下 蛟と平助
もとより食べること以外にさして興味はなかったが、集落の人間に贄を差し出させるようになって、飢える心配がなくなった。
集落に自分の水を分けてやったのも暇つぶしだった。貧しさにあえぐ人間を眺めるのにも飽きていたし、あの集落を守ってやる代わりに、他の里の湖を干上がらせたり、川を暴れさせたりする方が、いろいろと見比べられて面白い。
蛟は最初から人間を喰っていたわけではなかった。
魚や獣を喰うのと同じように、山に転がっていたのをいただいただけであった。しかしどうも、人間が特別おいしく感じたのである。
腹が膨れればいいとだけ思っていた蛟にとって、これは驚きだった。蛟はいつも獲物を丸のまま飲み込んでいたが、人間には飲み込んだ後に違った味わいがあるのだ。赤子は獣に近いがみずみずしい酸味があり、老婆はじんわりとした塩気や燻したような香りがある。
そうやって何人か人間を喰ってみて、これはどうも魂の味のようだ、と蛟は思い至った。人間は獣よりも複雑な生き物のようで、育っていく中で身についていった色々が、魂の味になっていくようだった。
それに気づいた蛟は、集落の贄をじっくりと吟味するようになった。
住処の
そうして蛟はたくさんの人間を喰っていった。
しかし、近ごろはそれにも飽きてきてしまっていた。
いくつかの世代をまたいだ集落は、生活の形が固まってきていたし、閉ざされているので新しいことが起こることもなく、贄になることへの諦めも満ちていた。似たような味の人間ばかりになっていたのである。
そんなとき、目につくようになったのが平助とミツの二人であった。
彼らは久しぶりに甘酸っぱい恋を育てていた人間で、祝言が近づくにつれ集落全体が浮足立っているのも見て取れた。
さて、と蛟は思案した。
二人に子ができるのを待ってそれを奪ってやるのが良いか、
こうして、ミツが贄に選ばれたのであった。
平助とミツの、涙と笑いに満ちた祝言を、蛟は舌なめずりしながら眺めていた。夜が待ち遠しかった。ミツが滝までやってきたときには、小躍りしそうな心持ちだった。
滝壺から顔を出して間近で見たミツは、ぷるぷると震えていた。
「
蛟はミツに、猫撫声でそういった。
ミツはびくり、と大きく肩を跳ねさせたが、おとなしく着物を脱いで裸になった。着物は人間を味わうのに少し邪魔なのだ。獣のように裸で生きれば良いものを、と蛟はいつも思っていた。
そうして生まれたままの姿になったミツを、ぱくり、と蛟はひと飲みにした。
ミツの魂は熟れた果実のようにとろりと甘く、しかし後から絶望がぴりりと追いかけてくる。嗚呼これは、思った通りのごちそうだ。
そんな風に味わっていると、にわかに祠の辺りが騒がしくなった。
様子をのぞいてみると、平助が暴れているようだった。ここまで取り乱す人間もまた長い間いなかったので、蛟は嬉しくなってしまった。そうして、ここで死なせるのは惜しい、とも思った。
蛟は平助に加勢してやることにした。ちょっと吼えてやっただけで、見張りたちは逃げ出してしまった。しかし少し遅かったようで、平助はもはや息も絶え絶えである。
少し考えて、蛟は喰ったばかりの魂を元にして、ミツの体に身を変えた。ちょうどミツの着物もある。慣れない人の体ではあるが、平助に近づいてみることにした。
「平助……?」
「ミツ、お前、生きとったか……!」
目の見えないのも幸いして、自分が蛟であることは悟られていないようだった。
蛟はしばらく平助を飼うことにした。ひとまず滝のねぐらへ連れて行こう。体は人間の娘だが力は蛟のまま、ひょいと平助を担ぐと驚かれてしまった。今後は用心しなくては。
それからというもの、蛟はミツのふりをして平助の世話をしてやった。
自分の力が濃く混じった水は、平助を病からは守ったが、失ったものを再生するほどの力はない。魚を取って食わせてやったり、体を拭いてやったり、こそばゆくなるような言葉を交わしたり、まぐわったりもした。まぐわうのは新鮮な行為だったが、食べるほど楽しいこととは思えなかった。ただ、平助がたいそう幸せそうなのをみるのは、気持ちが良いと思った。
しかし、そのような時間も長くは持たなかった。
「ミツ、近頃どうも手が冷た過ぎやしないか」
「……ここは暗いし、水のそばだし、体が冷えるんよ」
「魚の匂いも染み付いちまって……すまんな、俺がとってやれたら」
ミツの魂はもはや残っていなかった。蛟は
ここいらが頃合いなのだろう。
「ねぇ、平助」
「なんだ」
「あたしね、ミツではないの」
「……うん?」
「あんたの大嫌いな、蛇神さまよ」
蛟はちろりと舌で平助の顔を舐めて、そのまますぐに飲み込んでしまった。
もう少し絶望させるのも良かったのだが、存外、平助に情が湧いてしまっていたのかもしれなかった。
平助の魂は、どうしようもなくどろりと苦いが、懐かしい水底の匂いがした。
蛟はなんだか、ひと暴れしたい気持ちになった。
そうだ、平助の願いを叶えてやろう。
『こんな血なまぐさいムラなんぞ、流されちまえばいい』
蛟は滝に踊り込んで、黒雲を呼び、川という川を溢れさせた。
ざばり、ざばりと蛟が体をくねらせる度に、土が、人が、家が、流されていった。そうしてすっかり何もかもを押し流して泥をかぶった山の中へ、蛟はずるり、ずうるりと姿を消したのだった。
ミズチの嫁入り 灰崎千尋 @chat_gris
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