお金を稼いで、いい服を買って、私に高いお金を払ってくれた。道行く誰もが私の身体と顔に見とれたわ」

「まあ……そういう男が一定数いることは認めるけど……」

「少なくとも私が出会ってきた男はそんな奴らばかりだったわ。私にいくら出せるのか。それが男たちのステータスだったし、私自身の価値を決める基準でもあった」


 女は煙草に火をつけゆっくりと吸った。そして、細長く白い煙を吐いた。雨でしけった煙草はあまりいい味ではないらしい。女は少し顔をしかめた。


「でも、こんなことになっちゃったじゃない? もうお金とか、地位とか、おしゃれな服装とか、高級な料理とか、一気にその価値を失っちゃった。私を評価するモノサシの方が全部壊れちゃったの。だから私も一気に無価値になっちゃった」


 女はそう言って乾いた笑い声を上げた。僕は、何といえばいいか分からなかった。


「……じゃあさっきの男は? 彼氏とかじゃないのかい?」

「ああ、あの子? あの子はコレを譲ってくれたからね。料金として身体を支払っただけよ。世界がまともな時だったら絶対にあんな野良犬みたいな男に抱かれたりしないわ」


 彼女は自分の手に持っている煙草を振った。いや、この口ぶりだとどうやら煙草よりも悪いものなのかもしれない。


「あの男、どこかに行ってしまったよ? 良いの?」

「ああ、自分の情事を見られた男とまともに会話なんてできないでしょうね。男ってそういうところ打たれ弱いし。多分逃げたんでしょう……そんなことより」


 女は僕の方を見てニッと笑った。整った顔立ちでありながら、その笑顔にはあどけなさが残っており、もしかするとこの女は少女と形容してもいいくらいの年齢なのかもしれないと思った。


「あなたの彼女? の話を聞かせてよ。お兄さん、まともな恋愛してそうだし。そう言う話、聞かせて欲しいな」

「……そうしたいのは山々なんだけど、彼女どこかに行ってしまったんだ」

「あら、あなたのテクニックに愛想を尽かせたのかしら。下手そうだもんね、あなた」

「……可愛い顔でえぐいジョークを言わないでくれ」


 先ほどまでの乾いた笑いと違う、年相応の潤いのある、聞いている方が愉快になるような笑い声が、目の前の女から上がる。


「あはは。冗談よ。で、探し回ってるってわけ?」

「そうなんだ。協力してくれるかい?」

「知ってることを話すくらいならね。特徴は?」

「えっと……彼女は料理が好きで、色々工夫して新しいレシピを作るのが好きだった。自分の用意した材料で、自分の考えた手順で、自分の思い浮かんだ料理が目の前に現れることが、そして想像以上に美味しい料理ができてしまう瞬間が好きなんだって言ってた」

「……それは素敵なことだけど、それじゃ彼女を見つけられない。他には?」

「うーん。足取りが危なっかしくて、いつもふわふわ浮いてるみたいに歩いてる。彼女が通った後には金色の線が残るみたいで、とっても綺麗なんだ」

「だから、そんなんじゃ分からないってば。彼女の名前は?」

「それが……分からないんだ。どうしても思い出せないんだ」


 僕がそう言うと、女はひどく幻滅したような、落胆したような表情になった。さっきまでのかわいらしさは消え、疲れ切った老婆のような疲労が顔に浮かんだ。


「なんだ。あんたもヤク中かよ。しょうもねえな」


 そうつぶやくと、女はしっしと右手を振った。


「イカレた奴に話すことはなにもない。とっとと彼女でもなんでも探してきなよ」


 僕はがっかりして、彼女の前から立ち去った。


「あぁ。なんか暇ね。ヘロインでもやってみようかしら。もういっそ早く隕石落ちてくればいいのに」


 そうつぶやいた彼女の声が去り際に聞こえた気がした。


 足早に立ち去りながら、僕は女が言った言葉を頭の中で反芻した。きっと彼女は欲しいものはなんでも手に入るだろう。彼女の身体を通貨にすれば、どんなものでも手に入る。ただ、彼女はどうしてそれが手に入るか、きっと最後まで分からないだろう。彼女は自分の価値を、金や自分への奉仕で測っていたが、結局値をつけるのは自分ではない。だから自分にどうしてそんな価値があるか、自分が一番理解していないように思う。


 そんな女がどんなシュウマツを送るのか。僕には分かるはずもなかった。

 とにかく僕は彼女を探さなければならなかった。

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