☆♡第17話 ミナが兄に黙っていたこと

 テントの中は荒らされた様子がない。固めて置いてある僅かな金もそのままだった。

 悪い予感がして、レイヤはぱっとテントを飛び出した。

 ごちゃごちゃした貧民街を通り抜け、右を左を見やってミナの姿を探す。だが、レイヤの妹はどこにもいない。

 貧民街の端まで来て、庶民の暮らす市街地に抜ける細道に差し掛かったとき、そこを見慣れた顔が歩いてくるのを見つけた。


 ミナは貧民街の入り口で待つ兄の姿を見て、はっと体を強張らせた。

 怒りに目を吊り上がらせたレイヤをおっかなびっくり見返す。

「どこに行っていた」

 ミナが何か事件に巻き込まれたわけではないことに安心しはしたが、レイヤの言いつけを破って出歩いていたことが気に障った。

 短く冷たい声で尋ねると、ミナは震えながら言った。

「お帰り、お兄ちゃん。今日は早いの?」

「ごまかすな。どこへ行っていた!」

 ミナは震えるばかりで何も答えなかった。今にも泣き出しそうだった。持病の咳の発作がミナを襲い、彼女は苦しそうにしゃがみ込んだ。

 そんなミナの肩を抱いてやらず、歩み寄ってもやらないで、腕組みをしながらミナを睨み続けると、やがて観念したように彼女は答えた。


「……ルクス教の神殿に行っていたの」


 レイヤの目の前が暗くなった。

 ふらつきそうになったが、妹に弱みを見せたくなかったレイヤは、四肢に力を込めて踏み留まった。

「いつから」

「……去年くらい」

 ミナが七つの頃から。……一年も。

「どうして黙っていた」

 ミナはぽろぽろと涙を流して泣いた。「……ごめんなさい」






 ミナが神像のことを思い出したのは、今から一年と少し前。

 兄と一緒に市場から帰ってくる途中で、ふっと頭の中に映像が降りてきたのだ。


 坂を上って、芝生に挟まれた石畳の道を一歩ずつ踏み締めて、ある建物の中に入り、白くて、大きくて、ごつごつしていて、それでいて優しい瞳をしている何かを見つめている光景が。


 初めは何か分からなかった。

 兄が知っているかもしれないと思って尋ねようとしたが、兄は機嫌を悪くするばかりで答えてくれなかった。

 この話はしてはいけないのだと感じ、そのまま忘れようかと思ったが、白くて大きくて優しげな何かは、その後も事あるごとにミナの記憶に現れた。夢枕に立ったこともあった。

 本物のそれを見たいという衝動はついに抑えきれなくなり、ある日意を決したミナはテントを飛び出した。


 坂を上り切ると、記憶にある通りの一面の芝生が目に飛び込んできた。

 記憶が本当だったという実感は、彼女の足を軽快に前へと進ませた。

 覚えている通りの真っ直ぐな道、覚えている通りの石造りの建物。扉は開いていて、何かの斉唱がミナを呼び込むように美しく響いていた。


 入り口のミナに気づいた一人が歩み寄ってきて、彼女を優しく中に誘った。兄と同じくらいの背丈で、肩から足元まですっぽり覆える大きな紺色の服に身を包んでいた。

「ごめんね。昼餐会はまだなんだ」

 彼らは神依士かむえしと呼ばれる人たちで、ルクス神に祈りを捧げて毎日を暮らしているのだという。ルクス神だという大きな神像は、空へ向かって羽ばたくような姿勢で掲げられていて、その優しげな眼差しはミナの記憶にある通り、いやそれよりも美しく感じられた。神依士たちはルクス神の教えを唱えていた。


『夜が明けるとそこに光が満ちるように、ルクスさまはそこにいる。愛せ、慈しめ。そして理解せよ。ルクスさまが常にそこにあることを』


 その言葉はすうっとミナの心に染み入り、彼女は知らず知らずのうちに涙を零していた。兄と一緒にいるときには感じたことのない気持ちだった。神依士の見習いだとかいう少年が彼女の涙を拭ってくれた。


 自分の古い記憶を頼りにここに来たのだと話すと、神依士はミナの母親を知っていると言った。

「君は赤ん坊のときからここに通っていたんだよ」

と神依士は言い、兄の聞かせてくれなかった母のことを教えてくれた。顔も声も覚えていない母が自分と兄のことを本当に愛していたと知ったミナは、母が同じように愛したルクス教についても知りたくなった。

