☆第25話 「地下」の世界の序の口
貴族であるロイズと連れ立って帰って来たレイヤを見て、ミナは目を丸くしていた。
「お兄ちゃん」と小さな声で兄を呼んだ。
レイヤはテントの中のものをてきぱきとまとめながら、声なき質問には答えずに言った。
「お前も準備しろ」
先ほどロイズと交わした契約の二文字が頭の中をよぎる。
「いいか、レイヤ。これは単なる契約だ。利害関係に従ってただ手を組むだけだ。間違っても慈善を施されたなどと考えるなよ」
癪に障る言い方だったが、レイヤは苦し紛れの皮肉で返すので精一杯だった。
「分かっているさ。ユス教徒が慈善という言葉の意味を知らないことぐらい」
ロイズは冷ややかに笑っただけだった。余裕たっぷりのその様子に、レイヤは感情を逆撫でされるばかりであった。
利害関係の一致、母を殺された恨みをもつレイヤは確かにそうかもしれないが、そのレイヤを身内に取り入れ父と呼ばせることで、彼は一体どんな利益を得るというのか。
「お兄ちゃん、何をしているの」
「おれたちはあいつの養子になる」
ミナは不安そうに息を呑んだ。泣きそうな表情でレイヤに尋ねる。
「なんで」
そんなミナを見て、レイヤの決意が揺らぎそうになった。
見るからに怪しい誘い文句、片側しか利のない共生。いや、利があるように見えているだけで、本当は罠にはめられようとしているだけなのでは。
だが、ただの孤児でしかないレイヤを罠にはめる意味も考えられないし、それをしたところで彼が何か得をするわけでもあるまい。考えても考えても、ロイズの真意は量りかねるばかりである。
レイヤは葛藤を振り払うかのような口調で言った。
「孤児の暮らしは嫌だろう?」
「そんなことない」ミナは懸命に首を振った。「行きたくない」
ミナの呼吸が乱れてきた。膝をつき、胸に手を当てながら息を整えようとする。つぶった瞼をこじ開けるように涙が零れ落ちる。
「その病気も治してくれるそうだ」
「いや。治らなくてもいいから。お兄ちゃん」
ミナは激しい咳をしながらたくさん泣いた。泣いて懇願し、兄の気持ちを変えようとした。
彼女に駆け寄って背中をさすってやりたいという強い引力に逆らいながら、レイヤは支度を続けた。ナイフを懐にしまい、荷物を外に出すと、今度はテントを畳み出した。ロイズがレイヤの荷物をちらっと見下ろして言う。
「調理器具やぼろ着がいると思っているのか」
すると、レイヤが持っていく荷物は空っぽになってしまった。自分の身と、あとはちっぽけな妹の手を引っ張っていけばいい。
ミナはまだ泣いていたが、ロイズの顔を見ないようにして大人しくついてきた。ロイズが外に待たせていた馬車に辿り着くまで、レイヤはじっと考え込んでいた。
ミナのルクス教信仰をどうしようか。ばれたら間違いなく叩き出され、その場で警吏を呼ばれるか、即座に頭を撃たれるかのどちらかだろう。言うな、絶対にルクスの名を呼ぶな。レイヤはそう祈るように思った。
ロイズの屋敷は城の近くにあった。見渡すくらいのとても大きな家で、レイヤたちが到着するとすぐに、下女が二人、駆け足で出迎えに来た。
ロイズは彼女らにいくつか指示を出して、自分だけ奥に消えた。ぽかんとするレイヤとミナが後に残される。
「お出でください、レイヤ様」
下女の一人がレイヤに、もう片方がミナに声を掛け、それぞれ別の方向に連れて行こうとした。
「お兄ちゃん」
ミナが不安から兄の名を呼び、縋りつくように泣いた。
貴族の世界の序の口に圧倒されていたレイヤは、慌ててそれを遮ろうとする。
「ちょっと待て。ミナをどこに連れて行く」
「お二人ともまずはお体を綺麗になさいませんと。湯を沸かしてありますので」
