フィクション
睦月衣
ある冬の日
桜の花が足元に落ちた。真っ白な雪の上にほの明るい桃色が映える。
私は桜の木の下に立っている。けれどその木に花はない。季節は冬で、今もちらちら雪が降っている。
顔を上げて木を見上げた。――何かがいる……目が合った。吸い込まれそうに真っ黒で、作り物のビー玉のように綺麗な目……。
――男だ。木の上に男がいるのだ。歳は三十そこらといったところか。透明感……というのは少し違うかもしれない。透明というよりもっと質感の重い、底なしに白い、どこか作り物じみた雰囲気……。
私は足元の桜を拾って上にかざし、「彼」に訊いた。
「これ、あなたのですか?」
「ええ」
彼は微笑んだ。
「安物ですからね。取れてしまったようです」
おかしな男だ。この桜はどう見てもビニールでできている。作り物の花がボンドでくっついている作り物の小枝を、彼はクルクルと指先で弄びながらこちらを見下ろしていた。
「ところで君はどうしてここに?」
小枝を右手に持ったまま、彼は軽々と雪の上へ飛び降りた。地面がギュッと締まった音を立てる。彼はコートに付いた雪を払いながら振り返った。
「見ない顔ですね。ここは関係者以外立ち入り禁止と聞きましたが」
「……知りませんでした」
「そうですか。……ああ、告げ口などしないのでご安心を」
彼はそう言うと、にわかに向こうを向いてしまった。そしてざくざく音を立てて丘を登っていく。……何というわけもなく、私は彼の後をついていった。
立ち入り禁止を知らないと言ったのは嘘だった。ここは私が住む街の裏山だ。幼い頃から、山には近づくなとさんざん言い聞かされてきた。それでもこうしてここにいるのは……ちょっとした好奇心、反抗心……いや、リセットしたかったからかもしれない。
山に近づいてはいけないというこの街の掟。大人たちの言い分はいつもこうだった。――「山の上には怪物がいて、見つかったら食べられちゃうよ」。しかし、私は最近知った。この山の上には病院があるのだ。それもきれいな、怪物なんて出そうもない新しい病院。しかし、それを母に言うと、「知らなかったの?」と笑われてしまった。「隠してたじゃない」と反論すると、「子供だったからよ」と母は言った。そして、母はそれから少しはばかるように……こう続けた。「……でも、本当に行っちゃだめよ。立ち入り禁止なのは本当だし、その……あそこ、頭がおかしくなった人たちの病院だから」――
「……ところで、君」
彼の声に、私ははっとして顔を上げた。
「はい?」
「君、まだ高校生でしょう。一人でこんなところに来て怖くないのですか」
「怖くはないですけど……そろそろ帰ろうと思っていたところでした」
「ああ。では悪いことをしてしまいましたね。……まあ、ついてきたのは君ですが」
「はは……すみません」
「構いませんよ。僕もいいかげん誰かと話したかったので」
それからまた、彼は振り返りもせず歩きつづけた。「話したかった」と言うわりに、彼は何も言葉を発しなかった。私も何も言わなかった。
しばらく雪道を歩いたころ、私はふと振り返った。いつの間にか雪はやんでいて、もう少しで日が暮れそうである。図書館で勉強していたことにしようと、私は母への言い訳を考えた。
「――ほら、着きましたよ」
少し後ろで、彼が呼んだ。彼の声に振り返ると、そこは非常にひらけた場所だった。眼下に私の住む街が見える。それほど高くはないようだった。
「僕はね、たまにこうして部屋を抜け出して、ここへ来るのが好きなんです。ほらあそこ、海が見えるでしょう」
私は彼が指さした方を見やった。大きな川が流れていた。私が通う中学校の近くにある汚い川。彼はあれを海だと思っているらしい。
「君がいた辺り……あの辺りは病院の敷地のぎりぎり外なんですよ。あの人たちは足元ばかり見ているから、上なんか見やしないんです。センセイが別の場所へ行ったら、こうしてここまで抜け出してくる。そうしてあの海を見るんですよ。……あの向こうには、僕の愛する人がいたから。少しでも彼女を思っていたくて」
「いた……」
「そう、『いた』。……死んだのですよ。僕の目の前でね。きれいな女性だった」
「……あなたは、ここを出たいと思わないのですか」
