夏、アスファルトに落ちる前に
明里 好奇
夏、アスファルトに落ちる前に
まだ、目を開けたくない。だって、外は暑い。閉めたカーテンは遮光性が低くて、夏の強い日差しが削がれることなく入ってくる。多分、このまままどろんでいても、少しずつ消耗していくはずだ。
昨日はミンミンゼミが鳴きだした。もうすぐこの長い休みのしっぽに手が届いてしまう。世界が終わるわけでもないのに、言いようのないこの感覚は何だろう。
きっと、あんたにはわからないんだ。夏が過ぎていくのが寂しいだなんて言ったら、きっと笑われてしまう。
――ばっかだねえ、お前は! 夏は終わんだよ。んで、来年また来んの。だからそのまま待ってりゃあいいんだ。
そう言って強く笑う。ぼくがどんなに足をとられることでも、些細で馬鹿みたいに不安になることでも。ついでに、弟には不安や弱点も見せやしない、心配もさせてくれない。
兄は、そういう人だ。
「おいこれ、起きろ。いつまで寝てんだ」
聴きなれた声がした。
「なんで俺まで来なきゃだったのー!」
部屋の中から見えていた空は、見えていた通り青く深く澄んでいた。馬鹿みたいにおおきな積乱雲が白く眩しく見える。殊更大きいひとつが、俺たちを見下していた。
風は吹き抜けるが、良くてぬるくて大体熱風だ。
兄が先行して前を歩く。その後ろをちんたら追いかける。暑いと感じるよりも息苦しさに近い、汗があとからあとから流れ落ちて、アスファルトの色を濃くしていく。
先を歩く兄はスイスイと進むから余計に腹が立つ。涼しそうに見えるのだ。それは外面がそう見えるだけで、実際には俺と同じくらい汗をかくことも、俺以上に熱いやつなんだってことも俺は知っている。
知っていてなお苛立つのは、多分夏のせい。あほみたいに暑い、夏のせいだ。
「どうせお前暇だったんだろ。予定が出来ただけでも良かったじゃん」
兄に起こされ、何事かとついて来てみれば、目的地は最寄りのコンビニだった。コンビニに行くために、弟を起こしたらしい。ひとりで行けばいいのに。
何か用事があるのかと思えば、兄は煙草とアイスを数種類買っただけだった。釣銭と一緒に煙草を受け取って、それを胸ポケットに突っ込むと、コンビニ袋を手渡される。
「ほら」
「……なに」
「荷物持ち」
意地悪そうな笑顔でそう言われて、しぶしぶ受け取ることにした。アイス溶けちゃうし。そんなの、大惨事じゃん。アイスがアイスとしての尊厳を失くすのは、俺としても辛い。
コンビニから出て、兄にねだって買ってもらったアイスを取り出して大きく頬張る。噛み締めると歯に氷の粒がガチガチ当たって、脳から冷やされていくような感覚がする。俺が氷菓を楽しんでいる間に横に並んで歩いていた兄が、眩しそうに目を細めて煙草に火をつけた。
左手の指先に煙草を挟んで、慣れた手つきで煙を吸い込んでいる。俺にはその良さがわからない。煙いし臭いし息が苦しくなる。健康にだって悪い、それなのに好んで煙草を吸う感覚がわからなかった。ただびっくりするくらい格好良いいから、ちょっとむかつく。
立ち上る青みがかった煙を眺めながら、また氷菓を齧る。兄は俺の五年先を走っている。兄が吸っている煙草も、俺が同じ年齢で吸えるようになるまで丸々五年必要だ。
だから、俺には兄のことがうらやましくてしかたがない。
「何を考えてんのか知らねえが、その間抜けた面で見つめるな。馬鹿が伝染る」
涼し気な目元で流すように一瞥されて、棘のある発言がぶっ刺さる。普段通りだ。くらくらするほど暑いことを除けば、俺たちは何も変わらない。涼しそうに見える兄でさえシャツの色を変えている。俺だって汗をたらたら流していて、一体何のために歩いているのかもわからなくなっていた。指先を冷気が伝う。氷菓が溶けて肘を伝って濡らしていく。
「溶けてんぞお前」
「へっ?! あっ、やっべ!」
冷ややかな兄の顔が、子どもみたいにぱっと華やいだ瞬間を目の当たりにした。あ、いつもの兄だ。間抜けにそれを見ていたら、腕を掴まれた。次いで、低い声が耳朶を震わせる。
「間抜け」
俺は兄の表情の中で甲乙つけがたいほどに好きな表情が二つばかりある。一つは先ほどの無邪気な笑顔で、もう一つは今の。
悪戯をして最高に気分がよさそうな最悪に意地悪そうな顔、だ。にやりと口角を上げて、覗いた犬歯が氷菓を齧っていった。溶けかけて崩れていた持ち手に近い部分をごっそりと。
「あ」
忘れないように氷菓を齧って、どこ吹く風の兄の背中を追う。「なにこれうまーい」なんて楽しそうにしても、もうくれてやるもんか。そう思いながら、あの最悪に最高の表情をもう一度見られるならと、うかうかしてしまう俺は多分、兄に憧れすぎているんだろうと思う。
兄の楽しそうな表情を見られるなら、灼熱の中を二人で歩くのも悪くないと思ってしまう。もちろん、アイスは買っていただきますけれどもね!
そろそろ蝉の鳴く声も聴きなれて、立派な積乱雲の下で普段通りの夏に溺れる。ゆっくりと足元から浸水していって、気が付いた時には溺れていたような、彼と過ごす夏はいつも少しだけ、危うい。
夏、アスファルトに落ちる前に 明里 好奇 @kouki1328akesato
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