☆第18話 レイヤのした選択

 ミナがルクス教徒であるという事実に対する反発も手伝って、レイヤはユス教の経典をもっとよく学ぶようになった。もちろん経典を買う金などなかったので、隙を見て工場長から盗んだ。工場長は経典をどこかに落としたと言って真っ青になっていたが、新しいのを買ったら満足したようだった。

 工場が終わると、レイヤは真っ直ぐにテントに帰らず、経典の隠し場所まで行って街灯に照らしてよく読んだ。教義の内容は難しくて理解しがたかったが、とにかく文言を暗記した。それは文字を自分で勉強した時と同じ感覚だった。知っていれば、いつか役に立つ。


 数か月で、冒頭の基本的な部分はすらすらと暗唱出来るようになった。

 レイヤはそのことを回りに吹聴して回った。

 金を貯めて経典を買ったこと、それを暗記するまで読み込んで勉強していること。


 工場長は自分の経典を盗まれているとは露知らず、レイヤの姿勢を見て感心していた。

 ここまで来ると、レイヤはユス教のことも、宗教戦争のことも、さらにはそれが関係する城の中の騒動や下々の民の生活まで、ほぼ完璧に理解していた。

 国王がユス教徒だったから今こうしてのし上がっているものの、ユス教は元々は軟弱宗教で、それを支持する人はあまり多くない。だから、身分を問わず布教に努めているらしい。

 つまり、レイヤのようなそこらにいる孤児でも、ユス教徒であると称すれば何らかの利益があるはずだった。


「すごい」

 一番身近にいたユス教徒、工場長は感嘆して声も出ないようだった。

「どこで勉強したんだ、そんなこと」


 教義についてもユス教の歴史についても経典を開けば載っていたし、そこら辺を歩いているユス教徒たちをつかまえればいろいろなことを教えてくれた。

 街を歩く人間がユス教徒かどうかは、一目で分かった。無能そうなのに偉ぶって胸を反らせながら歩いているのがユス教徒で、反対に、怯えるように肩を竦め、身を小さくして通り過ぎるのがルクス教徒だ。

 上手に経典を諳んじて見せるだけで、レイヤは早速、沢山の恩恵に預かれるようになった。少しばかり小遣いをくれた貴族もいたし、食べ物を分けてくれた店主もいたし、工場長はレイヤの給料を倍近くまで上げてくれたりした。


 レイヤはいい子ぶることを覚えた。

 心の中ではユス教を見下しながら、上辺だけの笑顔で相手との関係を作れるようになっていった。

 顔が売れるに従って、行動も制限されるようになり、気の向くままに暴れることも減っていった。

 ユス教徒に取り入って実を取ろうとしたレイヤの作戦は、結果的に吉と出た。

 戦況が悪化して、段々ルクス教徒を町から排除する動きが出始めたからだ。

 成人したかしないかくらいの若いユス教徒たちが、正義の名の下の自警団を作って巡回するようになった。レイヤも呼び止められて、聞かれた。


「お前は何を信じている?」

「ユス教を」


 すると離してくれた。何も答えられなかったり、ルクスの名前をうっかり出してしまったりしたら、立ち上がれなくなるまで殴られるか、腕を引いてどこかに連れていかれるかした。レイヤは後を追ってみたけれど、荷馬車に積み込まれてから先は分からなかった。


 ミナが兄に黙って神殿に行っているのを見つけた日から半年が過ぎていた。あれ以来、彼女はルクス教の名前をレイヤの前で口にすることはなかったが、彼女が信仰を失っていないことは兄の目からは明らかだった。

「ユス教の貴族からもらった」と言って金を見せたとき、「ルクス教徒が捕まっていた」と話したとき、その金の瞳に瞼を下ろし、睫毛を細かく震わせる姿をレイヤは見ているのである。

