☆第16話 宗教戦争が始まった理由

 工場で働くようになってから、レイヤは社会性を身に着けざるを得なくなった。

 最初は肩をそびやかすようにして足を踏み入れたレイヤも、元からいた労働者たちの洗礼を受けてあっという間に自信を叩きのめされたのだ。


 工場には孤児の他にも、大勢の大人がいた。

 生意気な態度をとればぶたれる。

 口答えをすれば賃金を減らされる。

 自分の体一つで妹を守って来た時とは訳が違った。

 泥棒をするときのように覚悟をもって襲おうとすればやり返せたかもしれないが、体格の差は別としても、工場の中での力関係に敢えて抵抗する意義を見出せなかった。

 時には理不尽だと感じることもあったけれど、レイヤは言葉を飲み込んで事を荒立てない術を覚えた。

 時が経つにつれ、レイヤは仕事も覚えててきぱきと働けるようになり、穴あき銅貨二枚に加えて錫貨も二枚もらえるようになっていた。


 従順な態度が功を奏したのか、レイヤは他の孤児たちと同様大人にかわいがってもらえるようになっていた。

 仲良くなると、大人たちはいろいろなことを教えてくれた。

 国王が病に倒れて臥せっているとか、昔は日曜は二時から七時までしか仕事がなかったのに今は十時から来させられているとか、多くはどうでもいい話題だったが、中には少ない燃料で効率よく火を焚く方法のような、価値のある情報もあった。

 愛想のいい人はレイヤの質問にも気軽に答えてくれた。


「スープの味がしないんだよ」

「塩を使ってみろよ。ほんのひとつまみ入れると、驚くほど変わるぜ」

「塩なんて高くて買えない」

「安いのもあるさ」

「安いのでも高いんだってば」


 それがあるとき、宗教の話になったことがあった。


「宗教戦争がどうして始まったか知っているか」


 レイヤはずきんと頭が疼くのを感じたが、そのまま尋ねた。


「知らない。教えてくれよ」


「酔っぱらった三人のユス教徒が、一人のルクス教徒の女性を殺してしまったんだ。彼女はすごく熱心だったそうでな、ルクス教徒は怒ったのなんの。天下のユス教に対し、成敗してやるなんて意気込んだんだ」


 ある言葉がレイヤの頭に引っ掛かった。

 三人のユス教徒。

 母を殺したユス教徒も、丁度三人ではなかったか。


 話を聞いてみると、時期としてもぴったり合った。労働者の、次の言葉が決定的だった。


「あほみたいだぜ、ルクス教も。殺されたのはただの無宿人だって言うんだから」


 無宿人。

 同じ時期に、無宿人のルクス教徒の女性が三人の酔っぱらいのユス教徒に殺されるという事件が、そういくつも起こるものか?


 レイヤの頭の疼きはいよいよ本物の痛みとなって彼を苦しめ、その表情を醜く歪ませた。彼は荒く息を継いで労働者に詰め寄った。


「なあ、その殺された女の人って、子供はいたのか」

「さあ、そこまでは知らないよ」急にレイヤの声の調子が変わったことにびっくりした様子で男は言った。

「じゃあ、酔っぱらった三人のユス教徒って誰だ」

「それも知らない。何をそんなに知りたいんだ」


 酔った三人のユス教徒の男が一人のルクス教徒の女性を殺し、宗教戦争が始まったという事実は、随分有名な話のようだった。レイヤに話をした労働者も、自分から話題を振ったくせに、知らなかったのかと驚いた顔をしていた。


 レイヤは頭の痛みに耐えながら作業に戻った。

 何に使う部品かは分からないが、炉に差し入れた金属を、熱くなってぐにゃりとなる曲がる瞬間に引き抜いて大人の労働者に渡す。大人は二人掛かりでその金属にハンマーを打ち付ける。金属は平らになりながら冷えて固まり、レイヤが炉に戻して、また熱されるのを待つ。


 炉が金属を飲み込んで強く燃え上がるのに比例して、レイヤの心の中にも熱いものがくすぶり始めた。


 母を殺した三人のユス教徒たち。

 今どこで、何をしているのか。母を奪いレイヤたちをどん底に突き落としたのを忘れてのうのうと生きているのか。


 母の仇を取ろうと発奮するばかりで、残されたレイヤとミナのことは捨て置いたルクス教徒たち。

 それが、正義と愛を掲げるルクス教団のすることか。


 レイヤの鳶色の瞳に、紅い炎がめらめらと映り込んだ。


「おい、坊主。早くしろ!」と労働者に怒鳴られるまで、炎と共に自分の心を見つめていた。

 恨みは鋭い熱となって彼の心を焦がそうとした。仕事が終わってもその熱は冷め切らず、その晩帰ってきたレイヤは、晩飯のスープを何も言わずにかっ込んで、心配そうに声を掛けようとしたミナに背を向けてさっさと体を丸めてしまった。


 何日もの間、レイヤはミナにも口を利かず、仕事に行く以外はずっと塞ぎ込んでいた。

 妹を守ることを考えたら、怒りの感情など忘れて理性的に生きていった方がいいに決まっている。怒りと憎しみだけで渡り歩けるほど世界は優しくないと、工場で身をもって学んでいるのだ。