 神依士の祈りの言葉を聞き、教義を教わる度、ミナにはルクス教が素晴らしいものに思えた。気づいたら、敬虔な信者になってしまっていた。


 彼女は何度も、神殿で見聞きしたことを兄に話したいと思った。けれども、「絶対にテントを離れるなよ」と毎度言い置いて仕事に出掛けていく兄に頷く度、本当のことを言う機会をますます失っていくのだった。

 最近兄が塞ぎ込んでいたとき、ミナは自分が神殿に通っていることがばれたのかと思った。いつ叱られるかとびくびくしていたが、あるとき急に態度が軟化したので、ミナはまた安心して神殿に通い続けた。兄を騙しているという罪悪感は、今更になって湧き起こってきた。

 それがミナの話した全てだった。






 レイヤは頭を抱え込んだ。大事に守ってきたはずの妹が、自分の知らないところで、憎きルクス教徒と通じていた。

 しかも、母の話を聞いただと。

 母と自分たちを見捨てたルクス教徒が、どんな言葉をもって母を語り得るというのか!


 彼はつかつかとミナに歩み寄り、口を真一文字に引き結んで、その頬を張り飛ばした。軽いミナの体は弾かれたように転がり、彼女は倒れたまま泣いた。


「ルクス教徒なんてやめろ」

「……なんで」

「お前には話してこなかったが、おれたちの母さんはルクス教徒だったから死んだんだ」


 ミナは目を見開いた。涙はもっと溢れてきた。

 その様子を見ると、ミナの母親が殺されたから宗教戦争が始まったのだという事実は、神依士たちの口からは伝えられていないらしい。


「ルクス教徒だから死んだの? どうして?」


 レイヤは自分から言っておきながら、そのミナの問いに答えるわけにもいかず唇を噛んだ。


「お前だって、他の神依士だって、そのうち生きていけなくなる。だからやめろ」


 ミナは体を起こすこともせずに、一生懸命首を振った。

 涙が横向きに地面へと伝う。


「でも、皆いい人なのよ。お母さんも」

「ルクス教徒の中にいい奴なんていない!」


 ミナのためにと思って必死に押し込めようとした感情が、むくむくとまた顔を出し始めた。母はルクス教を信じていたから死んだ。惨たらしい方法で殺された。ルクス教は悪の宗教だ。レイヤの大事な二人の家族を、どちらも奪おうというのか。


 ミナはわあわあ泣いた。レイヤがどんな気持ちで彼女を説得しようとしているのかなんて知りもしないで、「いや」の一点張りだった。

 いつもは従順で大人しいミナなのに、このときばかりは人が変わったように強情になった。それに興奮したミナはいつもより呼吸が辛そうだった。


「神殿には二度と行くな。行かないと約束しろ。あいつらから何を聞いたか知らないが、あいつらが言うことは皆嘘だ。ルクス教なんぞ忘れてしまえ」


 ミナはなかなか首を縦に振らなかった。

 そのまま、日が暮れるまで、神殿で何か食べて来ただろう彼女のお腹が減るまで、もう一度兄に縋るしかないと思うまで、意地を張らせておけばよかったのかもしれない。

 だがそのときは、病の発作に苦しむ彼女に歩み寄らない自分を良心が苛んだ。

 二日間の只働きに疲れていたのもあった。

 レイヤはミナが返事をするのを待たずに、妹の腕を無理矢理に引っ張った。妹はつんのめるようにして歩き出した。ミナがしゃくり上げる声と、息苦しそうな咳の音は、ずっとレイヤの後を追ってついてきた。


 テントに帰ると、レイヤはすぐに横になった。お腹がぺこぺこなのは我慢した。

 ようやく咳の発作の収まったミナは、不貞腐れて眠ってしまった兄に恐る恐る手を伸ばした。

 ミナが彼の肩に手を置いて泣きながら「ごめんなさい」と言うのを、レイヤは寝たふりをしながら聞いていた。




 後から考えると、レイヤがミナの気持ちにきちんと向き合わず、彼女の信心が消えてなくなるのをちゃんと見届けなかったのが、孤児のレイヤの最大の失敗だった。


 レイヤは知り合いの孤児に、ミナが言いつけを破って外出していないか見張るよう頼んだ。

 それは二週間続けられたが、見返りに渡した錫貨のせいで彼は昼食を抜く羽目になり、この方法はすぐに立ち行かなくなった。

 それでも見張ってもらっていた約二週間の間、ミナが出掛ける素振りは見せなかったと言うし、レイヤは妹が言いつけを守るようになったというだけで満足していた。


 それが失敗だったのだ。

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