「そうですねえ。出たい……とは思いませんね。春には別の場所に移動するみたいですし、出たところで彼女に会えるわけじゃないですから。……君、好きな人はいますか?」
「え? ……い、ました。去年死んじゃったけど」
「そうですか。それじゃあ僕と一緒ですねえ」
それだけ言うと、彼はしばらく黙っていた。「彼女」のことを思い出しているのかもしれない。……私も「彼」を思い出した。
「彼」は去年の秋、殺された。それも「彼」の――「彼」と私の幼なじみによって。「幼なじみ」は「彼」を刺殺した後、自らも命を絶った。自殺である。第一発見者のある生徒は、それからしばらく学校を休んでいたらしい。殺害の動機は判明していない。それでも私は、なんとなくわかる気がしていた。「幼なじみ」は「彼」を許せなかったのだ。「幼なじみ」の「幼なじみ」が、どんどん変わっていってしまうのが。
私が「彼」を好きだと気づいたのは、「彼」が死んだ後だった。毎日続けていたメールが返ってこなくなった。そんな当たり前のことでようやく実感がわいた。大切な人を失くした悲しみ、犯人への憎悪――それよりも同情・共感。そして……好奇心と興味。――私はそれらを、「彼」を好きだったという気持ちでひとくくりにした。実際、好きだったのは事実だ。しかし、それ以外の感情が多すぎた。こんな事態の最中で、私はたしかに興奮していたのだ。まるで新しい推理小説を読むような、劇的なオープニングにページをめくる指が汗ばむような感覚。……悲しい。悲しいのは本当。だけどこの……日常をドカンと突き破ってきた、この刺激は何? 幼なじみが死んだ。それも二人、加害者と被害者で。でもそれって……まるでサスペンスドラマじゃない?
私は彼らを忘れようと努めた。彼らを忘れてしまわなければ、私の精神が壊れてしまう気がしていたのだ。壊れて、そしてぐちゃぐちゃになって、何かとんでもないことをしてしまうような……そんな予感があったのだ。
川――「海」を見つめていた男は、いつの間にか地面に腰を下ろしていた。そしてゆっくり俯きがちに、優しい目で語る。
「僕はね……彼女をきれいなままにしておきたかったんですよ。彼女もそれを望んだ。だけど……それはいけないことだと言われました。彼らは僕を捕まえて、彼女を粉々に壊したのです。おかげで僕はこうしてここに閉じ込められている。……君はどう思いますか? 僕は気が違っているのでしょうか。大切な人とずっと一緒にいたいと思うのは、そんなにいけないことなのでしょうか」
私は彼を見た。彼の頬が光って見えた。――彼の姿が、「幼なじみ」に重なって見えた。
「……私は」
喉の奥が詰まる。私は――私は――
何かがこみ上げる感覚。胸の底が熱くなった。
言いたい。言ってしまいたい。この人なら大丈夫。全部話して楽になりたい。私は好きな人の悲劇を娯楽とみなした。本当はすぐにでも飛び出したかった。知りたい。「彼」を知りたい。どうして「彼」は殺されたの? どうして「彼」は笑っていたの? 第一発見者は? 何かフラグはあったの? 私が知り得たことなの? 彼らは死ぬ間際、一体どんな気持ちだったの?
――何かがはずれた音がした。首筋に汗が伝うのを感じながら、私は顔を上げた。
「……私は」
「おっと」
――突然、彼が立ち上がった。そして眼下を指さす。……私はぼんやりとその先を追った。近所の公園の時計が見えた。
「残念、もうこんな時間。君、もう帰りなさい。そこ、ちょっと階段みたいになっているでしょう。それで街に降りられるみたいです。お母さんに怒られないうちに、ね」
私は言葉を飲み込んだ。すうっと、熱くなった体が冷えていく感覚がする。
「それでは。さよなら」
立ちつくす私をよそに、彼は去っていってしまった。だらんと下がった彼の指先で、クルクル……クルクル……造花の桜が風に揺れている。
突然、母の言葉が頭をよぎった。
――あそこは、頭がおかしくなった人たちの病院。
……さっき、私は彼に何て言おうとしていただろう。どんな言葉を発しようとしていただろう。本当の私の気持ちは……。
私は夢中になって階段を駆け下りた。何もかも忘れたかった。これはあってはならない感情なのだ。
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