レイヤは丁寧に扱われることに慣れていない。自分より年上の女性なら尚更だ。「なんでそんな口調で話すんだ? 水浴びならミナも一緒でいい。ほら、来い」
腕を伸ばすと、ミナはすぐさまそれに飛びついた。また発作が表れてきたようで、苦しそうに息をしている。「ですが」下女が困ったように眉根を下げた。
「ロイズはどこに行った。あいつを呼んで来いよ」
「いいえ、レイヤ様の身の回りのお世話をしてからお呼び申し上げるよう仰せつかっております」
レイヤはかなり粘ったが、一歩も譲らない下女たちにとうとう負けてミナは向こうに連れられてしまった。
だがミナの身を案じてばかりもいられなかった。
初めて通された風呂という場所は壮観で、レイヤはしばらく息をするのを忘れてしまった。
下女はレイヤの服を脱がそうとする。このような立派なところに孤児の粗末な服が似つかわしいはずもなく、レイヤは急に羞恥心に襲われて下女を突っぱねた。
「服を脱ぐんだから、出て行けよ」
下女は首を横に振り、頑として出て行こうとしなかった。
そのままレイヤは強引に服を剥ぎ取られ、熱気のこもる浴室に入れられ、湯の中に突き落とされた。あまりの熱さにレイヤの肌が悲鳴を上げる。暴れる彼を下女が落ち着いて押さえつけ、たっぷりと泡立ててごしごし洗った。
そのまま悪夢のような時間が過ぎ、綺麗に身体を拭かれて浴室の外に出たときは、見違えるほど腕が白くなっていた。体も恐ろしく軽くなっていた。
恐る恐る服に手を伸ばし、元の通り着ようとしたら、下女に遮られた。
「レイヤ様、こちらにお着替えください」
貴族がよく着るような、ひだのたくさんついた真っ白なシャツ。その下にも上にも何枚も何枚も重ねて服を着させられ、先ほど軽くなったように感じた体は、真っ直ぐに歩くことすら困難なくらい重たくなった。
下女がレイヤから遠ざけようとした元の服の中に、隠れるように持ってきたナイフがある。
孤児街で自分と妹の命を繋いでくれたもの。
甲斐甲斐しく自分の世話をする下女からは何の邪気も感じられないが、腹の底では何を考えているか分からない。レイヤは彼女の目を盗んで、ぼろ着からナイフをこっそりと回収した。
それから連れて行かれた場所は食堂だった。ミナはレイヤと同じく湯浴みを終えて、見たこともないような立派なドレスに身を包んで座らされていた。ミナは食堂に入ってきたレイヤを見つけ、黙って座らせようとする下女を振り切って走って来た。
「お兄ちゃん」
ミナが兄の名を呼んですすり泣く。レイヤは妹のことを、これでもかというほど強く抱き締めた。孤児街ではあまり感じなかったふんわりとした温かさが、ミナの身体を通してレイヤに伝わって来る。
「怖いよう」
ミナはそう言い、レイヤの胸に顔を押し付けて泣いた。彼女が自分をこうしてさらけ出して甘えてくるのはいつぶりだろう。「大丈夫だ。おれがついている」妹に、そして自分にも言い聞かせるようにそう言った。
食卓にはこの世のものとは思えないほどの量の料理が運ばれてきたが、レイヤは少しも口に入らなかった。
ふわふわでちくちくする真新しいベッドに連れて行かれ、明かりを消されても、ちっとも寝付けなかった。
反対方向に連れて行かれたミナが気にかかった。
同時にしばらく思い出すことも忘れていたロイズのことと、母のことについて考えた。
(参考:レイヤが「地下」と呼ぶ理由(第二十話)
https://kakuyomu.jp/works/1177354054917654996/episodes/1177354054919083779)
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