第2話

 駅前を離れ、背が低めのビルが立ち並ぶ通りを進んだ。ビルは所々窓ガラスが割れていたり、口に出すのもはばかられるような下品な落書きがなされていたりした。


 電柱に括りつけられたスピーカーからは、家のテレビで流れていたのと同じ内容が繰り返されていた。


「……ついに今週末に迫りました、小隕石衝突の詳細な時間が判明いたしました。時間は大体24時、日曜日と月曜日が入れ替わるあたりだそうです。皆さま、どうか良いシュウマツを……」


 空は灰色のままで、今にも雨が降ってきそうな重たい天気だった。何も持たずに外に出てしまったから、雨に降られると困る。もしかしたら傘を買わなければならないかもしれない。僕は吸い寄せられるように、ビルの一階に併設されているコンビニに向かった。


「自分が元気かどうかってさ、お財布の中身で分からない?」


 彼女が前にそう言っていたことを思い出した。


「どういうこと? 沢山お金が入ってれば元気、みたいな話?」

「ううん。お財布の厚み? しゃっきりしてる時は端数を考えて小銭出したりしてお釣りの硬貨が少なくなるようにするけど、疲れてるとめんどくさくてすぐに千円札とかで済まそうとしちゃうじゃん? お財布にめちゃくちゃ沢山十円玉入ってたりすると、『あー自分疲れてるわー』とか考えちゃうんだ。わかる?」

「いや、最近は電子マネーばっかり使ってるから……」


 僕がそう答えると、彼女は「あー嘆かわしい。こうして人は自分のバロメーターを失っていくのね」と芝居がかった落胆を見せるのだった。「およよ」と口に出したかもしれない。


 これだけ細かく彼女との日々を覚えているのに、どうして僕は彼女の名前を思いだずことができないんだろう。不思議でならなかった。


 そんなことを考えながらコンビニの入り口までたどりつく。そして自動ドアが開いた瞬間、自分が財布を持っていないことに気づいた。引き返そうかと入口でまごまごしていると、店の奥から男が出てきた。男の顔からは生真面目さ弱弱しさがにじみ出ていた。店内にはその男の他には誰もいなかった。よく考えれば、こんな状況でコンビニ店員なんているわけがない。


 男は僕の目の前で立ち止まった。そして、僕を見て言った。


「……もうこのコンビニには何もありませんよ」

「そうですか……傘とかも残ってませんか?」

「傘ですか? それなら、客の忘れ物があるかもしれませんね。バックヤードを覗いてみてはいかがでしょう」

「はぁ……でもそれは何というか……倫理的ではないような」

「こんな状況で傘をとりに来る客なんていませんよ。ご心配なさらず」


 それもそうだ、と思った。僕はその男に礼を言い、店内に入った。そしてちょっと行儀が悪いとは思ったがカウンターを乗り越えてレジの下を覗いてみると、客の忘れ物らしき傘がいくつか束になってゴムでまとめられていた。


 彼女を見つけたら、返しに来よう。そう心のなかで唱えて、僕は灰色の傘を一本拝借した。


 もう一度カウンターを乗り越えた。あの男がいたら礼を言おう、と思って店の出入り口近くの方を見ると、まだ例の男はそこに立っていた。


 が、様子がおかしい。男の手には、小さいながら硬そうな銀色のハンマーが握られていた。男は大きく振りかぶって、そのハンマーをガラスでできた自動ドアの扉にたたきつけた。


 ガインッという大きな音が鳴ったが、強化ガラスか何かでできているのか、扉は壊れなかった。男はそれから、同じようにめちゃくちゃなフォームで扉を殴りつけ続けた。


 ガインッ! ガインッ! ガインッ!


「な、なにをしてるんですか!」


 僕が思わず声を上げると、


「あ、うるさかったですよね……申し訳ありません」


 男は急にシュンとしてしまった。先ほどまで荒々しくガラスにハンマーを叩きつけていた人間とは思えないような、弱気な態度だった。


「いえ、音とかじゃなくて……どうしてそんなことをしてるんですか?」

「……どうして、ですか……」


 男は寂しそうに遠くを見つめた。そして、持っていた小さいハンマーをポトリと足元に落とした。


「僕はね、ずっとずっと真面目に生きて来たんですよ。会社では誰よりもルールを守って、遅刻なんて一回もしたことがない。休日も資格の勉強、持ち帰りの仕事、一生懸命に会社のために尽力してきたんです」

「はあ……」

「いや、会社に入るまでだってそうです。『勉強しろ』という親や教師たちの言葉を素直に受け入れて、部活やら友人やら恋愛やらにかまけている連中を尻目に、私は誰よりも懸命に勉強してきました。そのおかげで誰もがうらやむ有名大学に合格して、有名企業に就職を決めたんです」

