☆第19話 ミナが兄を裏切った日

 国王が病に倒れたせいで、ユス教徒はどこか急いでいるようだった。

 国王の子供は、即位前に生まれた王子一人だけ、まだ成人前だった。

 対して国王の弟はルクス教徒ではあったものの、若い王子より遥かに頼りになる為政者だった。悪く転んだら、弟の方に政権が寝返ってしまう。それを危惧して、国内のユス教化を急ぎ行っているようだった。


 ユス教が一旦得物を持ち出すと、ルクス教が武器を取るまでに大して時間はかからず、あっという間に国内で銃弾が飛び交うようになった。内戦は日に日に、月を追うごとに激しさを増していって、罵詈雑言と拳の応酬を「戦争」と呼んでいた時代がまだましだったのだと、誰もが感じるようになった。

 工場への行き帰りでも難儀した。それまでの宣伝活動が幸いして、レイヤの顔を知っているユス教徒たちはよけて通してくれたが、そうでない者はあからさまに刃を向けてきた。


「お前は何教だ」

「ユス教」

 こう答えておけば問題ない。ルクス教徒は、レイヤのような子供には手を出さない。難癖をつけてくるのは決まってユス教徒の方だ。

「証拠を見せてみろ」

「我々は初代神君しんくんガガラ様の御言葉を受け……」

 教義の最初の言葉を唱えると、「合格だ」ようやく通してもらうことができた。

「もし周りにルクス教徒がいたら教えろ。とてつもない褒美を与えてやる」

 適当に頷いて、そそくさと通り抜けた。テントの中ではミナが震えながら待っていた。


「誰も来なかったな?」

 ミナが声も出せずに頷く。銃が火を噴き誰かが悲鳴を上げる音は、ミナの待つ孤児街のテントにまで届いている。

「テントから出るなよ。何があっても離れるな。もし誰かがお前に何か尋ねたら、私はユス教徒ですって答えるんだ」

 ミナはか細い声で返事をした。その姿はあまりにも頼りなく、なぜあのときルクス教を捨てていなかったのかと鬱陶しく思った。

 けれどそれを言っても始まらない。何を信じていようがミナはミナで、レイヤの妹だ。兄である自分が守っていかなければいけない。


 日曜は休戦だそうだ。

 日曜には市が立つのと、ユス教の経典に「日曜は対話をやめ勉学に励むこと」と書かれているからだ。対話とはつまり布教活動のことで、異教徒の弾圧もそこに含まれる。

 だから日曜だけはミナを外に出してやることができた。朝早く起きて、市場までの道のりを遠回りして楽しむ。夜は孤児街の側の川で水浴びをする。日曜日だけは彼女にも笑顔が戻る。


 ミナはここしばらくの間様子がおかしかった。

 土曜日の夜にそわそわと落ち着かない様子を見せ、翌日朝までそれは続き、夜になってようやく笑顔を見せる。ルクス教徒が次々と殺されていくことに対する恐怖かと思ったが、どうもそれだけではないようだった。

 ある日曜の朝、日の出前に起きて散歩をしているとき、レイヤはさり気なく妹に尋ねた。

「ミナ、何か隠してないか」

 ミナははっきりと答えなかったが、さすがのレイヤも勘付いた。

 危ないから市場には一人で行くと言い置いてミナをテントに帰すと、そのまましばらく歩き、次は忘れ物をしたふりをしてテントに戻って来た。

 するとそこには、案の定ミナの姿がなかった。


 ミナの行き先は一つしか思いつかない。

 この時世に悠長なことを!

 レイヤはすぐに孤児街を後にし、神殿に繋がる道を駆け上がった。


 神殿の扉は開いていて、仰々しい神の像の足下に二人の人影が見えた。

 片方はもちろんミナだった。ミナはレイヤが立てた物音にびくりと肩を震わせ、恐る恐るこちらを振り返った。


「やっぱりここか、ミナ」


 ミナはレイヤと目が合うと、竦み上がった様子で後ずさり、側にいた人物の背に隠れようとした。ミナが、自分から逃げようとしている。そしてちっぽけなルクス神にかくまってもらおうとしている。


「帰るぞ、ミナ」


 怒りを抑え、つかつかと歩み寄ってレイヤは言った。

 レイヤが伸ばした手を掴んだのは妹ではなく、側にいる男だった。上質な紺色の生地で作られた法衣に身を包んでいるが、顔立ちは案外幼かった。神依士かむえし、いや、歳からいって見習いくらいか。

 軟弱で、貧相な体つき。いかにも箱入りで育てられましたって感じだ。レイヤが今まで相手にしてきた奴らよりずっと力は弱いだろう。その手を簡単に振り払って、神依士見習いを昏倒させてミナを引きずっていくこともできたが、彼の後ろで震えているミナの目線が気になった。「離せ」レイヤは静かに言った。


「離せない。ミナは怖がっている」


 神依士は親しげに妹の名を呼び、妹もまた、神依士に同調するように体を震わせた。それらはどちらも、レイヤの神経を逆撫でる。


「知ったことか! ミナを返せ!」


 神依士はレイヤの言うことにまるで取り合わずに、ミナを奥の部屋へ逃がした。

 ミナは兄を何度も振り返りながら奥に消える。レイヤと目が合ったが、泣きそうな表情で目を逸らした。

 泣くくらいなら、とレイヤは思った。

 泣くほど苦しいなら、ルクス教なんぞさっさと捨ててしまえばいいのに。


「君はユス教徒?」


 神依士がレイヤの手を離し、そう尋ねてきた。

 いらいらと首を振ると、神依士は怪訝そうに重ねてくる。


「じゃあ、なんなんだ。ルクス教徒か?」


 レイヤは吐き気を覚えた。

 ユス教徒でなかったらルクス教徒だとでもいうのか。

 どちらも御免だ、冗談じゃない。


 この高慢な感じはなんだ。偉ぶった態度はなんだ。ルクス教徒はそんなに格が上なのか。あのとき、最初にレイヤとミナを見捨てたのは誰だ。目の前の彼と同じ、ルクス教徒じゃないか。


