いつか
それから数年後。私は一冊の絵本を手にしていた。
あの日――あの後家に帰った私は、心配していた母にこっぴどく叱られた。図書館で勉強していたと言うと、「そうだとしても遅すぎる」と怒られた。
それからは何事もなく日常が過ぎていった。私は第一志望の大学に合格し、四年間、好きな本を好きなだけ読んで過ごした。卒業後は、在学中から付き合っていた一つ年上の彼と同棲を始めた。
「それ、真乃が初めて作った本だよね。『しあわせなひと』」
「うん。大学二年生のとき、自費出版で一冊だけ」
「懐かしいね。もうずいぶん前だなあ」
今、隣にいるのはその彼である。彼は私の全てを知っている。
「そうだ。次の本、いつ発売だっけ。子供たちが楽しみにしているんだ」
彼が言った。彼――婚約者の直樹は大学時代の文学サークルの先輩で、今は中学校の国語教師をしている。当時、好きな作家は宮沢賢治と言った彼に、私はにわかに惹かれてしまったのだ。
そして、私は幼い頃からの夢を叶え、ありがたいことに本を書くことを仕事にしている。ヒットとはいかずともそれなりに成功し、生活の足しにはなっているという程度だ。書いているのは主に児童書で、たまにゲームの原作を書いたりもする。サスペンスは……書かないようにしている。
「来週。でも、中学生にはちょっと幼すぎない?」
「いいんだよ。あいつら、僕の彼女が書いたってだけでテンションあがってるんだから」
「へえ。いい子たち」
「そうなんだ」
彼は私が作った朝食を食べている。彼は残り少しになったスープを名残惜しそうに、心なしかゆっくり口に運んだ。そんな彼を眺めながら、私はそっと微笑んだ。
――そう。あの出来事は、物語の中に納まったのだ。この絵本の中に、私の虚構の中に。
絵本の表紙を撫でると、安堵の息が漏れた。
それからあわてて出かける準備をする彼を追いかけて、私は玄関に出た。靴箱の上の棚には枯れない花が飾ってある。
あの二人は、私のキャラクターだ。私が作り上げたのだ。
私は彼を見送って、ぱたんと扉を閉めた。ふいに花に視線が向く。
……あれは、ただのフィクションなのだ。
私はそう自分に言い聞かせ、静かに鍵を閉めた。
フィクション 睦月衣 @mutsuki_kinu
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