最終話 幸せの始まり

 利千佳りちかのいない15年間は長かった。殺意も明確で計画性もあったから、死刑か或いは無期懲役を覚悟したが、被害者遺族からの減刑という異例の申し出があったおかげで、15年と言う刑期で出所出来た。

 出来た、とは言ってもこれからすることもない。強いて言うなら、彼女の幸せな生活を見てみたい。だが、いや、やめといた方がいいかも知れない。口先では強がってみても、結局僕も一人の男。自分以外の男と笑っている姿を見たら、気が狂ってしまうかも知れない。


 刑務所から出ると、僕のことを待ち構えていたかのように一人の女性が走って来た。


「久しぶり」


 利千佳だ。


「え、あ、うん。え? なにしに来たの?」


 彼女のうしろの方に旦那は居ないか。子供は居ないかと探ってしまう。もしも出所直後の僕と利千佳が話しているところを見られたら大変だ。いや、木久太きくたなら問題ないんだけど。別れて違う旦那さんということもある。もしそうだったら気まずい。


 そんな僕を尻目に、彼女は一枚の紙を僕の眼前に突き付けてきた。


「これ、サインして?」


 いったいなんだろうか。ゆっくりじっくり見る。そして、次第に肩が震え始める。

 だって。

 だってそれは。今この場所にはあまりにも似つかわしくない。僕を恐怖と絶望と悔恨かいこんおとしいれるものだったから。


「なんでぇ……! なんでぇえええ!」


 僕は歩道のど真ん中で泣き崩れてしまった。


「なんでって、そんなの円治えんじ君と結婚したいからに決まってるじゃない」


 そう。彼女が持っていたのは婚姻届けだ。彼女の名前も捺印なついんも既にある。


「そうじゃなくて……、君は他の男と付き合ったはずだろう? 幸せになったはずだろう?」

「付き合ったけど、その人に『もしも私のために母親を殺してって言ったら殺せる?』って聞いたら無理だって言ったんだもん」

「そりゃ、無理だろ、普通」

「普通はね。でも円治君はしたじゃない」

「そうだけど、でも」

「いいじゃない別に。なんにせよもう別れちゃったもん」

「ちゃったもんじゃなくてさあ……!」


 ダメだ。涙が溢れて止まらない。どうしてこうなってしまったのだ? 僕の思い描いた彼女の未来はどこから間違い始めた?


「利千佳は、子供が、欲しかったんだろう? 今更、僕と、結婚しても、もう、産めないだろう?」

「そうだね。適齢期は過ぎちゃったし、諦めるよ」

「そんなぁ……!」


 またしても悲しみが溢れ出す。涙を溜めたダムはとっくに決壊してしまっていて、今なら別に悲しくないことでも泣けてしまいそうだ。


「だからなんでそんなに悲しそうなのよ。せっかくこれから結婚するって言うのに」

「だって僕は、君の、君の幸せのためにって思って、ぐぅ……!」


 君のお母さんを殺したんだ。でも、それだと君のせいにしてしまうから。言えない。


「あのね、円治君。私はあなたと私の子供がほしいんであって、誰でもいいから子供がほしいわけじゃあないの。それに私、円治君の言いつけ通りにしたよ?」


 そう言って彼女は、内ポケットから手紙を取り出した。ビリビリに破かれた手紙を、セロテープでぎしたものだ。テープの部分が黄色く変色していて、15年の歳月を窺わせた。


「円治君のワガママを聞いて彼氏を作った。そして電話をして、着拒されて、7月5日に彼氏とデートに行った。警察の事情聴取が終わったら手紙を破いたわ。もちろんそのあとテープで接着したけど。なにか文句ある?」


 彼女はやや不機嫌そうだ。そのせいかちょっと強気。こんな彼女を見るのは、初めてかも知れない。


 でも。


「僕の一番の願いを叶えられてない。幸せになってほしかったのに」

「だから、もう……ほら、ここ」


 僕が下手糞な文字で書いた手紙の一文を指す。


「僕の幸せは、君が幸せになることだから。って書いてあるでしょう?」


 だから、そうなってないじゃあないか。


「私の幸せってなに?」

「え」


 僕は言葉を失って、見つけ出せずに数秒を揺蕩たゆたう。思考を真っ白に塗りつぶしてしまうような言葉だった。


「私の幸せは、あなたの傍にいること」


 心臓を穿うがたれた。ずっしりと重い、彼女の真実。


「だから幸せになりに来たの。行きましょう?」


 僕はボロボロと涙を零した。今度は悲しいわけじゃあない。あのとき彼女の母親を殺してもなんの感情もわかなかったというのに、すべては氷に閉ざされていたというのに。彼女の笑顔はあっけなくそれを融かした。剥き出しの心に手を差し伸べてくる。

 僕がおもむろにその手を取ると、彼女はさらに笑顔を深めて歩き出す。


「とりあえず喫茶店でお茶でもしながらそこにサインをしてもらいましょうか。ペンは持ってきてるの。あ! でもハンコがないわ。どうしましょう。そうだ! 商店街のハンコ屋さんに行って作ってもらいましょう。それがいいわ」


 久しぶりに会った利千佳は少し強引になっていた。

 久しぶりに会った利千佳は少しお喋りになっていた。

 久しぶりに会った利千佳は、しかし、変わらず美しいままだった。


「ねえ、利千佳」


 僕の声に「なあに?」と振り向く。彼女の笑顔は、梅雨が明けてもなお日差しに負けず花弁を咲きほこらせた、空よりも強い青を放つ紫陽花あじさいだ。底抜けの明るさはないが、深みを滲ませた優しさに満ち溢れている。たとえ夜を迎えてもちゃんとそこに在る、確かさを持っている。

 そんな彼女に僕はあのとき送るのをやめた言葉を放つ。



「愛してる」

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毒殺しは、幸せの始まり 詩一 @serch

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