「早くミナを返せ。それともここで、暴れてやろうか?」


 神依士はレイヤがはったりをかましていると思ったのか、まるで動じる様子を見せなかった。だが、護身用そして追い剥ぎ用にいつも持ち歩いているナイフを懐から取り出すと、神依士の顔は面白いように変わった。


「な、何をする気だ」


 途端に怖気づいた神依士は後ずさる。

 着ている法衣だけ無駄に立派で、中身は空っぽの臆病者。語るのは理想だけで、信者たちを守る力もなく、その理想に殉じる者たちを見殺しにする。

 ミナはこんな程度の人間のどこがいいのか。

 なぜ、捨てられないのか。

 レイヤは妹の消えた扉をじっと睨み、叫んだ。


「出て来い、ミナ! この神依士がどうなってもいいのか!」


 思った通り、ミナは扉から顔を覗かせたかと思うと、現状を把握して慌てて飛び出してきた。ミナの前では暴力はなしだ。レイヤは懐にナイフをしまい、今度こそ妹の腕を握る。


「ま、待て」


 すっかり腰の抜けた神依士が追い縋ってきた。振り払おうとしたが、なおも足を掴まれた。

 レイヤはミナをちらりと見た。

 彼女は神依士の顔を見つめていたが、レイヤの視線に気づくと、はっと兄に焦点をずらした。


 レイヤの感情を沸点まで持ち上げるのには、それだけで十分だった。


 妹の手を離し、利き手の左手で神依士の頬を張り飛ばした。悲鳴を上げたのは傍らにいたミナの方で、神依士は声も上げずに床に倒れ込んだ。

「やめて、お兄ちゃん」

 ミナが泣きながら二人の間に割って入り、レイヤの左腕にしがみついた。彼はミナのことを一瞥し、再度振り上げた手を元に戻す。


 神依士の少年はミナが自分を庇っていることなど気づきもせずに、「話を……」と声を絞り出した。

「教えを守れば、ルクスさまは必ず救ってくださる。ミナも、君もだ。信じるんだよ」


 信じる、だと?

 どの口がほざく!


 呆れて踵を返そうとしたとき、さっきミナが隠れた扉がもう一度開く音がした。

「神依士さま」

 ミナが慈しむように呼んだその名前にも虫唾が走る。

 現れたのは一人の男。目の前の見習いよりずっと豪華な装飾のついた、大そう金のかかった法衣を着ている。本職の神依士のようだ。

 神依士はミナを見て「ミナ」と呼んだ。

 次に隣のレイヤに視線を移した。口を開く。

「……レイヤ?」


 レイヤははっと目を見開いた。

 むしゃくしゃするのでこっちの神依士も殴って帰ろうかと思っていた気持ちが一気に引っ込んだ。

 ぱっと後ろを振り向いて、すぐさま神殿から逃げ出す。テントに戻ると、ミナは兄の雷を覚悟するかのように身を小さくした。

 震えるくらいなら、レイヤは思う。

 震えるほど罪悪感があるのなら、ルクス教徒なんぞやめてしまえばいいのに。


「ルクス教の神殿に行くことがどれほど危険なことなのか、分からないのか」


 ミナは俯いたまま、その質問には答えなかった。

 貝のように押し黙ったミナに、抑えていた怒りがふつふつと沸き起こってくる。


「お前はそんなにルクス教が大事なのか。自分の命よりも大切なのか」


 ひっく、ひっく。しゃくり上げるようにして、ミナが声を漏らした。


「ルクスさまにお祈りしたいの。……抑えられないの。お兄ちゃんに言っても、分かってくれないじゃない」


 かちんときたレイヤは、テントの中央にどっかと座り込んで、ミナの肌着や荷物を彼女の手に押し付けた。


「もういい」


 泡を食ったような表情のミナがこちらを見る。


「出て行け。このテントにルクス教徒はいらない」


 ミナはびくりと体を震わせた。同時に咳の発作が彼女を襲った。

 しゃがみ込み、倒れ込んでもいいくらいの咳だったが、足から根でも生えたかのようにその場を動かなかった。

 咳が一旦止むのを待ってから、レイヤはもう一度言った。


「出て行けって言ってるだろ! おれの言うことが聞けないのか」


 分からず屋はミナの方だ。

 ここを出て行って、神殿に匿ってもらって、ルクス神にもその神依士にもお前を守る力などないと悟るがいい。

 そして、兄を裏切り気持ちを踏みにじったことを後悔するがいい!


 ミナは涙をぼろぼろと零しながら俯いた。

 何度出て行けと声を掛けても、ぶんぶんと首を横に振って、てこでも動こうとしなかった。


「……あの神依士に、おれのことを話したか」


 ミナは顔を上げてレイヤの瞳を見つめたが、すぐに首を振って否定の意を表した。


「おれの名前を口にしたか」


 それにも首を振った。恐る恐る口を開き、「神依士さまは、私のことも元から知っていたわ」と言った。


 レイヤはミナをそのままにして、職場に向かった。遅刻しそうだったので駆け足で行った。

 走りながらずっとミナのことを考えていた。

 おかげで、日曜なのに丘の上の神殿から銃声が聞こえてきたが、それをおかしいとも思わなかった。





(参考:第四話「ルクス教を毛嫌いする兄」

https://kakuyomu.jp/works/1177354054917654996/episodes/1177354054917657874

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