 レイヤは彼女の信仰心を知っていながら、直接言うのを避けていた。

 なぜなら、「ルクス教徒をやめろ」と言ったが最後、彼女は岩になったかのように強情になり、食事も、薬も、一切口にしようとしなくなるからである。

 そのささやかな、体を張った反抗に、レイヤは毎度気を揉まされた。

「ああ、このごうつくばりめ! そこまで本気ならいいさ! 邪教と一緒に心中するがいい!」

と突き放したこともある。けれどミナは、泣きながら、「許して、お兄ちゃん」と縋りつくのである。

 どんどん衰弱していく妹を見殺しにするわけにもいかず、毎回彼の方が根負けして、「もういい。いいから、ごはんを食べろ。元気を取り戻すんだ」という羽目になるのだった。

 彼女が神を捨てられないとしても、兄としてそれを受け入れるわけにはいかなかった。レイヤは説得の方向を少し変えた。


「ユス教徒のふりをしてみろ、ミナ。ユス教の教義を覚えて、誰かに聞かれたらユス教徒ですって言うんだ。おれもそうしてる。ユス教を本気で信じなくたっていいんだ」

「お兄ちゃんはユス教の人を騙しているってこと?」

「悪いか? 向こうが勝手に駄賃をくれるだけだ」


 なだめてもすかしてもミナは煮え切らないようだった。

 ミナは最後までいい顔をしなかったが、レイヤが彼女の信心についてどうこう言うのを控えたらミナも口を挟むのをやめてきた。


 ある日、東大通りを通りかかった貴族にいつものように経典を諳んじてみせると、貴族はえらく感心して頷いていた。

 いつものように駄賃をもらえるかと思ったが、その貴族はレイヤの予想もしなかったことを言い始めた。


「君はレイヤだね」

「そうだけど」

「レイヤ。よかったら私の家に招かれないか。君ほど立派な信者は見たことがない。もっと君の話を聞きたい。君さえよければ、私の養子にして城に上げてやってもいい。こんな孤児暮らしは嫌だろう?」


 レイヤは踏み込んだ申し出にびっくりして、慌てて首を振った。

 貴族が自分のことをそれほど買っていることに驚いたし、裕福な生活も憧れではあったけれど、宗教に深く関わるのは避けたかった。付け焼刃のユス教の知識からぼろが出るかもしれないし、何より、彼は地雷を抱えているのだ。


「妹がいるんだよ、おれには」

「妹」貴族は少し驚いているようだった。「それは君と血が繋がっているのか。何歳くらい」

「繋がっているよ。同じ母親だ。おれより五つ下」

「父親の方は?」

「知らない」

 レイヤは貴族がなぜそんなことを聞くのか訝しみながら答えた。

 貴族は少し考えて言った。

「分かった。妹も一緒に私の子供になったらいい」

 笑止千万だ。あのミナが、ユス教徒の家の娘になるなど。

「おれも妹も、この生活は気に入っている。別に貴族になりたいとは思わないよ」


 貴族は何にこだわっているのか、まだ諦められないようだった。レイヤは適当に言いくるめ、急いでその場を離れた。

 やりとりの最中は焦ったが、後から考えてみれば笑える話だった。テントに戻ると、待っていたミナにこの話を語って聞かせた。

「いや。ユス教の人なんて」

 ミナは本当にもらわれていくところを想像したのか、泣きそうになっていた。


 それからいくらも経たないある日、突然耳に痛い発砲音がした。西の広場の方からだ。経典を読もうと思っていたレイヤはそれを放り出し、音のした方に駆けて行った。


 そこには血を流して倒れた男と、彼に銃を向けているもう一人の男がいた。彼はまだ煙を上げている銃を持ち上げ、遠巻きに騒ぎを見つめる市民たちにその先を向けた。驚いた野次馬が身を引こうとすると、男は大声を張り上げた。


「ルクスの邪教徒はいるか! いたら出て来い! 腐った脳味噌に風穴を開けてやる!」


 群衆の中で何人かが踵を返そうとした。

 男の仲間と思われる者たちがそういう人たちを素早くつかまえて、男の前に差し出した。

 男は彼らに何かを聞いた。彼らは何も聞こえないかのように下を向くか、もしくは震えながら懇願するように男を見るしかしなかった。

 けれど誰も、頷いたり、首を振ったりしなかった。

 ルクス教徒であることも、そうでないことも、どちらも認めなかったのだ。


 男は有無を言わさずに引き金を引いた。

 頭を撃ち抜かれた二人目の犠牲者は横向きにどさりと倒れた。

 発砲音は続き、すぐに次の犠牲者が出て、広場を取り囲む者たちに戦慄が走った。




 これが、ユス教徒が初めて火器を持ち出した事件だった。

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