第6話変化


「あの事件以来、嫁が私に優しいのよね」


というご近所さんとささやかな笑い話ができるようになったのも、あれから一年たったからかもしれない。コロナウイルスのために行き来がなかなか自由に出来ないうえ、この辺りは老人も多い。自粛解除とはいえ、都会からここに帰ってくる人はほとんどいなくなってしまった。

だが、別の人たちが出入りするようになった。

 

どうもQさんが離婚が不当だと、慰謝料の請求をしているらしいのだ。


 常識的に考えても正当かもしれないが、このことにはまったく触れることなく、私は余生を過ごそうと思っていた。だが私はそれで済むが、

「アガサクリスティーの作品が大好きなんです」という読書好きの彼女は、私たちよりもかなり若いため、可愛そうなほどだった。


「推理小説自体が読めなくなってしまいました、怖くて。現実に勝るものって・・・ないですね」


彼女にとっては、もうフィクションの世界で楽しく遊ぶことが出来なくなってしまったのだ。


「それでは、全く別の事をしたらどうかしら? アウトドアとか。最近サイクリングロードが整備されたでしょ? 自転車をこぐときはコロナ対策のマスクは必要ないだろうという先生もいらっしゃるから。元々あのサイクリングロード自体人が少ないし、本格的な自転車でなくても楽しいんじゃないかしら。本当は孫たちを連れて行きたかったんだけど」


「そうなんですか、でも私、運動神経が悪くて」


「だからよ。案外そんな人が大人になって理論的に体を動かしたら、いい場合もあるから。あなたは頭もいいでしょ? 」


「そうですかね、ありがとうございます」


ほんの少しのそんな会話の後、しばらくたってからだった。


「こんにちは」


道で、颯爽としたロードバイクの女性から声をかけられた。


「まあ! 本当に自転車? 軽い気持ちで言ったんだけれど」


「むしろそれが私にとっては幸いだったかもしれません。結構筋がいいって褒められて。もしアマチュアの大会が開催されたら、出場してみたいんです」


「そこまでになったの? 」


「はい、本当にありがとうございます」


アッという間に走り去ってしまった。



 こぎ始めでお尻が左右に振れる、楽しそうな後ろ姿を見送りながら、私は少し落ち着いた気持ちになれた。そして冷静に、今回のことに関しては「口に出さないようにしよう」と決めた。娘もそれには大賛成だという。


「言わざる 聞かざる」


今まではこのことの方が難しかったが、これからはもしかしたら

「見ざる」が一番難しくなるかもしれない。何故ならQさんとすれ違った時の表情が、きっと情報のすべてを教えてくれそうな気がしたからだ。

元ご主人の容体も予断を許さないという。


すると禍福はあざなえる縄の如しで、先の方からQさんがやって来ているのが見えた。

私は少し顔を下に向け、自然な感じで歩き始めたが、


「あ! 」声をあげてしまった。


Qさんに聞こえていないはずと、どきどきしながら、心は霹靂に撃たれたような

「衝撃的な考え」が貫いていた。


「私にとっては、彼女の顔を見てしまったら、そこから沼に入ったのと同じだわ」


毎日ではないが、これが小さな恐怖になった。




 そのころサイクリングロードでは、一人の女性が、パンクでもないのに自転車と共にしばらく佇んでいた。背中のボケットにある飲み物に手を伸ばすわけでもなく、夏の暑さの中、少々青ざめた顔をして、ぼそぼそと口の中で繰り返していた。


「Qさんが気が付いていたとしたら? あの女性が詐欺師で、いずれは捕まることも予想していたとしたら? 立ち退きの事はもちろんだけど、あの家に隠された資産があるのも知っている可能性は大なのだから。

でもそこまで考えるかしら? 私は此処に昔から住んでいるわけではないけど、聞いたところによると、Qさんはそれほど頭の回るタイプじゃないらしいって。

いや! でも、犯罪者は違う! 学校の成績なんて何の基準にもならない。Qさんもずるい所があったって聞いた。オレオレ詐欺なんて、むしろ考え抜かれたトリックを超えたものだわ! 

強制的にさせられた離婚、全く身寄りのない元夫、慰謝料でなくても、彼女にお金が入ってくる可能性が大きい。だから弁護士たちも足しげく通っている。

まさか、こうなることをわかっていたんじゃ・・・」


強すぎる日差しにもかかわらず、彼女の体温は着実に下がっていた。







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小恐怖 完璧な妻 @nakamichiko

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