⌘第4話 ルクス教を毛嫌いする兄
少年はずかずかと神堂に上がり込んできた。
ミックの後ろでミナが体を震わせながら、彼の背に隠れるように身を小さくする。
そんな彼女を庇うようにしてミックは立ち上がり、少年を見た。
ひょろひょろに見えるミナ以上に細い体つきで、顔も体もすすで真っ黒、あちらこちら傷だらけだったが、覗く二つの眼光が物凄く鋭かった。
「帰るぞ、ミナ」
少年がミナに伸ばそうとした腕を、ミックは咄嗟に掴んで遮った。
それでようやく少年はミックに目を移した。まるで、体に触れられて初めて彼の存在に気付いたとでもいわんばかりに。
「離せ」
ぶっきらぼうに吐き捨てた少年に、ミックは努めて冷静な調子で尋ねた。
「君は誰」
「ミナを返せ」
ミックの後ろで震えているか弱いミナ。
ルクスさまに穢れのない信心を捧げる純真なミナ。
守らなきゃならない、
「返せない。ミナは怖がっている」
少年はそれを聞くと、ミナを見つめてしばらく考え込んだ。
かと思うと、いきなり冷めた声で笑い出した。
「怖がっているだって? ああ、結構なことだ! それもミナが自分で選んだ道じゃないか」
この張り詰めた空気に似合わない笑い声にミックは呆気にとられたが、ミナの恐怖はさらに煽られたのか、彼女が声にならない嗚咽を漏らしたのを感じた。
「君は誰。ミナのお兄さん?」
答えたのは少年ではなく、ミナだった。
兄の名前を出した途端、その小さな体がびくんと揺れた。
それであらかたをミックは理解した。
ルクス教を毛嫌いしている兄、ということはユス教か。
「どうだっていい。早くミナを返せ」
ミックはすうと息を吸い込んで吐いてから、落ち着いた声で次の言葉を発した。
「さっきも言ったけれど、ミナは怖がっている。君たちの間で何があったのかは知らないが、それが解決しない限りミナは返せない」
「解決しない限りは! はあ、そうか」
何がおかしいのか、それで少年はまた高らかに笑った。
その人を小ばかにした笑い方に、ミックはだんだん苛々してきた。
「ミナ、何があったの」
小さな声で少女に尋ねる。ミナは震える声で、途切れ途切れに答えた。
「見つかったの。ここに来るの。今まで黙っていたから」
ミナに奥の部屋に隠れるように言った。
すぐに父が起きてくるだろう。
少年はミナが走っていくのを見て、笑うのをやめた。
ミナの消えた先をじっと睨んだ。
「君はユス教徒なの?」
少年がミックに掴まれた腕を忌々しそうに見たので、仕方なく離してやった。
少年は掴まれていた部分を大げさにさすりながら、妹とは違う赤みがかった茶色い瞳で、ミックの両目をぎろりと見た。「ミナを返せ」と、変わらない口調で言った。
「ぼくと話すのが先だ。君はユス教徒?」
「違うよ」
少年があっさりと否定したので、ミックは虚を突かれて次の言葉を見失った。
ルクス教徒を恨んでいるのではなかったか。
「なら、君はルクス教……」
「神依士は嫌い」
言ってミックを睨みつける鳶色の瞳に、赤い敵意の火が灯った。
「大人しくしているうちにミナを返せ。さもなくば……」
少年は左手で懐を探り、何かを取り出そうとした。
「ひと暴れして、あいつを連れて行くだけだ」
ミックは少年の手元にあるものを見てはっと息を呑んだ。
ナイフ。
少年の持つ凶器の切っ先は、ミックの方に真っ直ぐ向いていた。無意識のうちに彼の心を通り過ぎていったのは、彼が心から敬愛する神の御言葉ではなくて、ユス教を恐れる信者たちの声だった。武器を持て。殺されたいのか!
ミックは口を開いたが、そこからは熱い息が漏れるばかりで、声が言葉として出てくることはなかった。
朝日にてらてらと光るナイフの刃の方に目が引き寄せられる。
離そうとするが離れない。
愛せ、そして理解せよ。
数刻前にミナに対して実践しようとしていたルクス教の基本教義は、この少年の前では少しも役に立たないかのように思えた。意思に反して、ミックの体が後ずさろうとする。
少年は、尻込みしたミックのことを鼻であしらった。大きく息を吸う。
「出て来い、ミナ! この神依士がどうなってもいいのか!」
ミックが人質になっているのか? 少年の意図を理解した途端、ミックの金縛りが解けた。少年に負けじと大きな声で叫んだ。
「だめだ、ミナ! 出て来ちゃだめだ!」
ミナは転がるように走り出てきた。
少年は勝ち誇ったように笑い、ナイフをちらつかせてから懐にしまった。
「世話を焼かせるな、行くぞ」
「待て、ミナ。君も。話は何も終わってないだろう」
少年は、ミックの脇をするりと抜けてミナの下に走った。あっと思ったときにはもう遅かった。少年はミナの細い腕を掴み、引きずり出すところだった。
「待てって、君」
追い縋ろうとした彼に少年が呆れたため息をひとつついたと思ったら、次の瞬間には、ミックは思いきり横面を張り飛ばされていた。その痩せぎすの体型からは想像もつかないほど強い力だった。
ミックは体験したことのない痛みに呆然とし、膝をついて目をぱちくりした。
少年は倒れたミックを尻目にさっさとこの場を離れようとしたが、ミックは床を這いつくばって、やっとのことで彼の足下に縋りついた。
「待て、話を……」
そこまでしてようやく、少年は鬱陶しそうに足を止めた。冷たい声が神依士見習いの上に降ってきた。
「お前はおれたちに何をしてくれるんだ、え? ルクスの神依士さんよ」
少年の冷えた視線と、そんな兄に強く腕を掴まれ、痛みに顔を歪ませたミナの縋るような視線が同時にミックに注がれた。
孤児の少女の金の瞳。
神依士とルクス神を信じる純粋な瞳。
兄に疎まれ、倦厭されながらも、信じることを忘れない強い瞳。
「……ぼくには何も力はない。でもルクスさまは違う。教えを守り愛と慈しみの道を歩めば、ルクスさまは必ずぼくたちを守ってくださる。信じるんだよ」
「信じる、か」
少年はそこで言葉を切った。
「おれの大嫌いな言葉だ」
少年が呆れたように吐き捨てて踵を返そうとしたそのとき、奥の戸が開く音がした。父が起きてきたのだ。
「神依士さま」
ミナが悲痛な声で叫んだのを最後に、少年はぱっと駆け出した。哀れな妹は足をもつれさせながら引っ張られていった。
父が後を追ったが、少年たちは姿をくらませたあとだった。父はすぐにミックの元に戻ってきて、何があったのかを尋ねた。
「ミナのお兄さんが来たんだ。それでミナを、無理矢理に連れて行った」
殴られたことは黙っていた。
だが、ミックの腫れた頬を見た父は察したらしい。
「怪我をしたのか。大丈夫か」
「大丈夫。もう掃除は終わらせたから、昼餐会の準備をしよう」
それで立ち上がろうとしたとき、神殿の外の方から、火薬の破裂音がした。
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