第三話 紫陽花と毒殺し
だが彼女は僕の表情を見て、すぐに口角を上げた。
「金。払う気になったようね。あの子を連れて来てないってことは、もしかして内緒で払ってくれるのかしら? いじらしいわね。ま、そういうことなら入って。お茶くらい入れるわ」
この発言が出ると言うことは、どうやら利千佳は手紙通りにやってくれているらしい。
僕は玄関で脱いだビジネスシューズをきちんと揃えて上がった。
畳の部屋に通される。
冷茶が
僕は何気ない動作で懐からバタフライナイフを取り出した。組み立てている最中に、彼女の視線は僕の手にあったが、しかし声を上げることも慌てて立ち上がることもなかった。窓から入って刃に跳ね返った光が彼女の頬をなぞったとき、ようやく状況を飲み込んだらしい。
ガタッと立ち上がり、視線が交わる。同時に僕も立ち上がり一気に距離を詰めた。
彼女が言葉を上げる前に僕のナイフは正直な思いを伝えた。
「アナタは居ちゃいけないんだ」
おかあさんは僕の顔を見て、震えながら言葉を吐き出す。
「ぐ、あ、アタシが産まなきゃ利千佳は居ない。アンタとも出会ってない。アンタが利千佳と出会えたのも、アタシの、おかげなのよ! 恩知らず!」
致命傷じゃあなかったようだ。まあいい。何度でも刺そう。死ぬまでそうするだけなんだ。別に。回数など関係ない。
二度目を突き立てると、震える指で僕の髪の毛を掴んできた。ブチブチと髪の毛が引きちぎれる音がするが、関係ない。
「アンタ……! わかってるの……!? な、なにを、やっているのか……!?」
「わかっていますよ。僕は正しくあなたを殺したいだけです。それよりあなたの方こそわかっているんですか?」
「な、に、を……」
「利千佳にやってきたことをですよ」
その声が聞こえたかどうかはわからないタイミングで、彼女の目玉はぐるんと回り、ドシャリとその場に
そのまま数秒、そこでただ立ち尽くしていた。
ちゃぶ台に置かれていたタバコを手に取った。タバコをやめて久しいが、なんだか無性に吸いたくなった。ラーメンを食べたあとと、コーヒーを飲んでいるときは、今でもたまにあのときの感覚が呼び覚まされる。その都度誘惑に打ち勝ってきた。けれど、まあ、今回くらいは良いだろう。
僕は血まみれの手で触らないように箱から直接タバコを咥え、ライターで火を
指紋認証の読み取りが上手くいかなかった。それが血のせいなのだと気付いたのは、呑気に3回ほど試したあとだった。
暗証番号を入れ、110とパネルをタッチした。
「なるほどねえ。つまり罪を認めるわけだ」
「はい。僕が殺しました」
「では
「前に彼女の娘の
「ほう? 金を」
「はい。それからもずっとしつこくて」
「なるほどね。被害者の娘と親戚周りの話を
「こっちから出向いて、ケリをつけてやろうと思いました。でもまた揉めてしまって、ついカッとなって……いや、もともとそのつもりがあったんですね。ナイフを持っていたわけですから」
「ふむ。殺意もあり、計画性もあった、と」
「はい」
「しかしそうすると君は、もしかしたら……利用されていたのかも知れんね」
「誰にですか?」
「君の婚約者の
「どうしてそう思うのでしょうか?」
「んー……非常に言い辛いのだがねえ。君が殺人を犯しているただなか、彼女は男性とデートをしていたんだよ。いや、まあ、状況証拠的に見て犯人が君なのは明確だったから、一応形式的な事情聴取だったんだけど、彼女のアリバイを証明したのがその男だったからねえ」
僕は思わず笑ってしまった。
「それは良かったです」
目の前の刑事さんは目を丸くして僕を見た。
「さっきも言ったが君は利用されたのかも知れないんだぞ? 結婚するためには母親が邪魔で、君に殺させた。つまりもともと二股を掛けられていて、君は本命じゃあなかったわけだ。悔しくないのか?」
少し前のめりになって、不機嫌そうな口調で言う。もしかしてこの僕を哀れんで、代わりに怒ってくれているのだろうか。
ますます笑いが込み上げてくる。僕は天井を仰いだ。本当は白い。でも薄暗いせいで灰色に見えるそれは、今まで見てきたどんな空よりも透き通って見えた。
「ああ……! 僕が彼女を幸せにしたんだ……!」
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