 自分の中で揺さぶり起こされたこの感情は、彼のことを何度も苦しめた。その度に自分の心と向き合い、はたまた目を背け、レイヤの心の天秤は右に振れたり左に振れたりを繰り返した。憎しみに特効薬などなく、ただ日々が過ぎていくのに合わせて、次第に感情を押し殺していくようになっていった。

 妹に元のように優しく微笑みかけてやれるくらい気持ちが落ち着いてきたとき、顔をひしゃげて泣くミナを見て初めて、自分がどれほど気を張っていたのかを知った。


 レイヤは妹を抱き締めながら、これからどうするのかを考えた。冷静に、二人の利益だけを優先してやるべきことを考えた。

「真っ白で、大きくて……」と語ったミナの言葉がちらと頭によみがえる。ルクス教の昼餐会に行けばおこぼれがもらえるというが、薄情者に縋って生きていくなどまっぴらごめんで、それに行く気はちっとも起きなかった。

 どうやら巷ではユス教徒でいる方がいいらしい。それは戦況がユス教側に傾いているのもあったし、何より国王と王子がユス教徒だった。そのうちに国内がユス教一色に染まるだろう。そうなってから行動を起こしても、得られるものはあまりない。

 宗教になど関わりを持ちたくないし、母を殺した男たちの宗教に自ら手を伸ばすことを叱りつけるもう一人の自分もいたが、レイヤはその葛藤すらも飲み込んで、一歩踏み出した。


「おじさん。ユス教の経典持ってないか」


 レイヤは工場長にそう聞いた。工場長は仕事の手を休めているレイヤを見て眉根を寄せたが、彼の出したユス教という言葉にはまんざらでもない反応を返した。


「ユス教の道に入る気か?」

「とりあえず、読んでみようと思って」

「読むって。お前、字が読めるのか」

 母から少しは習っていたし、工場で働くようになってからも、役に立つかと思って自分で勉強をした。そういえば母はルクス教の経典を持ち歩いていたはずだ。殺されてから、恐らく孤児街の孤児たちに盗まれたままその姿を見ていないけれど。


 工場長はレイヤに少しだけ休みをくれた。

 他の労働者たちが不審な目をくれたが、レイヤはそれに頓着せず、工場長が差し出した経典を開く。

「今から一時間貸すだけだ。本当に欲しいと思ったら買え。お前の五か月分の給料だ」

 こんな薄っぺらい本一冊で、ミナが半年近く生活していけるだなんて。あほらしい。レイヤは座り込んで表紙をめくり、最初のページを読もうとした。

『ユス教は……ガガラ・ユストゥスの孫である……ノイマン……ユストゥスが……』

 こんな小さい文字をこんなに沢山読んだことはなくて、レイヤは眩暈がした。

 一時間で、最初のページの半分も読み終わらなかった。


 工場長に経典を返しながら、レイヤは何気なく言ってみた。

「難しい。まるで覚えらんないや。なあ、ルクス教の経典はないの?」

 工場長は経典を取り上げると、レイヤを怒鳴りつけた。

「ルクス教だと? そんな邪教に傾倒する奴はこの工場にはいらん。出て行け!」

 レイヤは慌ててその場を取り繕った。予想はついたが、ルクス教は相当毛嫌いされているらしい。

 なんとか解雇されずに済んだが、その日の賃金はもらえなかった。


 工場から帰るとき、知り合いの孤児が近寄ってきて、レイヤが休んでいた理由を聞いてきた。ユス教の話を持ち出したことを伝えると、彼は飛び上がらんばかりに喜んだ。

「工場長にユス教の話をすればいいんだな」

 次の日、工場の労働者たちは読めもしないくせにユス教の経典を取り囲んだ。経典を借りるときはよかったものの、業務は全く進まなかったので返す時には工場長はかんかんで、その日の賃金は誰ももらえなかった。

 いつもより何時間も早いのに、まだ日も高いうちに家へと戻された。


「お前の言う通りにしたのに」

 彼は悔しそうにレイヤをなじった。

「ちょっとは考えろよ」

 レイヤは苛々と言い返す。

 相手はまだいい。しかし、レイヤは二日間何ももらえていないのだ。毎日の給料は二人が食べていくのでぎりぎりだった。今週は追い剥ぎをしなくてはいけないかもしれない。

 レイヤは妹のことを考えた。追い剥ぎをして戻ると、必ずミナは泣く。

 兄が自分のために身を危険にさらしていること、誰かを傷つけていること、言葉にはしないがそれらを気にしているらしいことはレイヤも気づいていた。

 いつまで経っても変わらない泣き虫にほとほと呆れるが、病を抱えた自分と兄が生きていくために仕方なくしているということは、ミナもきちんと分かっているはずだ。


 こうして仕事を早上がりするのは初めてだ。

 早く帰ってきたレイヤを見て、妹は驚くだろうか、喜ぶだろうか。

 そんなことを考えつつテントに戻ると、いつもそこに待っているはずのミナがいなかった。

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