第二話 社会的弱者の味方
3か月前のこと。
僕は恋人の
付き合い始めてもう4年。当時はぎこちなかった二人の関係も、今では夫婦のように打ち解けている。週に三日は彼女のアパートに顔を出していて、ご飯も一緒に食べることが多いので、ほとんど同棲しているような状態だった。
そろそろ頃合いだった。既にプロポーズもしていて、彼女からOKは貰っている。今日は結婚の許しを得るためにここへ来たのだ。
紫陽花が目に鮮やかに映る晴れた午後だった。ジトッと汗をかくくらいの陽気に、僕は夏用とは言えスーツを着てきたことを少し後悔していた。ボタンを外してパタパタと扇ぐ。
「だからもっとラフな格好でいいよって言ったのに」
「いやー、挨拶のときくらいはしっかりしないと」
「うちの母さんに、
利千佳は母が嫌いだった。理由は簡単。小さい頃からモラハラを受けていたから。わかりやすい虐待ではないので、この辺りのことを他の人に話しても理解してもらえないのだと言う。
なにか言い合いになると、一言目二言目には「産んでやった」「育ててやった」が飛び出す。その言葉が出ると、彼女はなにも言い返せなくなるのだと言う。
もともと彼女からそういう話は聞いていたので、心の準備は出来ていた。しかしその準備は出来ていた内に入らなかった。言うなれば僕は、ダウンコート一枚で北極に行ってしまったような、或いはスニーカーでエベレストの登頂を目指しているような、或いはおもちゃのピストルで戦争の最前線に赴いてしまったような……まあ要は、覚悟の足りなさを痛感することになってしまったのだ。
「あー、結婚? いいわよ」
「本当ですか! ありが——」
「金」
いきなり言われてキョトンとしてしまった。
「母さん!」
利千佳がちゃぶ台をひっくり返さんばかりに立ち上がった。肩を怒らせて、息を荒くしている。
「当然でしょ」
「それはその、結納金のことでしょうか?」
「それも。でも、そのあとも」
「あとと言うのは、どういうことでしょうか?」
「アタシねー、この子から毎月仕送りしてもらって、それで生活してるのよ」
「なるほど。ではその肩代わりを僕がすればいいんですね」
得心して言葉を返すと、母——
「アンタだって稼いでるんでしょ?」
「もちろんです」
「じゃあアンタも金をよこすのよ。利千佳とは別にね。そんなこともわからないの?」
「母さん! おかしなこと言わないで!」
「子供は親を大切にするものよ。アンタも利千佳と結婚するんなら、アタシの子よ。ならアンタもアタシを大切にしなさい。日本の文化ってやつよ、これが」
結局その日は平行線で終わり、利千佳の実家をあとにするしかなかったのだった。
帰り道、利千佳はずっと謝っていた。彼女が謝るようなことではないのに。
とてつもない毒親だった。
利千佳は就職してからずっと仕送りをさせられ続けていた。毎月7万円。彼女の平均月収を考えると在り得ない金額だ。そして僕には10万円を送るように言ってきた。合わせて17万円。
僕は普通のサラリーマンだ。そんな額を支払えるわけがない。いや、現実的に支払いが不可能と言うわけではない。しかしそれでは未来が潰されてしまうのだ。利千佳は子供を欲しがっていた。子供が出来たら部屋も大きいところに引っ越さなければいけないし、そうなれば家賃も掛かる。そして生活費のみならず養育費や学費も掛かってくる。ただでさえやって行けるかどうか不安なのに、仕送りまでしたら生活できないのは火を見るよりも明らかだ。
「親子の縁を切ろうと思ったことはあるの。でも、私のせいで母さんは離婚しちゃったから」
「どういうこと? 別れろとでも言ったの?」
「そうだよ」
「なにか理由があるはずだ」
「父さん、暴力を振るう人だったの。だから、別れてって」
二人が離婚するまでの間もいろいろあったようだが、それからも生活が向上することはなかった。父親が居なくなって暴力に怯える日々はなくなった。しかし、母の収入ではまともな生活は送れなかった。母は彼女に暴力を振るうことはなかったが、当たり散らすことはよくあった。「アンタのせいで!」と母に責められることが一番辛かったのだと言う。
「生まれちゃ、いけなかったのかな?」
僕は人目をはばからず彼女を抱きしめた。そんなことはないのだと、そのまま消えてしまいそうな彼女の諦めきった微笑みを胸で隠した。
「利千佳は悪くないんだ。誰がなんと言うおうと」
「ありがとう」
彼女は笑う。そう、彼女は笑うのだ。出会ったときから今まで、一日も笑わなかった日はない。彼女の過去は、笑えない日常に満たされているというのに。
「仮に、縁を切れたとしたらさ」
そう切り出すと彼女は困ったような顔をする。
「でも、扶養義務は付きまとうでしょう?」
「確かにそうだね」
彼女の言う通り、扶養義務はいつまでも付いて回る。虐待を受けた子供でも親への扶養義務が発生していて、それを支払わなかったことで
彼女と駅で別れてから、ずっと
例えばこのまま僕と彼女が別れたとして、あの負債とも言える親の面倒を見てくれる懐の広い人が現れてくれるだろうか。
いや、居ないだろう。僕は気の長い方だが、何度も「頭おかしいんじゃないですか!?」と叫びそうになった。
言っていることが
ああ。
彼女は過去だけでなく、未来ごと母親に潰されてしまっているのだ。
親はなんのために居るのだろう。子供を守るためではないのか? そりゃああの親にもいろいろあったのだろう。あったのだろうが、それでも娘の幸せを願えない母親とはいかがなものなのか。結局子供を奴隷程度にしか考えてないのだから、幸せもクソもないのか。
笑った顔が素敵な利千佳。
唄っているとハモってくる利千佳。
ドキュメンタリーを見て枯れ果てるまで泣く利千佳。
僕が一人で残っていると仕事を手伝ってくれる利千佳。
僕が失敗した肉じゃがをカレーに変身させてくれた利千佳。
プロポーズをしたら泣き過ぎて次の日の仕事を休んだ利千佳。
ねえ、利千佳。君はこんなに素晴らしいのに、どうして不幸にならなければいけない?
なんとかできないものか。利千佳を幸せにする方法はないか。
たとえ僕が今の仕事を辞め、より稼げる仕事に転職したとしても、仕送りの請求額が上がるだけだろう。僕がどれほど努力したところで意味はない。
自分のことは、この際どうでもいい。せめて彼女の未来が明るくなれば。
彼女には新しい男性と付き合ってもらい、別れた僕が仕送りをするか? いや、あの親のことだ。僕からも新しい彼氏からも金をせびるだろう。根本的な部分でなんの解決にもならない。
それから三日三晩考え込み、僕は一つの呪詛に憑りつかれることになる。
『あの母さえ死んでくれれば』
そんな、非道徳的な言葉に。
あの母へのご挨拶から一週間後、僕は利千佳と別れた。
利千佳は泣いたが、しかし引き留めはしなかった。恐らく僕のこの先を案じてのことだろう。せめて僕には幸せになってほしいから、まともな両親に恵まれた女性と結婚できるようにという願いがあったに違いない。
なんと優しいのだろう。どうしてあの親から彼女が生まれたのだろう。
僕はしかし利千佳の幸せを願わないではいられなかった。だから別れたのだ。
別れを告げてから、三通の手紙をしたためた。
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