「それはそれは……ご立派です」

「会社でも、私は一定の結果を残していました。誰よりも自分を律して生きてきました。みんな私のことを『仕事人間』だなんて陰で笑っていたのは知っていました。私がルールを破ることができないつまらない人間だと、周りの人間は私を見下していたことも知っていました。それでも、きっと最後は私が、ルールを守り、正しいことをし続けた私が最後には報われるのだと信じ続けていたんです。なのに……」

「地球が滅亡してしまう……と」

「ひどく落胆しましたよ。私が報われる世界がいつか必ず来ると信じていたのに。あんな軟派な男どもではなく、私の勤勉さにきれいな女性達が惹かれるような日が必ず来ると信じていたのに……こうなると分かっていたら、私だって遊び惚けていたのに!」


 急に男が大声を出したので、僕は驚いた。


「だから! だから! 僕はもうルールを破り続けることに決めたんです! 時間も守らない、お金も払わない。欲しいものがあったら盗む! 抵抗されたら殴る! イラついたら理由もなく殺す! いい女がいれば犯す! そんな縛られない自由を謳歌するんです!」


 男は、話しながら興奮し、足元の銀色のハンマーをもう一度拾い上げた。そして、もう一度ガラスにハンマーをたたきつけ始めた。全身を大きく使って、投げつけるように扉にハンマーをぶつける。振りかざすタイミングに合わせて言葉がとぎれとぎれに聞こえてくる。


「この、コンビニは、何の、商品も、なくて、私を、なめてる! だから、ここで、叩き壊す! しね、しね、しね、しね!」


 僕は、何も言うことができず、割れた破片がこっちに飛んでこないか心配するので精一杯だった。


「だれか、納得のいく、説明を、しろ! なんで、私だけ、割を、くうんだ! 私を、守らない、ルール、なんて、常識、なんて、くそくらえ! 自由、じゆう、私は、ジユーだ!!」


 最後の咆哮と共にたたきつけたハンマーが、とうとうガラスを破壊した。一気にバラバラになるのではなく、ガラス全体に大きなヒビが入った。


 男はその様子を見て少し満足したのか、僕の方をもう一度向いていった。


「ごめんなさい。ちょっと取り乱してしまいました。話、聞いてくれてありがとうございます。少しスッキリしました」

「は、はあ……それはどうも……」

「あなたは、何をしに外に?」


 一刻も早くこの男から遠ざかりたいと思う一方、ここで不用意な対応をするとあの右手のハンマーがかっとんでくる可能性もあった。こんなところでケガなんかしたくない。僕は仕方なく本当のことを話すことにした。


「ある女の人を探しているんです」

「ほう、人探しですか? その方はあなたの彼女さんとか?」

「まあ、そんなところです。一緒に住んでいたんですが、目が覚めるといなくなっていて……」

「それはそれは……。もしかしたら、私も見かけているかもしれません。その女性の特徴は?」

「ええと……キラキラした水が流れるみたいな声をしていて、なのに喋ってることは下品だったりちょっと意味不明だったりして、田舎の小川みたいな人です」


 僕がそう言うと、男は怪訝そうな目つきで僕を見た。この男に不審者扱いされるのは腑に落ちないが、自己防衛のためには致し方ない。


「そんな詩的な表現ではわかりませんね……」

「そう言われても、そうとしか説明できないんです」

「その人の名前は?」

「それが……思い出せないんです」


 男はさらに訝しげな顔で僕を見た。


「あなた……クスリとかやってます?」

「まさか、正気ですよ」

「そうですか……私にできることは何もないようですね。お力になれず申し訳ない」

「いえいえ……それではこれで」


 僕はそう言うと、不自然に見えないぎりぎりの速さで歩いて男のもとを去った。十分な距離をとってから振り返ると、男は僕が去った後、残ったガラスに向かってハンマーを振りかざしていた。


 男は、残りの時間をああやってガラスを破壊しながら生きていくのだろうか。自分が苦しめられたルールや常識みたいなものに復讐しながらシュウマツを過ごすのだろうか。


「そもそも、とうの昔にルールも常識も壊れてるのに……」


 必死でルールの残骸の破壊にいそしむ彼の姿は、それを自由と信じて疑わない彼の姿は、やっぱり真面目に見えた。


 だが、そんなことを気にしてる暇はない。僕は彼女を見つけなければならない。

 ぽつぽつと振り出した雨が降り出した。僕は調達した傘をさして歩き続けた。

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